短編集「女」

青切

 妻が外に出たきり、帰って来なかった。

 そのようなことは一度もなかったし、家出の心当たりもなかった。

 ひとり息子が小学校から戻ったときには、すでにいなかったようだ。


 家事の途中で出かけたようであり、メモなどは残していなかった。

 携帯電話は電源が切られているようであった。


 深夜になり、義母に電話をかけたが、実家には戻っていないとのことだった。

 話し合いの結果、とりあえず一日待ち、帰って来なければ、警察へ連絡することに決めた。



 結局、妻は一週間後に帰宅した。

 息子が学校から帰ってくると、何事もなく夕飯の用意をしていたそうだ。

 携帯電話に息子から連絡が入ったので、私はそのまま、妻の携帯電話にかけなおしたが、つながらなかった。

 私は外出先から、急いで帰宅した。


 あら早いわねと、私に気づいた妻は、少し驚いた表情を浮かべただけで、作業に戻った。

 息子は、少し離れて妻をながめていたが、私に近づくと耳元でささやいた。

「ママのようすがおかしいんだ。この一週間、ちゃんと家にいたって言うんだよ」

 「そんなバカな」と、私は妻を問いただしてみたが、彼女には、私の言っていることの意味がわからないようであった。


「パパ。坊やとふたりで変ないじわるをしないで。私は毎日、家にいたでしょう?」

 妻にうそをついているそぶりはなかった。

 彼女の不在を証明できるものがあればよいのだが、何もない。

 私の手が回らずに汚れていたキッチンも、息子が帰った時には、すっかりきれいになっていたそうだ。

 ためこんでいた洗濯物も、タンスの中にしまわれていた。


「おかしな遊びはやめにして、ご飯にしましょうよ」

 不機嫌そうに妻が言い、私たちは食卓に着いた。


 すると、息子がまた小声でつぶやいた。

「あのママ、ほんとうにぼくのママかな」

 その疑問は、帰って来た妻の顔を見てから、私が感じていた違和感の正体であった。


 一週間前と容姿に変わったようすはなかったが、なにかがちがう。

 この女は、本当に、私の妻なのだろうか?

 私は確信が持てなかった。


 息子には、「つまらないことを言うな」と怒ってみせたが、食事中、妻に昔話を振り、その反応を見てみたが、彼女の記憶におかしなところはなかった。


 寝る時間になり、寝室のベッドで横になっていると、遅れて妻が入って来た。

 見知らぬ女とベッドを共にしているような錯覚に陥り、思わず苦笑した。


 仕事も忙しいし、大きな実害は生じていない。

 もう少し様子を見よう。

 何事もなければ、そのまま忘れてしまうだろうと、私は思った。


 翌日、相談していた警察に連絡を入れ、妻の無事を伝えた。

 ふうげんということにしておいた。



 数か月が過ぎても、私と息子は、違和感を拭えないでいた。

 家の中にいると、妻の姿をした別人が、こちらを観察しているような気分になり、落ち着かなかった。


 以前から、妻は私たちを見ていたのだろうが、やはり、何かがちがうのだ。

 妻の変化は、私たち以外の者でも気づくようであった。

 夫婦で犬の散歩をしていると、近所の人が妻を見て、一瞬動きを止めることが何度もあった。

 中にははっきり、「奥さん、雰囲気がずいぶんと変わりましたね」と、声をかけてきた人もいた。

 飼っている犬も、前は妻に甘えていたのに、この頃は近づこうとしない。



「あの子は、ほんとうにわたしの娘なのかしら?」

 お正月に、家族で妻の実家に出向いた際、義母がはっきりと口にした。

 私と息子、それに義父が、台所で皿を洗っている妻を見た。


 妻は、義母と前夫との間にできた娘であり、義父とは血のつながりがなかった。

 その義父が、私のグラスにビールをそそぎながら、つぶやいた。

「バカなことを口にするな、とは言い切れないな。おれも、長く一緒に生活していたからな」



 妻のまわりの者たちは、違和感を抱きながらも、以前と変わらず彼女に接した。

 ほかにどうしようもないではないか。


 ただ、私は理由をつけて、妻と寝室を分けた。

 お互いの年齢からして、それほど不自然な話ではなかった。


 息子も妻と距離を取るようになったが、こちらも、少し早い思春期ということで、彼女は納得しているようだった。


 家の中に気妙な空気が漂い続ける中、妻に乳がんが見つかった。

 発見が遅く、もはや手がつけられない状況であった。



 入院した妻は目に見えてせていき、かつての面影はなくなった。

 また、薬の影響なのだろうか、思い出話をしても、ほとんど話が噛み合わなくなった。


 私と息子、それに義母が看病に当たったが、私たちのほうから、妻に話しかけることは減っていき、最後のほうは、黙って彼女に視線を送るだけであった。



 しばらくして、最後の時が訪れた。

 私、息子、義母の三人に看取られながら、女は死んだ。


 医師がお悔やみの言葉を述べ終えても、私たちは無言のまま、やせ細った女の亡骸を、涙を流すこともなく、ただ見つめつづけた。

 お互い、口にはしなかったが、思っていることは分かっていた。

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