第23話 陶道麒の強襲
この回の主な勢力、登場人物
龍造寺氏 …肥前佐嘉郡を中心に勢力を張る国衆。少弐氏に従う
龍造寺
龍造寺
龍造寺
少弐氏 …龍造寺家を傘下に置く肥前の大名。大内氏と敵対
少弐
少弐
大内氏 …本拠は山口 中国、北九州地方に勢力を張る西国屈指の大名
大内義隆 …大内家当主
大友氏 …本拠は豊後府内 北九州に勢力を張る有力大名 少弐氏と友好関係にある
大友
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両雄並び立たず──
神代勝利が山内の盟主となった天文元年(1532)、北九州では大内と大友、九州屈指の大名の間に、抗争の兆しが見え始めていた。
これまで両家は、交戦と停戦を繰り返す間柄だった。
前回の抗争の末、停戦状態に入ったのが文亀二年(1502)のこと。
その後、大友当主、義鑑と大内義興の娘の婚姻が成立するなど、融和の時期が築かれていた。
しかし両家の関係は、この時期になり再び険悪になっていた。
原因の一つが、大友と対立し亡命した者を、大内が保護したことにある。
大永六年(1526)に家臣の小原
享禄五年(1532)頃までに、大友庶流の国衆である田原
これらの者を大内は受け入れ、扶持を与えていたのである。
目的は、亡命者の求心力や人脈を活かし、大友領内に混乱をもたらす時に利用するため。大友義鑑にとって看過し難いものだった。
そこに舞い込んできたのが、十二代将軍、足利義晴からの上洛要請である。
当時義晴は、その異母兄弟である堺公方、足利
これが抗争の引き金となった。
大友義鑑は「将軍の上洛下知(※当時義晴は近江に疎開中)に対し、大内は意に反している」事を大義名分に、挙兵すると宣言。
大内周辺の大名や国衆に対し、それを記した檄文を送り、大内包囲網への参加を要請。
そして豊前と筑前における大内領へと、侵攻を始めたのだった。
時に天文元年(1532、※七月に享禄から改元)八月のことである。
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「どうじゃ、加減は?」
「今日はいささか熱が下がりもうした。それゆえ豪覚(※家純次男、僧籍)が届けてくれた
「何だ、あやつ来ておったのか」
同じ頃、家兼は水ヶ江城の別館である、
病を得て伏せていた家純を見舞うためである。
季節外れの暑さにやられたのか、家純の容態は中々快方へと向かわず、熱が下がらない日が続いていたのだった。
「焦って治そうと思うでないぞ。肥前は今落ち着いておるゆえ、火急に呼び出されることも無かろう」
「しかし大友は大内と国境で戦を始めたとの事。我らに出兵を求めて来るのではないかと、家中の者達が案じておりまする」
「形勢が覆り、大友が劣勢に立たされるようならあり得る話だがな。しかし筑前も豊前も大友が今は攻勢じゃ。その詩経、百回読み返すくらいの余裕なら、十分にあるだろう」
「流石にそこまでは結構にござる。しかしいささか退屈しておる故、それがしも詩経に倣って、詩を作ってみるのも良いかもしれませぬな」
「それは面白そうじゃ。病が癒えた折には皆の前で披露せい」
「いやいや、下手の横好きゆえ勘弁下され」
家兼と家純は他愛のない談笑を続けていく。
大友と大内の抗争は、水ヶ江家中でも話題となっていたものの、あくまで対岸の火事。この頃の龍造寺家には、気持ちの上でまだ余裕があったのだ。
ただ一つ変わったのは、大友に対し
この頃の大友は、すでに領国の基盤を豊後から筑後、そして北九州各地に拡大しており、その影響力を龍造寺家は恐れたためである。
一方、戦況を知った義隆は、大内家中の有力者である周防国守護代、陶
さらに自らも出陣することを決め、十一月十五日に山口の大内館を出立。暫くして長府(下関市)に陣を構えたのである。
以後、戦況は膠着状態に入った。
豊前と豊後の国境付近にある要衝、妙見岳城を攻める大友勢は、大内方の佐田朝景らの抵抗にあって、突破することが出来ないまま。
一方筑前においては、大友方の立花山城を巡り、城外において両勢の戦闘が何度か行われたが、決着が着くには至らない。
その状況は年が明け、春の陽気に包まれる三月を迎えても、変わることが無かった。
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ところが事態は四月に入り、急展開を見せた。
「父上、一大事にござる! 陶道麒の軍勢が、国境を越え東肥前に入ったとのこと!」
「何?」
道麒が肥前に攻めてくる……?
足早に書斎に現れた家門の報告に、家兼は我が耳を疑った。
陶勢は筑前平定のために派遣された軍勢である。
その達成には、同地における大友の二大拠点を落とすことが不可欠だった。立花山城と
しかし両城とも未だ健在のまま。
しかも立花山城は、代々大友一族の立花氏が城主を務め、博多の東を守備するために築かれた要害である。
大内家の名将と称えられる道麒自身が、数か月に渡り攻めあぐねているのに、誰か他の者に任せる事など出来るはずがないのだ。
そして何より、この時期に肥前にやって来る意図が掴めない。
自分の理解が及ばないところで戦が動いている──
唖然とする家兼の耳に、家門の報告が続く。
「すぐに勢福寺城まで来るよう、大殿(資元)が仰せにござる」
「分かった、すぐに向かう。そなたはいつでも出陣出来る様、支度を整えておけ」
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「おお、御老公、よう参った。先ほど報せが届いた。立花山城が昨日落城したそうじゃ」
「昨日⁉ という事は、道麒は落城を見越した上で、こちらに向かってきたと?」
「そういう事になるな」
「しかし道麒に替わって大内勢を率い、あの堅城を落とす。そんな用兵に秀でた武将がいるとは」
「黒川隆尚という名の将じゃ。調略を用いた上で落としたと聞いたが、わしも家中の者も何者か知らぬ。御老公は存じておるか?」
黒川隆尚?
家兼は大内関係者を思い浮かべるが、心当たりはない。
その間、広間はしばし静寂に包まれていたが、苛立った興経の声にそれは破られた。
「父上、それよりも今は迎撃のことを」
「そうであった。して御老公、如何に対処する?」
「再び田手にて迎撃すべきでござる。至急近隣の国衆達に馳せ参じるよう、命じて下さりませ」
田手迎撃は、恐らく道麒も読んでいる。
しかし彼が西海道肥前路を進む限り、ここは避けては通れない。防衛上の要地なのだ。
そして幸いな事に、田手畷の時の大内勢よりも陶勢は小勢だった。
田手に籠って守るのは難しい事ではないだろう。
しかしその家兼の読みは外れた。
道麒は西進の途中、田手の手前になって急に進路を北に変えた。神埼郡北部、
わざわざ敵の集落に入ってすることは一つ、乱暴狼藉だった。
民家に押し入り、作物や物品を略奪し、人をさらう。戦国の世の常とは言え、自分の領内にて行われるのは、やはり屈辱というもの。
少弐家中の者達は黙っていられなかった。
勢福寺城にて行われた軍議で、興経は開口一番、陶勢への逆襲を宣言すると、たちまち多くの将から賛同の声が上がったのである。
しかし、この流れに家兼は、俄然として反対を貫いた。
「敵の挑発にござる。道麒は我らが田手にて守りを固められるのが、一番苦しい故、このような見え透いた手に出たまで。出撃すれば、自ら勝機を逸することになりますぞ!」
「ならばそなただけ残っておれ! 敵は以前より少数なのに、のこのこと我ら領内の奥深くまで侵入し、村々を荒らしておる。見逃せば少弐は腰抜けだと、世間の嘲りを受けるだけだ! 父上、すぐにでも出撃の許可を下さりませ!」
「ならぬ、御老公の申す通りじゃ。田手畷の二の舞は、大内にとっても避けたい所。その手立てに我々が付き合ってどうする? ここは我慢じゃ」
「されど、父上──」
「断じてならぬ!」
普段穏やかな口調の資元が、珍しく語気を荒げて制止する。
驚いた興経や諸将は、それ以上反論することはなかった。
ところが、その制止は一日しか効かなかった。
翌日、陶勢は石動から田手近くの
ここでも村々に乱暴狼藉を働いたため、田手の砦に民が避難する騒ぎとなったのである。
目の前でまさかの屈辱。誰が見過ごす事など出来ようか──
興経と少弐諸将の我慢はあっけなく限界を超えた。
そして資元もこれ以上の制止は出来なかった。
してしまうと彼らが独断で出撃する恐れがあり、家中が分裂しかねない。
再び開かれた軍議で、激しく憤る興経と諸将達に対し、彼は首を縦に振るしかなかったのである。
すぐさま少弐勢は、陶勢を駆逐するべく田手から出撃。
しかしそれは道麒の予見するところだった。やって来る少弐勢を、彼は準備万端待ち受けていたのである。
天文二年(1533)四月六日、神埼郡石動村、大曲村にて、少弐勢と陶道麒、天野隆重らの大内勢は交戦──
戦は少弐勢の敗北に終わった。
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