041.扇。
翻る紙から作られる風が、ふわりと髪を靡かせる。薄暗闇に浮かぶのは、空っぽで、空虚で、世界の不適合者たる空よりも、虚無の印象を増した微笑み。しかしながら、その笑みを向けられているこの場の大半が、それを知らずにいる。
首尾は上々、か。
ずらりと並んだ者の内の一人がそう言った。その者が纏う衣は緑の光を放ち、他の者達もみな、各々異なる色の衣を身に着けている。
具合はどうだい。
青の衣を纏った、また別の一人が口を開いた。その言葉に返すかのように、くつりと虚ろな顔が笑みを深める。
申し分ない。虹のが教育しているだけあろうて。
空の顔で、空の声で。
しかし言葉を発したのは、空とは違う存在だった。
空を器としてこの世界を織り成す、虚無。
こんなに相性が良いなんて、初代の再来、と言うべきなのかしらね……。
橙の光を放つ者が、少しだけ心配そうに眉尻を下げた。そうして、ちらりと空を伺うけれど、返ってくるのは笑みの仮面のみである。橙はゆるりと首を横に振り、溜め息を吐く。
今のところは問題ないけど、油断は禁物だね。今までも、そうだったんだから。
赤の衣の下から覗く唇が注意を促すと、こくりと周りの者達もそれに頷いた。油断は思わぬ事態を招く。今までも、目的を果たす寸前で、何かしらの邪魔が入った事は史実に述べられている。
あと少し、なのですよね。
藍色が問いかけ、上座に据わる世界の主を仰ぐ。ふわりと微笑んだ空の顔は満足感や喜びで満ちており、清らかささえ感じさせる。
あな、嬉しや。もう少しで我らの目的は果たされようぞ。
そーいや、不穏分子……っつーか、あの馬鹿共はどうするよー?
軽口でそう訊ねたのは黄色である。その言葉が指すところの不穏分子というのは、色よりも下の機関、空と共に定例会議に出席している彩の者達である。会議の度に空に向けられる悪意は、羨望が形を変えた憎悪である。
世界の統率者たる空という地位への。
ふむ。確かに失礼千万極まりない愚者共ではあるが、あれは捨て置いても良かろう。……真の者達は、闇に任せておる。
空の目が、黒とも見紛う紫の衣に向けられる。それに釣られるよう、その場の全員がそちらに目を向けた。
あなたに任せて、よろしいのですか?
橙が問う。紫は無言のまま空をちらと見て、首だけを縦に振った。くつりくつりと空が喉で笑う。
本日はこれまでと致す。虹には引き続き我らが空を頼み申すぞ。
ああ。
では、解散。
ぱちんと音を鳴らして、空は自身を扇いでいた扇を閉じた。と同時に部屋を覆っていた幕が開け、部屋の中に光が差し込む。みなが席を立ち、次々と退出していく。その中で、空と紫だけが、その場に残っていた。
雲。の、ことで、そなたに話がある。
二人以外の全員が去った後、空が口火を切り、紫は真っ直ぐに空を射据えた。
小さな世界の不適合者。雲は、我らが空をそう呼んだのう?
それがどうかしたのかい、虚。君に不都合はないだろう。
今のところは、と続ける紫の言葉に、空の顔で虚は笑う。
ほんにそなたは変わらぬ。一度はそなたを器にしようとも思うたが、やはり止めておいて正解じゃった。
まあ、我らの器は我らが空しかおらぬがの。
口元を綻ばせて虚が言えば、紫が嘲笑とも侮蔑ともつかぬ視線で、虚を捕らえる。
僕は君に従う義理も義務もない。君がどうであろうと知ったことではないし、君が僕に重ねて見ている者と完全に同じわけでもない。
感情を悟らせない無表情を構えながら、紫はするすると言葉を投げつけた。その度、虚はますます笑みを深めてゆく。
よく心得ておる。しかし、我らが主たる空の姿を、そなたしか分からぬというは、寂しいものであるな。
ぱさりと扇を広げて口元を隠し、虚はゆるりと溜め息を吐く。憂いを表す顔は、空がそうするよりよほど現実味がある。
それで、話は終わりかい。君の世間話に付き合う時間はないよ。今日は予定が詰まっているからね。
おや、と虚が眉を上げる。何やら珍しいものでも見たという表情である。再び、ぱさりと扇がはためく。
そなたが素直に我らに言うのは珍しい。……そうさの、では質問に答えたらば解放しよう。
なら、さっさと言ってくれるかい。
そなたはどこまで知っておる。――この世界と、我らについて。
溜め息混じりに紫の吐き出した言に虚が返せば、くすりと笑い声が一つ響く。虚の訊ねた内容が、さもおかしいとでも言うように。
何がおかしいのじゃ、闇よ。
いいや、何も。虚、僕は何も知らないし、知りたくもない。君が色達や小さな世界の不適合者を使って何をしようと、何を企んでいようと、興味もないさ。面倒くさいからね。
ゆるりと、紫の口元が孤を描く。それは紫の、心からの笑みだった。そうして、闇の称号を負いし青年は虚に向かって、目を見張るような言葉を投げた。
君があの時どうして始めの空を消したのかなんて、僕にはどうでも良いことだよ。
そう言ってその場を去ろうとした青年に、虚は手を伸ばした。しかし、青年の体はするりとそれを避け、青年の顔を覆っていた紫の衣だけが、虚の指先をかすった。ぱさりと紫の衣が落下する。刹那、金と銀の光が虚の視界を満たしたが、それはすぐに消えてしまった。
なぜ、そなたがそれを知っておる…………っ!
青年が去った後の部屋で、虚が苦々しげに呟く。
それは、初代の空と雲が亡くなると共に葬られた筈の真実。
それを知る者は、虚以外には誰もいないはずなのだ。
そう、誰も。
ふう、と息を吐いて、虚は扇で口元を覆った。
まあ、良い。あやつとて、全てを知っておる訳ではなかろう。
恐らく、知り得たとしても断片のみ。そう呟いた虚は、ふと先程まで青年のいた場所に何やら棒切れが落ちていることに気づいた。近付いて拾い上げれば、微かに花の香りがする。
これは……あの花の……。
手にしたそれは扇であった。恐る恐る開いてみれば、目に鮮やかな薄紅の世界が拓く。零れる程に咲き誇る、懐かしい花。虚の目から、一粒の雫が頬を零れ落ちる。
空。雲。
懐かしさが、何もないはずの奥底から湧いてくる。
ぬしらがあの時あのような事をせなんだら、まだ共にあれたであろうに……。
そう呟くと、花の描かれた扇を閉じて、虚は静かに目を閉じた。
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