040.消失。

 触れなければきっと気付かずにいられた。

 金と銀の狭間の色をした髪を風に揺らす青年を目の前にして、空は思う。触れなければ――関わらなければ、知らずに済んだのに、と。


 何、小さな世界の不適合者。僕に用でもあるの。


 空の視線を受けて、青年が非常に鬱陶しそうな顔で言う。別に、と空は視線を逸らしたが、青年の視線は空に向けられたままである。


 お前こそ、私に何か用なのか?


 挑発的な口調で青年に返すが、青年は応えずに無言で睨みを利かした。びくりと空が小さく震える。身が竦むのは、鋭い視線が怖いからではなく、その瞳に心の中を見透かされそうだと錯覚してしまうから。


 まあ、どうでもいいか。


 緊迫した空気が、淡白に告げられた青年の言葉に破られる。あまりにもあっさりと言われたものだから、空は両目を瞬かせて思わずまじまじと青年を見つめてしまった。


 何。言いたいことがあるなら聞いてやらなくもないけど。


 上から目線で聞いてくる青年に文句を返すことも忘れて、空は思い浮かんだ台詞をそのまま口にする。


 お前は、本当に何にも心を寄せないのだな。


 それを聞いた青年は一度瞑目し、再び目を開いてから、つかつかと空に歩み寄った。余りにも静かなその動作に空が動けずにいると、すぐ傍まで来た青年がその額を指で弾いた。空の体が、大きく仰け反る。


 痛っ!


 突然青年から意味の分からない攻撃を受け、床に倒れ込んだ空は、そう叫んで弾かれた額を押さえた。一点へ力を集中させるその攻撃は、普通に殴られるより痛みが持続する。


 雲! お前、何をする……っ!


 じんじんと神経を伝って侵食していく痛みに、空の目尻にはうっすらと涙が浮かぶ。青年を睨み付けても、これでは効果が半減してしまう。生理現象というのは全くもって厄介だと、空は思った。元々、青年はその程度で怯むような相手ではないために、なおさら。


 君の額を弾いただけだよ、小さな世界の不適合者。


 そんなこと言われなくとも分かるわ!


 そう叫びながら立ち上がったところで、ふと、世界の統治者である己の額をこうも何度も弾いてくる青年の行為は、罪に問われはしないのだろうかと、空は考えた。それを言ったら、会議の度にこれ見よがしに陰口を叩く連中も不敬罪に当たる気がしないでもない。何だか面倒な事になりそうな予感がして、空は考えるのを放棄した。


 まあ確かに、虹に知られれば怒られそうだね。君が、だけど。


 まるで心の中を読んだかのように青年が告げる。いつものことながら空は文句の一つも言いたくなったが、虹の名前を出されて押し黙った。青年の言う通り、世界の頂点がなんてざまだと怒られるのは空の方である。


 なんで、私の額を弾く必要があったんだ?


 そこに君の額があったから。あればできるけれど、なければできないだろう。


 確かにそうだな。……なんて納得するか! わざわざこちらに移動までした癖に白々しく言うな!


 一人で勝手に納得し、その上でまた勝手にそれを否定する。そんな空の言動に青年が呆れたように溜め息を吐く。


 うるさいよ。僕を見る君の目に苛立った。君の言葉が、殴りたくなるほどむかついた。指先だけで済ませておいたんだ、感謝ぐらいしてほしいものだね。これで満足かい。


 溜め息混じりに淡々と吐き出されていく言葉は、全く色のない声で告げられた。そのあまりの冷たさに、背筋に冷たい物が伝ったかのように、空が大きく肩を揺らす。しかし、ぐっと唾を飲み込んで、空は青年と真っ向から対峙した。


 ……私は、怖いんだよ。お前が、私の前からいなくなるのが。


 ――なんだか、消えそうな方だと思います。

 雨の言葉が空の脳裏で蘇る。あの時に気付いてしまった事。それはたぶん、空の勘違いではないはずだ。


 お前は何に対しても、特別に感情を抱かない。まるでお前の目に映る全てが虚像で、お前にとって何の意味もないかのように。

 いつか、その時が来たら、すぐにでも消えてしまえるように。空には、そう思えてならない。


 消える、ね。ふうん。


 青年が面白そうに口角を吊り上げる。三日月のような孤を描いた唇が、何故だか空の焦燥感を煽る。


 例えそれが事実であろうとなかろうと、君には、関係のないことだろう。


 恐怖など抱く必要はない。他人事のように青年が言い切り、何も映さぬ一対の瞳が無造作に空を見つめる。君には、という言葉の強調。その意図に気付き、空は俯いて唇を噛み締めた。


 …………関係は、ないかもしれない。でもな、雲。


 震える唇で、震える声で、空は言を紡いだ。例えば、空っぽな空には、それが何の意味も成さずとも。それでも、空は。


 消えていいものなんて、ないんだ。お前も、世界も、世界にあるどんなものも。


 それは、あるいは、己の消失を願う、空自身でさえも。

 そう心の中で続けた空が顔を上げれば、そこには人を食った猫のように、愉快そうな笑みを浮かべる青年の姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る