035.雑音。
ざわり、と空気が波打った。ざわざわざわざわと、それは何度もささめきを繰り返す。分かっているよ、と言い聞かせるように、空はその声達に呟き返した。
――きゃは。
子供のような高い嗤いが混じる。きっと他の誰にも聞こえはしない。空だけに聞こえる、雑音。
何してるの、小さな世界の不適合者。
突然、雑音の回廊を割って、どこからか明瞭な声が響いた。空は反射的に振り向く。空っぽな感情を写す瞳が、そこに金と銀の輝きを認める。雑音は、未だ止まない。
雲……いや、何でもないさ。何か、用か。
空の質問に応えるように、青年が手に持っていた本を見せつける。資料と思しきその本は、この通路を抜けた先にある部屋にあった物だ。
立ち止まられると邪魔だよ。
ああ、すまない。
素直に謝って、空は道の隅にどく。そのまま行くかと思いきや、青年がつと睨むように空を見据えた。
彼らの声は、君が気にすべき事ではないよ。その程度で立ち止まるな。
青年の言葉に、空が目を丸くする。瞬時にその意味を理解し、空は青年に問う。
お前にも、聞こえるのか。
罵り、慟哭、嘲笑、はたまた叫び。様々な声が入り混じり、ざわめき合う。時折訪れては耳を犯し、勝手に去っていく。さざめく声は、一人でいようと他人といようと関係なくやって来た。
どうだろうね。
青年が返す答えは、曖昧模糊としている。不明瞭な応えに、しかし空は確かに青年にも聞こえているのだと知る。真っ直ぐに見つめ返せば、空を嘲笑うかのように青年が鼻を鳴らした。
それは、世界の囁きさ。世界から外れた不適合者しか聞き得ない、綻びだよ。
それは、青年にとってみれば取るに足りない出来事だ。不快感や不愉快な感情を抱くまでもない、くだらない事。どうしようもなく、くだらない事だ。耳を塞ごうが、聴覚をなくそうが、生きている限り逃れようのない囁きなのだ。ただ青年が世界の不適合者であるが故に。
綻び……?
高く低く小さく大きく響くこれらの雑音が世界の綻びだと、青年は言う。疑問符を浮かべる空に対して、青年が笑みを返す。常とは違う、どこか不可思議な雰囲気を持つ笑みだった。
世界が在り合わせで歪んでいる限り、綻びが生じるのは当然だよ。まあ、それを受けるものが限られているというのは、少し気に食わないけどね。
えっと、その綻びは、直す必要がないのか……?
ないよ。勝手に修復されているのさ。今のところはね。
雑音が、ぴたりと止んだ。虚無の瞳が、見つめ合う。交錯する視線に何らかの意図はなく、けれども双方ともに視線を逸らす事もせずにいた。時が止まったかのように沈黙のみが流れゆく。暫しの後、青年が口を開いて、忠告とも非難とも取れる言葉を空に投げた。
どうであれ、それは君が背負う必要のないものだ。むやみに無意味な意味を持たせようとするんじゃないよ。
歪められた赤色が宙を躍る舞姫を思わせて、酷く蠱惑的だった。
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