036.歌。
柔らかな歌声が風に乗って辺りに響き渡る。空気が澄み渡る、美しく優しい鎮魂歌だった。
夢。
軽やかに音を紡いでいた夢が歌うのを止め、声のした方を振り返る。そこにいたのは、兄である霧と同様に夢が好いている青年であった。風に揺れる金と銀の髪が、宙に溶け込むような澄んだ光を放っている。
珍しいね、霧がいない。
霧と夢は特別な場合を覗いて、日常的な時間は殆ど共に行動している。ましてやここは霧達の屋敷であるから、なおさらのことだった。
兄様は、空様と……お話、しているわ。
青年の疑問に、鈴の音よりも澄んだ音色で夢が言葉を返す。
小さな世界の不適合者と、ね。それもまたずいぶん珍しいことじゃないか。
小さな……? ……そうね、兄様が空様と二人っきりになるのは……うん。少し、珍しいかも。
小首を傾げて少し考え込んでから、夢はそう言った。その間について、青年はあえて触れずにおく。
でもね、兄様は空様のことを気に入っているのよ。だから、意地悪するの……。
……それ、どういう因果関係になってるのさ。
意味がわからない、と青年が呆れて溜め息をつき、ふふ、と夢がかすかに柔らかな笑みを浮かべる。
兄様は、雲のことが大好きなの。それから、空様も好きだから。私も兄様といっしょ。雲も、空様も、大好きよ。
ますますもって理解できない話の進め方である。やはり夢もあの霧の妹であるだけに、人が困惑するような話し方をするようだ。だが、そんなものは些末なことでしかない。霧と夢とはもう長い付き合いになる青年にとって、今さら気にすることでもなかった。
……まあ、僕も君達のことは憎からず思ってはいるよ。
それなりに気に入ってはいるのだと告げる青年に微笑みで返し、夢はくすくすと小さく笑い声を上げた。
うん。ありがとう、雲。
礼を言われる意味が分からないよ。
溜め息を吐きながら、淡々と言葉を紡ぐ青年に夢はますます嬉しそうな顔をする。とは言うものの機微の変化であるそれは、親しい者にしか分からない表情である。
空様のことは……?
興味はあるけどね。君達のような感情はないよ。
興味はある。けれども青年のそれは好き嫌いで語れるような類の感情ではない。空が、あの空っぽな人間がいつまで空のままであれるのか。それが興味を引くだけのことなのだと青年は思っている。
じゃあ、きっと特別なのね……。私ね、空様は、たぶん……雲のことが、好きだと思うわ。
そうだろうね。あれは誰にでも好意を向けるから。
その好意は家族に向けるような情と同じだ。空は他人に対して甘過ぎる。青年からしてみれば、吐き気がするほど。そのくくりに、不本意ながら青年も含まれているのだ。
……まあ、それも今の内だけだろうね。
小さく呟かれた青年の言葉は、夢には届かない。青年の本当の存在意義を知ったら、空はどうするのだろうか。それは偶に浮かぶ疑問であり、時が満ちるまではまで絶対に、空にも他の者にも知られてはいけないことだ。例え、青年がそれなりに気に入っていて、青年の親友だと自負する霧や夢にでも。
むしろ、気に入っているからこそ知られるわけにはいかない。
あのね、雲。兄様は、もう少し、空様と……お話、するみたい。何か、歌う……?
うかがうように青年を見て夢が問う。
賛美歌。
分かったわ。
短く返した青年の要求通りに、夢は神を讃える歌を口にする。神々しさを含む言の葉が宙に散り、風と共に流れていく。軽やかに舞い踊る音達は、屋敷の中にいる二人まで、届いていった。
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