深紅の紋章Ⅱ・雨のあと春の月

矢芝フルカ

第1話 代書屋



 4月になるというのに冷たい雨が降る夕暮れ、ママは言った。

「いいわね、アメル。玄関にしっかり鍵をかけて、誰が来ても開けてはダメよ。それからね・・・」

「大丈夫よ、ママ。ちゃんと1人で留守番できるから」

 わたしは胸をはってそう言った。

 日が暮れてから1人きりになるのは初めてだったから、本当はちょっと怖い気持ちもあったけど。

 でももう12歳だから。学校の同級生の中には、夏から家を出て働く子だっているのに、留守番ひとつできないようでは、笑われてしまう。

「・・・そうね、アメルは大きくなったのよね」

 ママはわたしをギュッと抱きしめた。

「いい子だなアメル。明日の朝は、お前の好きなものを作ってあげるよ、何がいい?」

 パパはわたしの頭にポンと手をのせた。

「じゃあパンケーキ!・・・一緒に作りたい。ね、いいでしょ?」

「さて、アメルにできるかな?」

「できるわ。だってわたしはパパみたいな、コックさんになるんだもの!」

「そうかそうか、よし一緒に作ろう。寝坊したら待っててやらないぞ~」

 笑って、クシャクシャとわたしの頭を撫でる。大好きな、パパの大きな手。


 そしてパパとママは、雨の降るなか荷馬車に乗って出かけて行った。


 そして・・・

 そして・・・

 帰って来なかった・・・。



 目が覚めて、アメルはなぜ知らないベッドで寝ているのかを思い出すのに、少々の時間が必要だった。

 窓の辺りだけがほのかに薄明るいだけで、あとは黒一色の闇だ。まだ夜が明けていないらしい。

 横になったまま目を凝らしていると、次第に慣れてきて、部屋の様子をうっすらと捉える事ができるようになった。


 左側、窓に近い方に机。右側には扉の付いた背の高い家具。そしてアメルの足元から向こう側にも、やはり同じような配置でベッドや家具が並んでいるようだ。自分のものではない寝息も聞こえる。

「・・・ああ、そうだった」

 ぽつりと小さな声が漏れた。ここはエリザ学院の寄宿舎、割り当てられたふたり部屋の一角。それが昨日から突然、アメルの住まいとなったのだ。


 両親を事故で亡くして、初めて祖父の家に連れて行かれた。「働きたい」と言ったのに、学校に入れられてしまった。

 どうしてこうなったのか、アメルには分からない。

 一緒に付いてきてくれたテレンスとも、祖父の屋敷の応接間で別れたきりだ。彼はこの事を知っているのだろうか。・・・それとも、もう会えないのだろうか。


 このエリザ学院は女子だけの学校で、寄宿舎に男性は決して入れてはいけないのだと、舎監しゃかんだという婦人から言われたのを思い出す。

 テレンスは男性だから寄宿舎には入れない。父の友達のバートも、従兄いとこのジェフリーも男性だ。アメルが親しく思う人たちはみなここには来られないのだ。


 とうとう本当にひとりぼっちになってしまったのかもしれない。そう思い至ると、鼻の奥がツーンとしてきて涙がこぼれ落ちる。

 軽くて薄いのにやけに暖かい毛布を頭まで被って、アメルは声を殺して泣いた。



 同じ夜、アメルの祖父であるジャック=ウィルトンの屋敷を出たテレンスは、歓楽街で食事をしていた。

 すっかり血の気が失せた酌婦しゃくふの身体をわきによけて、テーブルに酒代を置き店を出る。

 若い生き血で軽くなった身体にまかせて高く跳びあがり、建物の屋根から屋根へと駆けて行った。

 次第に街の灯が遠ざかり、夜が濃くなりはじめる。眼下では密集していた建物の代わりに、うっそうとした木々が枝葉を広げ、闇を揺らしていた。

 その中に、忘れられたような古い家がぽつりとある。淡い微かな明かりがこぼれる窓に向け、テレンスは降りて行った。


「おかえりなさいませ、盟主めいしゅ

 窓から飛び込んだテレンスを、うやうやしく迎えたのは、ふっくらと丸っこい身体つきをした中年の女であった。

 深夜、月明かりも届かない林の中でありながら、蜀台には蝋燭がひとつともるのみ。

 オレンジ色の火影が部屋の造形をぼんやりと映すだけだが、彼らヴァンパイアにとって充分すぎる明かるさだ。

 テレンスは暗い部屋の奥へまっすぐに歩いて行き、マホガニーの椅子に身体を預ける。

「マーサ、茶の準備をしておいてやれ」

 主人の言葉に、マーサは愛嬌のある丸い顔をかしげて、

「お茶ですか?どなたかいらっしゃるんで?」

 と、返した。

 テレンスは軽く笑うと、椅子に座ったまま部屋の中央に手のひらを向ける。彼の藍色の瞳が、深紅に染まった。


謹聴きんちょうせよ、血の盟約を結びししもべらよ。なんじが盟主ミセリコルディアのテレンスが下命かめいする」

 手のひらの先に深紅の光が集まり、有翼一角獣アリコーンの紋章を描き出す。

遼遠りょうえん悠久ゆうきゅうの縛りを断ち、我が前にさんじよ」

 テレンスの声に呼応するかのように、紋章は光を放ちながら空間いっぱいに大きく拡がった。

 床と天井と壁とに届くほどになると、何かを包み込むように、紋章は空間を巻き込み始める。やがて、人の立ち姿の輪郭が見えた。


「汝の名は・・・盟約者オスカー!」

 テレンスの声が響き渡り、光が弾け飛ぶ。そして紅い残照をまとった若い男が現れた。

御前おんまえに、盟主」

 煉瓦れんが色の髪をした、少年のように華奢きゃしゃな若者は、テレンスを前に、床に膝をついてこうべを垂れた。


「久しいな、オスカー」

 名を呼ばれた若者は、そばかすのある顔をにっこりとさせる。

「はい盟主、ご無沙汰ぶさたして申し訳ありませんでした。マーサも久しぶりだね」

 オスカーは膝をついたまま、自らのあるじこたえると、その横に控えるマーサにも笑いかけた。

「ああ、オスカーさんがばれるんでしたら、ミートパイでも焼いておくんでしたよ」

 そう言って、マーサは小走りに部屋を出て行く。

「それは残念」

 明るく笑い飛ばしたオスカーは、テレンスにうながされて立ち上がった。


「それにしても珍しいですね、盟主が召喚を使うなんて。何か急なご用命でも?」

「お前の代書屋だいしょやとしての力を借りたい」

 テレンスは1枚の紙をオスカーに差し出した。

「それらの書類を整えてもらいたい。できるだけ早く」

 受け取った紙に目を走らせていたオスカーの顔が、みるみる驚きの表情へと変わる。


「・・・え?教職免許状・・・って、えっ?・・・盟主、あの、学校の先生をなさるんですか?」

「そうだ」

 悠然と答えるテレンスだが、オスカーの方は困惑を隠せない。

 長年・・・本当に長い年月、テレンスを盟主と仰いでいるが、こんな命令を受けるのは初めてだ。


 オスカーは、部屋のすみでお茶の支度を始めたマーサに、すがるような視線を送る。

 気づいたマーサは、大げさに溜め息をついて、

「やれ、今度は学校の先生をなさるので。小さな花嫁様をお護りするのも大変でございますねぇ」

 と、なかば呆れた声を上げた。オスカーがポンと手をひとつ叩く。

「・・・ああ、そうだ。盟主は花嫁を定められたのでしたね。でも、護るとは?伴侶の結界だけでは足りないので?」

 オスカーの疑問を、マーサが受ける。

「盟主の座を狙う不心得者ふこころえものがいるんですよ。それが人間とも絡んでましてね」

「えっ!・・・そりゃ不心得というか命知らずっていうか・・・」

「まぁ、そうなんですけどね。小さい花嫁様はアメルちゃんと言って、可愛らしい御子おこでしてね、そりゃあ盟主になついていて、盟主の可愛がりようったら・・・」


「ち、ちょっと、マーサ、マーサ・・・」

 調子よく話し出すマーサに、オスカーが青ざめた顔で目配せをする。

 椅子の肘掛に頬杖を付き、脚を組んだ姿勢で、テレンスはふたりの会話を黙って聞いていた。

 ・・・が、床に着いている方の足元の辺りから、漆黒の闇がじわじわと湧き上がっているのを、オスカーは見逃さなかった。

 あるじ不穏ふおんに、マーサはその口を閉じたが、顔は可笑おかしさをこらえるようでもあった。


「・・・事情はいずれ話す時もくるだろう」

 仕切りなおしとばかりに、テレンスが低く言った。

 彼の足元の闇は消え、何事もなく絨毯じゅうたんのオダリスク模様が見て取れて、オスカーはホッと安堵あんどの息をついた。

「それで、いつごろ手配できるか?オスカー」

 テレンスの問いに、オスカーは再び手元の紙に目を落とす。しばし真剣な顔つきで考えてから、

「朝までには」

 と、笑顔で返す。

 テレンスがうなずくと同時に、オスカーの姿が消えた。


「あれ、お茶くらい召し上がって行かれれば良いのに」

 大きく開かれた窓に向かって、マーサが肩をすくめた。

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