迷宮都市ナイトウォッチャーズ

本田玲臨

第1章 出逢-Dans le labyrinthe-

第1話:迷宮都市アルトロワにて

 蒸気機関大国の名を冠するヴィエンヌ帝国。その首都エヴリアルからおよそ三百キロメートルほど離れた地に、帝国第五の都市たるアルトロワはあった。

 その上に広がる空は、常にどんよりとした曇り空。澄み切った青は見えない。これは、都市のあちこちから噴き出す蒸気や煤煙が、黒い霧ブラック・フォグと呼ばれるものを形成し、空へと立ち上るために起こる事象である。この事象は空だけでなく人々の生活圏でも起こっており、歩く人の視界を不明瞭にし、肌や衣服を汚している。

 フェイは、そうした汚れが衣服に付かないよう、白灰のケープコートをしっかりと着込み、駅の改札口方面に向けて歩廊の上を歩いていた。そのフードの下には好奇心に満ちた銀の瞳があり、キョロキョロと周囲の様子を観察する。

 歩廊のベンチに腰を下ろし、新聞を広げて読む紳士。傘を差して歩きながら、談笑を楽しむ貴婦人達。弁当売りの少年は、汽車に乗った乗客と窓越しに世間話をしながら商品を進めていた。その横を通った車両整備士の若者数人は、次の運行を控えた煤塗れの汽車を、デッキブラシで磨き始める。

 目まぐるしい都市部の生活風景を見ながら歩いていると、幾つものランタンを背中の鞄に吊った少女が、フェイの傍へ駆け寄ってきた。


「ねえねえおにいさん、ランタン一ついかがですか? アルトロワは薄暗い街だから、ランタンが無いと歩くのも大変よ!」

「……お心遣いありがとうございます。ですが、生憎とランタンは持っていまして購入は、」


 フェイが眉尻を下げつつ、コートの下に吊ったランタンを見せようとした時には、少女は大きな舌打ちを打って、さっさとフェイから離れていっていた。

 去りゆく逞しい後ろ姿に感嘆の息を零していると、甲高い笛の音が歩廊全体に響き渡っていく。駅務助役の駅員が吹いた笛だ。その合図に合わせて、フェイの横にある車両からカンカンと発車ベルが打ち鳴らされる。

 その蒸気機関車は、先程までフェイが乗っていた夜汽車──北の大都市であるルグミアンからの寝台夜行列車『あかつき』。その汽車は今、終点である帝都に向けて、動力車の黒筒から激しい噴煙を噴き上げながら出発していく。それに追随するように引かれる旅客車両。

 走り去っていく姿を、フェイは立ち止まり見えなくなるまで眺めていた。


「よし」


 それから、フェイは誰にも聞こえないような小さな声で気合を入れ、改札口へ向かって再び歩き出す。身に纏う白灰のケープコートは、すっかり煤煙で薄汚れていた。


 駅員へ切符を渡し、改札を出て駅構内へ。

 汽車の発車ベルや汽笛、駅員の笛の音は聞こえなくなり、今度は人々の喧騒と歯車の回る音が、ホールのように広い構内に響いている。


「いらっしゃい、いらっしゃい!」

「はい、その件につきましては、」

「今日はどこの娼館に行くかね?」

「あそこの小道、小鬼グレムリンが出たそうよー」

「美味しい美味しいマフィンは要りませんかー?」

「ねえ、また中部階層ミッドタウンで消えたらしいわ、一人。魔術師の仕業だとか」

「あのお店の新色の口紅リップよ」


 今まで住んでいた場所からは考えられないほどの聴覚情報の多さに、フェイは人差し指で右の目頭を押さえ、もう片一方の手できゅうっとトランクを握る。クラクラとした目眩が収まったのを感じ取ってから、フードの下の目を右往左往させて、待ち合わせ場所の目印を探し始める。

『駅舎内のステンドグラスの近くで待ってるよ』

 フェイは、手元に届いた手紙の一文を思い出しながら、それらしい場所を探しながら歩いて行く。その姿はまさに、田舎から出てきたばかりのおのぼりさんといった風で、薄汚れた衣服を纏う男や若い女などが、ちらちらと視線を向けてフェイを観察している。そういった目を一身に受けているはずの本人は、それらの視線に一切気付かずに、広い構内を彷徨い歩く。

 目当てのステンドグラスはなかなか見つからず、フェイが出た改札口とは真反対の方へ差し掛かった時。とうとうフェイの目はそれを捉えた。

 煤煙と蒸気で作られた黒い霧ブラックフォグが空を覆っているため、ステンドグラスを照らす日光は弱く頼りない。しかし、そのぼんやりとした明かりが、幻想的な雰囲気を作り出していた。その美しさに息を呑み、目をめいっぱいに開いて三枚の図柄を見やる。

 緑の生い茂る草原に生える花。澄み切った青空を飛ぶ鳥。大海原を泳ぐ魚。どれも工業都市であるアルトロワでは見られないものだ。それゆえに、これらがモチーフとして選ばれたのだろう。


「すごいなぁ……」


 フェイはぼそっと呟き、それからハッとして、周辺のベンチや道行く人々を見る。誰もフェイの呟いた声に気付いていないようだった。ほ、と胸を撫で下ろした、その時である。


「いつ見ても綺麗だよねぇ」


 フェイの背に、声がかかった。

 振り向いた先に立っていたのは、紺色の外套を着た人物。声音からして、性別は男。フードを深くかぶっているため相貌は分からず、「は、ハア」とフェイは曖昧な返事を返す。

 そんなフェイの反応など素知らぬ風で、フードの男は目の前に立つ。鼻をくすぐるのは、甘い香水と煙草の煙。それらの匂いに、フェイは覚えがあるような気がした。


「ちょーっと動き見てたけど、そんなにキョロキョロしてちゃ、るの簡単なカモって言ってるようなもんよ? ……フェイちゃぁん」


 ややねっとりとした物言い。その呼び方と声色に、フェイは僅かに目を瞬かせてから問う。


「その、もしかして……シャルル、さん、ですよね?」

「……そうだよ、正解。久し振りだね、フェイちゃん」


 男──シャルルの口元が、にひりと歪む。その笑みを見たフェイの目は大きく見開かれ、それからパアッと花が咲いたように笑んだ。


「お久し振りです、シャルルさん! 六年……ぶりくらいですか? 会えて嬉しいです!」

「僕も嬉しいよ。いやぁー、それにしても伸びたねえ、フェイちゃん。昔は僕の方が高かったのに」

「ふふ、ずっと悔しくてミルク飲んでましたから当然です。私にも成長期はありましたから!」


 ふんす、と鼻息を荒くして得意げに語るフェイに、シャルルは苦笑を浮かべながら相槌を打つ。

 彼の名は、シャルル・ワトー。フェイの同郷の友人であり、手紙を送って来た張本人である。


「それで、私の手を借りたいっていう話ですけど、どういうことなんです? 私、そんな大したこと出来る人間じゃないん、」

「まあ、それは僕の職場についてから話すよ。とりあえずまずは、昇降機リフトでここから降りよっか」

「あ、はい……。分かりました」


 シャルルはくい、と顎をしゃくって、人の流れに合わせて歩き始めた。フェイはシャルルを見失わないよう、紺色の外套の背をしっかり睨みながらついて行く。

 昇降機リフトは、横並びに四台。鳥籠を大きくしたような形のそれに、人が乗ったり降りたりしている。初めて見るゴツゴツとした意匠の機械に、フェイは目を瞬かせながらその光景を観察するように見ていた。そんなフェイの様子を見て、シャルルはくつくつと笑う。


「う、な、なんですかっ」

「ふはっ。いやあ、田舎者丸だ……、えと、久し振りに純粋な反応見るなあって。僕、もう慣れちゃったからさ」

「わ、悪かったですね、田舎者で!」


 む、と眉間に皺を寄せながら、フェイはシャルルへ抗議する。シャルルは「ごめんごめんねぇ」と謝っているが、フェイは彼のことについてはある程度学習しているので知っている。これは口先だけで謝っている、と。

 さらに眉間に皺が寄っていくが、懐かしいやり取りに自然と皺は伸びてしまう。

 そして二人は、数人の紳士淑女と共に昇降機リフトへ乗る。乗ったと同時に、ガラガラと籠の上の付け根の歯車が回り出し、鳥籠は下へゆっくりと降り出す。フェイは籠の合間から、街の風景が望んだ。

 その街は流石、蒸気機関大国指折りの大都市と言うべきか、あちこちで大きな歯車が回っており、張り巡らされた排管からは白い蒸気が吐き出されている。天をくほどの高さを誇る高層建築物が建ち並び、またそれに添っていく形で建築物が建てられていた。

 今自分は、『あかつき』の車窓から望んだ煉瓦と鉄の山の中に居るのだという感慨を、フェイは胸中に抱く。


「……ほんと、凄いなあ……」

「ま、ここアルトロワの上部階層だしね。観光客が多いとこだから、お偉いさんもしっかり整備してんのよ」

「はへぇ」


 フェイの口からは、何とも言えない声が出た。今まで木の生い茂る村で暮らしていた田舎出の若者には、都会に転がっている情報量は多すぎる。それをシャルルは感じ取ったのか、昇降機リフトが止まるまで二人はそれ以降は特に会話を交わすことはなかった。

 時間にして十数分。昇降機リフトは止まる。ぞろぞろと降りる人の動きに合わせて、フェイとシャルルも降りた。腹の底に浮遊感を感じながら、よたよたとフェイはシャルルの後ろをついて進む。

 目の前に広がる都市生活の風景に、フェイは再び間の抜けた声を口から零す。対するシャルルは、相変わらずの黒い霧ブラック・フォグが覆っている街の様子を一瞥し、後ろに立つ年下の友人フェイへ恭しく頭を下げる。胸に手を当てて礼をするその所作は、従僕が主人へ敬う時の動きだ。


「ようこそ、迷宮都市アルトロワへ。心から歓迎するよ、フェイちゃん」


 そう言って、フードの下に隠れた口元をくすりと歪めた。

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