第71話 全然駄目だね
どんどんと変化していく現状に戸惑いつつも、悪い方向に向かっていない事への安心感から、あの荒んでいた自分の心も少しずつ回復していく様な気がしていた。
とはいえ、まだまだ晴れやかな気持ちになっているわけじゃない。
今日の様な、梅雨の空模様の様な、降りはしないがどんよりと曇っている空の様な気分だった。
特に陸上に関して、僕はまだ完全に吹っ切れていない。
でも、なぜかワクワクしてしまう。
まるで昔の恋人に会いに行くような、そんな気持ちになってしまう。
僕は引退した、それは自分の中ではっきりしている。
そして指導者の道に進むつもりも無い。
そもそも小学生の時にしか活躍していない僕が指導者になれるなんて思っていない。
だからこれからは一ファンとして、観客席やテレビで見るつもりでいたのだけど……。
「頼まれると断れないよなあ」
特に女の子からの頼みはねえ……。
そんな事を考えながら、以前使っていた肩掛けバッグに諸々詰め込み、僕は近所の公園にやって来た。
「先輩~~~~」
公園の入口でトレーニングウェア姿の灯ちゃんが手を振っていた。
白いトレーニングウェアに包まれたその姿は、まるで白ウサギの様に愛らしい。
「お待たせ」
「あ、持ちますって! 重!」
「あははは、結構大変だった」
杖を片手に重いバッグを背負うのは思ってたよりも大変だ。
「何が入ってるんですか?」
「まあ色々?」
「フーーン」
不思議そうに鞄を見る灯ちゃん、とりあえず公園の中に入りベンチに荷物を置く。
「ウォーミングアップは?」
「いつでも走れますけど、ここで走るんですか? 学校の競技場じゃ駄目何ですか?」
「いや、駄目でしょ?」
僕があそこに行くのは何かと問題がある。
それでこの間は会長に頼んで走らせて貰ったけど、今日はさすがに頼めない? いくら会長の妹だとしても。
僕達は荷物をその場に置いたまま、公園内にある小さなグラウンドに足を運ぶ。
小さな公園、近くには池のある大きな公園があるので、ここはあまり人が来ない。
このグラウンドも、日曜日にはゲートボール会場となるが、基本球技は禁止となっているので普段は殆んど使われていない。てか、ゲートボールって球技じゃね?
「斜めに走れば70mくらいあるかな?」
「スパイクも履かなくていいんですか?」
「まあ、今日は走る姿をみたいだけだから」
見ればどのくらい走れるかわかる……まあ、全国を目指してるのだから、全国クラスなのは間違いないのだろうから。
「はーーい」
灯ちゃんは少し残念そうな顔で、ここで走る事を渋々承諾する。
「じゃあ僕は真ん中辺りにいるから、自分のタイミングで走っていいよ」
そう言って僕は中間地点迄ゆっくりと歩いていく。
どんな走りを見せてくれるのだろうか、僕は期待に胸を膨らませ彼女のスタートを待った。
「いきまーーす」
灯ちゃんはトレーニングウェアを脱ぎ、中学のユニフォーム姿になる。
高校の水着の様なセパレートタイプではなく、普通のランパンランシャツ姿だ。
でも小さい身体から伸びる長い手足、そして露になる太もも、会長同様にスレンダーなスタイルに、こういった格好を見慣れた僕でも少しドキっとしてしまう。
灯ちゃんはその場で手足をグルグルと回すと、突然顔付きが変わった。
真剣な表情、アスリートの顔だ。
集中力を高める様に顔や足をパンパンと軽く叩く、そしてゆっくりとしゃがみこむと、ゴールを見つめ手を肩幅よりもやや広げ地面に置き顔を伏せた。
そして、ゆっくりと腰を上げると、跳ねる様にスタートを切る。
スターティングブロックが無い状態でのスタートに少々戸惑って見えたが、灯ちゃんは、自分のタイミングで綺麗なクラウチングスタートを決めた。
地面は砂混じりの土なので慎重に転ばない様に足を運ぶ。
そして低い姿勢から徐々に身体を起こしぐんぐんと加速して僕に迫ると、そのまま目の前を走り抜けていく。
そして、70m先迄全力で走ると、金網手前で減速し、軽くその金網に身体をぶつけ停止した。
そんな彼女の走りを見て、僕の全身に衝撃が走った。
その走りに僕は見覚えがある。 いや、ありすぎると言っても良いだろう。
彼女の走る姿は、僕とそっくりだった。
僕自身が走っていると言っても過言ではない。 僕その物の走り方。
「そうか……だから僕じゃなきゃ駄目なのか……」
彼女は僕のファンだって、言っていた。 だから僕の走りを真似したのだろう。
僕もそうだった……有名選手の真似をして走ったりした。
ルイス、グリーン、パウエル、ガトリン、ゲイ、ボルト。
僕の憧れだった、僕のヒーローだった。
僕は彼らの様な天才じゃなかった。 夏樹の様な天才じゃない。
だからあらゆる努力をした。フォームに関してもそうだ。
何度も何度も有名選手の映像を見て、真似をして、そして考えて考え抜いた僕の理想のフォーム。
そのフォームを彼女は完璧にコピーしていた。
そして僕の目の前でそれを見せ付けた。
「せ、先輩~~どうでした! 私の走りは!」
多分このグラウンドと距離では全力を出し切れなかったのだろう、少し悔しそうな顔で僕の元に駆け寄る灯ちゃん。
ずっと僕の映像を見て、僕の真似をして走っていたのだろう……そんな彼女の気持ちが思いが伝わり、心の底から嬉しさが込み上げてくる。
だから……彼女に向かって、僕ははっきりと言った。
「全然駄目だね、それじゃ勝てない筈だ」
「え? ええええ?!」
彼女の走りじゃあ全国所か都大会でも戦えない。
それだけは、はっきりとわかってしまった。
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