一万五千年後の名古屋は異世界と化したようです。
樫井素数
第1話 ここは名古屋
破壊された港で、俺、加藤利家はエルフの少女とともに、ガスマスクをつけて佇んでいた。
かつて船が行き交い、盛んに交易がなされていた波止場は、爆風により周囲の建物がなぎ倒され、無残な姿を晒している。
空は赤く、汚染された大気はオレンジがかっているような気がした。
鉛色の海。しかしその波はいたって穏やかだった。
海から一つの、それほど大きくはない建造物が突き出している。
それは、かつて金色だったと思われるが、今はメッキの劣化した鈍色をしている。
巨大な魚を象ったそれは、尻尾を天空に突き出し、龍の如き口を開いていた。
俺はそれの全貌を見て、膝をついた。
それは俺がかつて見慣れたもの、俺の身近にあったものだからだ。
「……どうしました? 利家様」
エルフの少女が俺に尋ねる。しかし俺は、あまりにも愕然としていて、彼女に返す言葉がなかった。
「……なんということだ。ここは名古屋だったのか」
俺の喉から絞り出すように出てきたのは、そんな言葉だった。
港に流れ着いているものは、金のシャチホコだった。名古屋城にそびえ立っている、巨大なモンスターだ。
そしてここは、手元のぼろぼろの地図で見る限り、名古屋港と一致していた。
水族館のあった銀色の球体や、ポートビルには小さい頃来た見覚えがあった。
この世界が変わり果てた故郷であることに、俺は打ちのめされていた。
・
名古屋弁は嫌いだった。
関西弁みたいに親しみがないし、なんとなく汚い。何よりもまして、生まれも育ちも名古屋の親父がブチ切れたときに使ってくるからだ。
「何度も言ったがや。おみゃあ早く職を見つけりん」
家族で食卓を囲ってるとき、いつもそう言われるのが不快だった。
俺はニートではない。それだけは言っておく。新卒で入った会社の上司からの意地悪が原因で会社を辞め、今は日雇いのバイトを転々としながら就活している。
そんなきりきり舞いの生活を続けているというのに、親父からは無職扱いされるのは納得がいかない。
「自分にあったところが見つかるまで、根気強く探せばいいがね」
母親はそう言ってくれる。ありがたいことだ。
しかし、母親の作る味噌カツは嫌いだった。甘ったるい肉が嫌いなのだ。
その日、俺は近所のスガキヤに昼飯を食いに行った。
うまくもないがまずくもない、乳白色のスープに浸ったちぢれ麺は、毎日食べても飽きない味だった。
狭いとも広いとも言えない店内で会計を済ませ、外に出たあと、交差点を再び通って帰宅しようとした。
しかし、俺はこの時、周りをよく見ておくべきだったのだ。
歩行者信号は青になった。はずだった。
まさか赤信号を突っ込んでくる車がいるとは思わなかった。
赤い血のような色をした車が、停止線も見ず、一直線に突っ込んできた。
いや、こういうのがいるから、歩道は渡る前にも左右を確認しないといけないのだ。
名古屋名物、名古屋走りを甘く見ていた。
一瞬パーンという、頭が真っ白になる衝撃。痛みよりも呆気にとられる思いが先に来る。自分の体が宙を舞い、無重量状態のような心地になった。
だがその時、自分の体が燐光に包まれていった。
これは何なのか。死ぬ瞬間の幻覚のようなものか。
俺の意識は段々と薄れ始めた。
ああ、死ぬ時はこんなものなんだな、と、俺は自分でも異様なくらい冷静に思っていた。
乳白色のまどろみの中に、俺の意識は溶けていった。
・
まどろみが次第に薄れ、ぼんやりと拡散していた意識が一つに戻ってくる。
身体の感覚も戻ってきて、まぶたを通して光が俺の体に降り注いでいるのがわかった。
俺はゆっくりとまぶたを開けた。
俺がいる場所は、木造りの民家の中のようだった。
「気が付いたか」
俺のベッドの脇にある二つの椅子には、いかにも長老といった風貌の老人と、白髪の美少女が座っていた。
ふたりとも、ファンタジー世界のような、たっぷりとした洋服を身に着けていた。
老人は長いあごひげをたくわえ、少女は、向こうの風景が見えるような白髪白皙の美少女であった。
二人とも耳が異様に長い。これは、やはりファンタジーでいうエルフなのではないか。俺はそう思った。
「ここは……?」
お決まりの台詞だが、俺はそれ以外に言う言葉がなかった。
確かに俺は車に轢かれたはずなのだ。
「家の外であなたが倒れていたんです。見慣れない服装だったけど、息があったから、とりあえず運び込みました」
少女が言う。凛とした鈴のような声だった。白磁のような肌からして、質感のいい陶器を叩いたときのような音色と言ったほうが正しいかもしれない。
俺はRPGでいう、村人Aのような服装で寝かされていた。
どうやら元の服を含めて持ち物はすべて接収されたらしい。
轢かれたダメージは少し残っているらしく、体がみしりと痛んだが、とにかく現状を把握したかった。
「とりあえず、外に出てみたい……」
「あっ……いけません」
俺が身をよじると、美少女が俺の肩をつかんだ。
表情が少ないながらも端正な顔立ちに、俺は思わずどきっとした。
「まだお体の検査が終わっていませんし、村が『ドゥーム』に覆われているとはいえ、外敵の襲撃がないとは限りません。安静にしていてください」
「お、おう……わかった」
少女の美貌に、俺は恥ずかしくなって、自分でも格好悪いくらい不愛想な返事しかできなかった。
「君の名前は……?」
問いかける俺に、少女は優しく答えた。
「シロと申します。しばらくこの家で暮らしてください。他に行くところもないでしょうし……」
申し訳ないが犬みたいな名前だな、と思いつつ、美少女と暮らせるという事実は、俺の胸を高鳴らせるに十分だった。
・
それから数日後。
体が回復し、家の外に出ることを許可された俺は、何か仕事を求めた。
何もしないでゴロゴロしているのは性に合わなかったし、介抱してくれた村の人達に恩返しがしたかったのだ。
山で育てているヒノキの木を加工して、家財を作る。力仕事は何度か経験があったので、数人でやるこの仕事はあまり苦ではなかった。
村はいたって普通の、と言うと語弊がありそうだが、ファンタジー世界の村のように見えた。
しかしながら、どこか懐かしいような印象も受けた。
それは、赤レンガの建物が立ち並ぶ、ある種モダンな町並みであったからだろう。名古屋にはなぜか赤レンガの建物が多かったのだ。
だが、空はくもりガラスのようにくすんでいた。
村人いわく、この村は『ドゥーム』で覆われているらしい。外の世界は荒廃し、有毒なガスが漂っているそうである。
そうして仕事をし、シロの家に帰って食事を摂る。
夕食にはファンタジーな世界観には似合わない、味噌おでんや赤味噌の味噌汁が出てきた。
そこそこきつい仕事の後で食事にありつける有り難さに、俺はその食事を不自然とも思わなかったのだ。
・
ある日、あの老人がシロの家にいる俺のもとに血相を変えてやってきた。
老人はしどろもどろになりつつ、一言ずつ自分で確かめるようにしながら、俺に言った。
「あ……あんたは、一万五千年前の名古屋人だと、検査の結果出た。衣服が古文書に記されている、当時の文化と一致する……。また、血液検査の結果も、現代とは異なるDNAを保持しているとのことだ。それは紛うことなき、古の名古屋人のDNAだ……!」
「はぁ? 一万五千年前ぇ? てか名古屋って何だよ?」
俺は眉をひそめた。
「俺は車に轢かれて、気づいたらここにいたんだよ。これって所謂、異世界転生みたいなのじゃないのか? いや、それも変な話だけどさ……」
「交通事故……。それでは、その衝撃でタイムホールが開いたとすれば……。あなた様が現代に転移したと説明がつくなぁ」
「説明ついてねぇよ意味わかんねぇよ!」
俺は怒鳴った。しかし、老人は納得したようにうんうんと勝手に頷いている。
「この世界がどうなっているか、直に見ていただいたほうがいいがね……この村を覆う『名古屋ドゥーム』の外に出りゃあ。そうすれば、すべてがわかるがね」
「ちょっと待て今何ドームっつった? なんか聞き覚えがあんだけど!」
「シロ、この方を案内した後、この世界について説明してやれ」
「わかりました、カツパン様」
老人に言われるとシロはすっくと立ちあがり、俺に手を伸ばした。
彼女の笑みは、いつもより一層慈愛に満ちているようだった。
「さぁ、こちらへ……」
美少女に手を差し伸べられたら、答えないわけにはいかない。
俺は複雑な思いを抱えつつ、彼女に従うことにした。
ここで無暗に反抗しても意味がないし、現状を知れるのなら、そうすべきだと思ったからだ。
・
そして―。
俺はガスマスクをつけ、シロと共に『ドゥーム』の外に出ることを許された。
それから、冒頭に戻るというわけだ。
赤茶けた港で膝をついた俺は、ハッと気づいて隣りにいるシロに尋ねた。
嫌な予感が胸に渦巻いていた。ここは確実に未来の名古屋。そして名古屋で『シロ』といったら……。
「シロ……お前、フルネームはなんて言うんだ? もし俺の考えている通りなら、ここは確実に……」
シロはガスマスク越しでもわかる、柔らかい笑みで答えた。
「私のフルネームはシロ・ノワール。父の名前はオグラ・ノワール、母はチョコ・ノワールと言います」
俺は二重に打ちのめされた。
(名古屋発祥の喫茶店、コメダのメニュー名じゃねぇか……!)
身近な美少女ですらこれなのだ。
ここは俺の故郷の変わり果てた姿なのだと、そう言い放たれているようだった。
「逆にお聞きしますが、あなた様のお名前は……?」
「俺?」
シロに聞き返されたが、俺は既に何もかもがどうでもよくなっていた。
「加藤利家。ありふれた名前だろ」
「武将の名前のミックス……! 救世主様にふさわしい名前だわ!」
シロは目を輝かせたが、俺にはその意味はよくわからなかった。
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