桃ちゃん
平日、講義をサボって布団と一体化している、春。
春眠暁を覚えずとは良く考えられた言葉だなぁ。なんて、丸まったまま考える。全く、その言葉通りで出席日数は危ういし、なんならもう春も終わりそうなのに、全然布団から出れないなんて。周りを見てみれば、一人暮らしの1DKにとっくに暖かい光が満ちていた。きっと、起こしてくれる人がいても起きれない、そう確信するのどかさ。
私は大学への進学と同時に始めた一人暮らしを始めた。大学の最寄り駅付近に住む……なんて言うのは夢の話で、大学から地下鉄で30分。そこから徒歩で10分。通学時間は少し退屈するけど、そこを除けばコンビニやらスーパーやらのアクセスはいい。
住んでいるアパートは、外観に似合わず綺麗な室内をしている。2年前にリフォームしたらしい。家賃もそこそこで、オートロックもついていて、監視カメラなんかも所々に設置されている。防犯もバッチリだ。
中学の頃から、陰キャだった私は、高校までそのキャラを引きずって、友達も多くはなかった。
大学デビューなんてありがちだ。だから地元を離れて、知り合いもいない大学を選んだ。
サークルにも入って、友達もそこそこ出来て、オタク趣味だけはバレないように努めて、髪も染め、服装も黒色を減らして……大学デビューは成功した、はずだった。
いつの間にか私は、否応なしに、私は大学中の生徒から一目置かれている存在になっていた。しかしそれは、大学デビューに大成功したわけでも、大失敗したわけでもない。
なぜなのか? それは、私のことを知る存在が同じ大学に通っているから。高校での関わりは全て切れるように、遠方の大学を選んだはずで、同級生の誰にも公言したはずはなかったのに、そいつは私について来た。
・・・・・・私が注目される原因になったのは、主について来たそいつにある。
ピンポーン
噂をすればなんとやら。
正直、またか。と言う気持ちだ。
私は呆れながら玄関へ向かう。そいつは高校の頃から私によくついて来ていた。正直鬱陶しいくらい。
「どちら様ですか」
「僕だよ! 開けて!」
誰が来たのか、大体予想はついていて、わざとらしく「どちら様」と聞いてみても、そいつは「僕だよ!」で通じると分かっていて、毎回同じ返答をしてくる。もしかすると新手の詐欺かもしれない。家に押しかけては僕、僕と言う。そしてドアを開けてしまったなら……
「こんにちは! 君の彼氏だよ☆」
「お引取りください!!!」
やっぱり、反射的に、ドアを閉めた。
ドアにもたれかけて溜息をつく。
「どうしてー! 開けてよぉ!」
この下りも何度目だろうか? こんな奴に住所は教えていないはずなのに、いつの間にか知られていて、押しかけられている。
ドンドンと叩く音が近所迷惑になっているに違いない。
「警察呼ぶよー」
私はしょうがなくドアを開いて一言。
「なんでぇー?? 学校サボった彼女を迎えに来ているだけじゃないー、なんで通報される必要があるのさー!」
そしてそいつの一言。ぐうの音も出ない。確かに家に押しかけられるのは、いつも何かをサボっているときだけだ。どこで私のカリキュラムを把握したのだろう。相変わらず怖い。
「うるさいストーカー、てかまず、あんたなんて彼氏じゃない! 私はあんたの彼女でもない!」
「えぇー、桃果ちゃん酷いよぉ」
酷いと言いたいのは私の方だ。
「とにかく帰ってよ」
私がそう言っても、そいつは隙を見て家に上がろうとする。
「おいっ、家に上がろうとするな!!?」
「え~、準備手伝ってあげようと思ったのに」
そいつはぶーたれながら渋々と家に上がるのを断念した。
「と言うか、あんたは一限ないの?」
「もちろん、あるよ」
そいつは即答する。
「は?」
「だって桃果ちゃんがサボるから」
「えぇっ……」
今までサボっていたときも一限があったのか……いい加減馬鹿なんじゃないの。
そう思った。
「分かったから、次のコマから行くから」
「うん」
「だから先に行ってて?」
「分かった!!」
何度目のやりとりだろう。いつも家に押しかけては、そんな簡単な私の言葉で退散して行
く。迷惑はしているけど、大して害悪なことはされていない。変な奴だ。
今、家に押しかけてきていた男、そいつ。名前を野沢幸也(のざわゆきや)。世間一般的に見ると、ストーカーと呼ばれる存在。でもどうして、幸也が私のストーカーになってしまったのか。
きっかけは意外だった。
本当に意外で、明快で単純で、逆に疑うほどに些細なきっかけだった。
私がハンカチを拾った、ただそれだけだった。
驚くくらいに簡単だった。自分でも正直理解が出来ない。高校入学の春~~とか、そんな出会いや強いきっかけは何もなかった。
はぁ。
ため息が出てしまう。こんなことがあったのでは、自分の善意すら恐れるようになってしまうのも無理がないのかもしれない。
薄情者。そう言われることも多くなってきた。人と関わりたくないわけではないけれど、自分の善意で自分が被害者になってしまうのなら、伸ばすことの出来る手も、伸ばさず、差し出すこともない。
全部幸也が悪い。
私はそう信じて疑わない。
幸也が私に背を向けてから、彼の背中が随分と小さくなったので、私はドアを閉め、努めて鍵も閉めた。
「ああー」
私は部屋に戻り、敷きっぱなしの布団へダイブした。
……高校の頃の自分はもう消え去ったはずだと、そう思っていた。いや、確かにあの頃の自分は消えてなくなったのかもしれない。ただ、幸也との関係が今もこうして続いていることと、私の大学生活の一部になってしまっていることに、私は何とも言えない気分になった。
はぁ。
もう一度深くを吐き、布団に潜り込んで思い出す。幸也との出会いを。
うとうととして来て、ぼんやりとする頭で何となく考える。どうして私なのだと。それと、何がきっかけで私は幸也のハンカチを拾ったのか。
――高校2年に上がってから少し。クラス替えの掲示を見て喜ぶ人や悲しむ人。
私は友達と呼べる人は高校時代には数人しかいなく、そのうちの2人と同じクラスになることが出来て相当安堵していた。それはその2人も同じだったみたいだが。
進級、クラス替え、春なのには変わりなかったが、幸也は特段悲しんでいる様子ではなかった。
勿論それには理由があって、
「くしゅん! くしゅん!」
めっちゃくしゃみしてる人、それが幸也だった。
花粉症って可哀想だ。これじゃあ掲示板を見ることもままならないのではないか。あの人は自分のクラスをちゃんと確認できているのかな。それらが幸也に対する第一印象だった。
でも、私は友達と話していたこともあって、何度も繰り返されるくしゃみは耳に入ってこなくなった。
「くしゅん! あぁーーー」
少ししてくしゃみとダミ声が上がった。あまりにも大きな声だったので、さすがに耳に入る。しかも、視界の端に入り込んでいたので、しょうがなく目をやると、幸也の足元にハンカチが。きっと落としたのだろう、鼻からは鼻水が垂れていて、拭くものもなく、酷く慌てていた。
周りを見ると、幸也に気を留めているような人は私以外にいなかった。
「大丈夫ですか?」
「ずびばぜん……」
仕方がないから、私はティッシュを差し出し、幸也に声をかけていた。流れで落ちていたハンカチを拾って返してあげた。鼻水まみれで汚かった。
「あ、それあげますよ」
「すみません……、ありがとうございます。助かりました」
ずずずと鼻を啜りながら幸也はお礼を言い、私は「いえいえ、大変ですね」と適当に返して立ち去った。手を洗いたかったから。
――やっぱり、それ以上に幸也との出会いの記憶はなかった。
どうして私なんかを好きになるんだ? と言う気持ちよりも、どうしてハンカチを拾っただけで好きになるのかという疑問が頭の中に大きくあった。
高校の頃に、気になって調べたのだが、幸也と同じくらいに些細な出来事で相手を好きになってしまって、ストーカー行為にまで発展してしまった、という話はいくつか事例があった。
しかしそれは、どれも被害者に魅力があったからだ。美人だったり、イケメンだったり、スポーツが出来ていたり……周りより何かしらに秀でていた。それに比べて私は、容姿も普通で、勉強もスポーツも並で、自分の中に自慢出来るものの一つもなかった。被害を受けにくい“周り”に属する人間だ。
どうせだったら美人が良かったわ。
自分で自分を評価している内に、だんだん嫌になってきた。
ネガティブになってきてから、眠気はすっかりと覚めてしまった。それでも私は布団に包まったまま、大学に行きたくない。そう思っていた。
大学では、幸也が待っているからだ。
「桃ちゃん、桃ちゃん」
「んぅ……おかーさん、あと5分……」
いつの間にか眠っていたらしい。眠気は覚めたはずだったのに。桃ちゃん、と優しく呼びかける声はお母さんみたいで心地がいい。
「俺は桃ちゃんのお母さんじゃないよ~」
ぼんやりと目が覚めてきて、その声が男性のものだと判断する。
「んーー、幸也ぁ?」
「……」
幸也は大学で私を待っているはずだ。でも、いつの間にか眠ってしまって、今は何時なのかも分からない。もし遅い時間だったら、幸也がもう一回訪ねて来ても可笑しくはない。
眠る前に、幸也を追い返して、私は鍵を閉めた。
……うん、やっぱり可笑しい。今、声の主は私の隣にいる。幸也は私の家の鍵までは持っていないから、入ることは不可能なはず。
まさか
「桃ちゃん、まだ寝てるのぉ? 一緒にお布団入っちゃおうかな~」
声の主は私の布団を捲り、今にも入ってこようとしている。
「お、起きてるよぉ!!!」
バサッと布団を跳ね上げて私は叫びながら急いで布団から這い出る。布団に入り込まれでもしたら何をされるか分かったものじゃない。
「あーあ。残念」
「何が残念なのさ!」
焦る私を前につまらなさそうにしている男、赤塚宗助(あかつかそうすけ)。私の幼馴染だ。
宗助とは幼稚園から高校1年までは一緒の学校に通っていた。彼の親の都合で転校してしまったが、彼の母親からの助言か、同じ大学に進学を決めたらしいのだ。
私たちの母親同士も仲が良く、私の母は時々泊まりに来て彼の母親と飲みに行っている。
私は奥手なのだけれど、気さくに話しかけてくれる。正直、彼のおかげで友達が少なくてもそこまで気にしていなかった私だから、突然の宗助ロスト、それを乗り越えるのは一苦労だったり。
「まぁ安心してよ、桃ちゃんみたいな色気ない子は襲わないし~」
「はぁ!? めっちゃ失礼じゃん」
「ヘイヘイ、ごめんごめん」
宗助はそう言って私をからかうと、私の隣からパッと離れ、スマホを弄り始める。
「早く準備してよ、次のコマ一緒だし、サボらせないよ」
「うぇぇ……」
私はぼやきながら布団を整えて洗面所へと向かう。時計を見たが朝食を取るような時間はとうの昔に過ぎている。まぁ当たり前か。
頭を掻きながら今日は天気がいいな。そんなどうでも良いことを考える。んで、顔を洗って歯を磨く。準備を急ぐことはないが、したくないわけではない。
準備が終われば宗助と大学へ行くのだ。
それはそうと、母はいい加減一度懲らしめなければ。宗助は真面目だ、しかしチャラ男だ。いや、本人はそう思っていないらしいが、言動や女子にモテるところから私ばそう思っている。変態だし。
私は昔からサボり癖はあって、母はそこを気にしているようだった。母には私の家の合鍵を渡していたのだが、きっと宗助の母に「宗ちゃんに桃が授業サボらないようにさせてほしい」とか言って合鍵を複製して渡したりしたのだろう。幼馴染とは言え、男に勝手に家に上がられるのは正直ビビる。
犯罪じゃ……ないよね。でも母には呆れる。
「あーあー、いい加減お母さんも直接あっち行けばいいのにーー」
歯磨きを終えた私は、部屋に戻り、着替えを始める。
私は口に残ったミントの風味を舌で転がしながら着替えていた。特に理由はないけれど私は歯磨きが割りと好き。出来れば20分くらい磨いていたい。でもその為に早起きするのは無理。
歯磨きの何が良いかって、歯を磨けば綺麗になるし、長く磨くことで、口周りの表情筋が鍛えられる。それに、考え事も捗る。
歯磨きの良さと、悪さ、つまりメリットとデメリット。私の場合のメリットはさっきの通りだが、デメリットは、捗りすぎた考え事がネガティブな思考へと発展してしまうこと。母が鍵を渡さなければ、宗助は好きに家に上がれない。だからいつだって部屋を綺麗にしておく必要はない。でも、鍵がなければ、起こしに来てくれない。悪循環へ入りがちな私にとって考え事が捗ることは結局余計考えさせられる厄介なことなのである。
「桃ちゃんさぁ、もっと恥じらいとかないの?」
「はぁ?」
「まあ昔からだよねぇ」
私の着替えと化粧、諸々の準備が終わってから、宗助と一緒に家を出た。今の時間なら、なんとか昼休み中には大学へ着くだろう。時間に余裕があったら昼食を済ませたい。朝から何も食べていないからさすがにお腹が空いている。
「ねーねー、桃ちゃん」
「ん? 何?」
隣を歩く宗助は、ながらスマホをしながら「んー、あのさ」と少し切り出しにくそうにして私に尋ねる。
「えっと、野沢君……だっけ、あの人とは何なの?」
「何なのって?」
「何って、普通に野沢君との関係を聞いてるだけだよ」
えっ、なんだろう。宗助の問いに自分自身が一番困惑した。
ストーカー、と言うにも宗助からしたら可笑しく思うかもしれない。
けれど友達、と呼ぶにはそこまで仲が良いわけではないし、そもそも私は幸也と特段仲良くしたいとも思っていない。
知り合い、と呼ぶにも被っている講義はないし、幸也はサークルに入ってもいない。
あ、知り合い、ならば高校からの腐れ縁だと言うのが一番無難かも知れない。
「うーん、知り合い? かな。高校から一緒だし」
「へぇ、仲良さそうじゃん。友達とかじゃないの?」
「友達って言うか、幸也が勝手に突っ掛かってくるだけだよ」
「……そうなんだ」
最近の宗助はどこか変だ。何となくそう感じるときがある。時々、私に対してよそよそしい。特に、幸也の話になるとそうだ。自分から振っておいて徐々に浮かない表情になっていく。私からは何も質問はしないけど、そろそろこの件も面倒になって来ていた。
それから私たちはバス停に着くまで無言だった。話しかけようかとも思ったのだが、宗助はスマホを覗き込んだまま、こちらを見ようとしなかった。
なんなんだ。
「宗助、バス来たよ」
「うん」
バスに乗り込んで、2人で並んで椅子に腰掛ける。勿論私が窓側だ。春先は、街路樹に桜の花がたくさんついていたけれど、既にもう花は落ちきっていて、青々とした葉が生い茂っている。今日は快晴だ。昨日か一昨日くらいまで、3日くらい雨が続いていた気がするから、多分久しぶりの晴れだろう。近所の保育園の園児たちが、保育士に引率されてお散歩をしている。落ち葉や花を触ったりと、園児はとても楽しそうだった。
「桃ちゃん昔から窓側好きだよね」
「そうなのかも。窓から眺める景色が何か好きなんだよね」
「へぇー」
人に言われて「確かに」と気付くことって、多々あると思う。それは癖だったり、好きな人とか、意外と無自覚な何か。私は、景色を眺めるのが好きだと言う自覚はあったが、それから連鎖する“窓側が好き”と言うことには無自覚で、思い返してみれば確かに私は窓側が好きらしい。
私は、聞こえが良く言えば節約が好きだ。悪く言えばケチだ。だから徒歩10分なんていつもは徒歩で済ませている。でも、宗助と一緒の時は、必ずと言っていいほどバスを利用する。一緒に歩くのも良いけれど、それはキャンパス内でも出来る。だから普段は使わないバスに乗って、宗助の隣に座って、少しだけ特別な時間を感じながら景色を眺める。
バスに揺られ~、なんて言う暇もなく私たちはバスを降りた。歩いて10分なら、バスを使えばほんの数分だ。ここから大学までは地下鉄に乗って30分。宗助と一緒だから、今日はいつもよりは退屈しないだろう。それに、音楽を聴いたりゲームをしなくて済むから、スマホのバッテリーも減らない。
宗助って、何かの永久機関だったりして……?
「桃ちゃん?」
「へ?」
「もう電車来るよ~」
「おおー、ナイスタイミング」
電車に乗り込んで、2人で並んで椅子に座る。今度は車窓なんて楽しめたものじゃない。ほぼ真っ暗だから。
電車に揺られながら宗助と他愛もない話をする。サークルでの話しだったり、ゲームの話だったり。そんな話の中で、私はどうして宗助のことが好きになったのか何となく考え始めた。
ドラマや小説、アニメに漫画、ゲーム。全て然りなんだけど、幼馴染を好きになるってことは良くあることだと思う。私と宗助をそのテンプレートに当てはめればそうだ。多分きっと恐らく。なんだろう、幼馴染だから好きになる、ってありがちだからこそ、少し自分の気持ちが分からなくなる。幼馴染は好きになるものなのか? 宗助は小さい頃から友達として大好きだけれど、恋愛的に見るとどうなのか? と聞かれると正直良く分からない。いやでも、宗助の顔は整っている方だし、明るくて友達も多いし……私とはまるで真反対の人だし、ないものねだりと言うか憧れと言うか、私にはないものを持っているから、そんな理由で宗助を好きなのかも? そうだったとしたら、自分に幻滅する。
「はぁー! 腰いったい!」
「もう、まだ若いのに何言ってるのよ」
体感時間、いつもの3分の1。きっと、いつの間にか眠っていたせいもあるだろう。電車を降りて、爺くさ発言をしながら背伸びをする宗助と、乾燥してしまったコンタクトの不快さを、口に出しはしないがそれと闘う私。
駅から大学までは5分も掛からなくて、この距離にはよく寝坊する私は、遅刻を何度も助けられた気がする。
「桃果ちゃーーん!!!」
「うわっ、出た」
「酷いっ!」
圧倒的出落ち感。
大学に着いた私は、宗助と一緒に学食に行こうとした。けど、すっかり忘れていた幸也は両目いっぱいに涙を溜めて私の前に現れた。宗助に助けを求めようと思ったらずっとスマホを触っていてこちらに目を向けることはなく「ライン来たから行くわ」と捨て台詞を吐いてどこかへ行ってしまった。
そう言えば、結局のところ、宗助は幸也のことをどう思っているんだろう? 今朝のやり取りを思い出して考える。まぁ勿論、人の心なんて分からないから、本人に聞かないと真相は謎のままだ。
「あの人、行っちゃったね~」
「あんたのせいでしょ」
宗助が講堂に入って行くのを見ると、ニヤニヤしながら幸也が言う。やってやった、みたいなドヤ顔をしてる。嫌な奴だ。
「何で? 僕は忠犬のように桃果ちゃんのことを待っていたのに、随分と遅く来た上に男連れとは、僕が桃果ちゃんに酷いって言いたいくらいだよぉ?」
うっわぁぁあああ
えっ、女々しい。やっぱ嫌な奴。
「……さ、お邪魔虫君が退散したところで、僕たちも行こうよ!」
「はぁ? どこに」
幸也は調子に乗って腕を組んできたので、振り払ってやった。宗助のことを目の仇にしていそうだとは言え、お邪魔虫だなんて、少し思うところがある。
「学食~、時間あるし一緒にご飯食べよ?」
「え、やだ。あんたといると目立つもの」
即答。そもそも、宗助と一緒に昼食を取るつもりだったのに、こーんな奴とは一緒したくない気分だ。
「いいじゃん~、見せ付けて、あ・げ・よ・う・よ?」
「うっわキモい!」
「…………ふえぇ、桃果ちゃんのばかぁ!」
遂に本音がモロで出てしまうほどイラついた私は、周囲のザワつきと、幸也が涙目で走り去ってから自分の直球過ぎる発言を後悔した。口は災いの元、さすがに次会った時には謝ろう。
結局、宗助も幸也もいなくなってから、私は次に講義のある教室で友達の絵里と話しながら、売店で適当に買った惣菜パンを食べていた。
「今日もやってたね」
パンと飲み物の組み合わせが良くなかったらしく、二度と同じパンを買うまいとしていた私に、突然の振りが来た。
「あぁ、あいつのこと?」
「そうそう、野沢君? と。仲良いよね」
「いや、あっちが一方的にウザいだけだよ」
「うわ、桃ったら辛辣~」
クスクスと笑う友達には、私と幸也は仲の良い友達、もしくはそれ以上に見られたりしているのだろうか? そうだったら迷惑だ。それもこれも幸也が全部悪い。だってキモいのは否めないし、さっきも急に腕を組んできたり、バカップルっぽい発言したり、彼氏面が過ぎると言うか、色々と末期だなぁと思う。
そもそも、私の大学デビューが失敗したのは、幸也のせいだと思う。入学してすぐからずっとあのテンションで私に絡んでくるから、「やべぇカップルがいる」とか「野外でSMプレイしてる」とか、そんな野暮なことを言われてて、悪目立ちして、周りに距離を置かれている。思い返せば本当に酷い。私の夢の大学生活は滅茶苦茶だ。
昼休みが終わる直前に、宗助は教室に入ってきた。サークルの友達と思わしき数人と一緒に固まって座ってしまった。まぁ、私も友達と一緒にいるから寂しいとかそう言う感情はないけれど、やっぱり
「退屈だなぁ」
「え、桃開始5分で寝るの? また?」
私は机に突っ伏して目を瞑る。
講義自体は面白いとかの問題じゃなくて、必履修だから取れさえすればいいって感覚。でも、開始5分で寝ていたら考査で泣き目を見るのは当たり前。それでも寝てしまうことが多い。理由は退屈だから。寝不足とか、苦手な科目とかでは断じてなくて、宗助が近くにいなくて退屈だから。
いつもだったら固まって座るときも、私の少し近くにいて、楽しそうな話声が聞こえてくるから、眠くなることも少ないけれど、今日は離れたところに座っているから、話し声は届かない。そりゃ、講義中に大声で私語をするのは可笑しいから。しょうがないと言えばそうだけど。
「うーん……」
私が次に目覚めたときには、今日の授業が全て終わってからだった。宗助と同じコマから次のコマまでの記憶が曖昧だけれど、部屋を移動していることから、きっと友達が起こしてくれたのだろう。
スマホを確認してみたら、やっぱり友達からのラインが送られてきていた。「起きないから先に行くね」そんな、起こされた記憶もない……。部室には誰か来ているだろうか。私は卓球サークルに所属している。昔から運動が苦手だった私だけど、卓球だけは他より少し出来て、唯一楽しみながらプレイすることが出来る球技だ。
宗助もいるかもしれないし。
することが決まったら、重い頭をやっとの思いで机から引き剥がす。変な体制で寝ていたせいで腰と首が痛い。どっこいしょと、お婆ちゃんでもないのにそんな掛け声と同時に立ち上がる。んー、と背伸びをすると身体が軽くなったような気がした。
部室に着いてみても、宗助の姿はなかった。『今どこにいるの?』というラインに関しても既読すらついていない。
なんだか遣る瀬無い気分になった私は、今日はもう帰ることにした。どうせ、引き止める人もいない。高校とかの部活じゃないんだ。自由参加というだけあって、顔を出している人はほぼいないし、友達だって、先に行くと言っていたくせに、いない。いつも待ち伏せしているはずの幸也も、いない。
部室を後にした私は、キャンパスをとぼとぼと歩く。大学生になってからは、学校を一人で歩くことがほぼなくなったから、何となく新鮮だった。見慣れた風景のはずなのに、一緒にいた人たちがいなければ、物足りなく、寂しく感じる。周りの生徒はワイワイと騒いでいるのに、私の周りだけは、シンとしている。
まるで高校の時みたいだった。私以外の生徒は楽しそうに笑ったり、好きな事を話すことが許されていた。
いじめでは、なかった。私は自分の中であたかもいじめに遭っているように妄想していた時期があったが、今思えば、馴染めなかったのも、いじめの“ような”対応をされていたのも、自分自身にも問題があったのだ。
今となっては、それが分かるのだが、あの頃の自分は分からなかった。人と話したくないわけではなかったのだが、話すことが苦手で、話しかけるなと言うオーラは少なからず、無意識で出してしまっていたのかもしれないし、いざ話しかけられれば、自分の話ばかりをマシンガンのように聞き手のことも考えず喋っていた。そりゃあ、距離を置かれるよなぁ。
話し上手は聞き上手。それを考えさせてくれる、そして、私が自分を客観的に見れるようになった、理由は幸也の存在だろう。
私が幸也にストーカーされるようになってから、話しかけられると、幸也は自分のことしか喋らなかったし、私以外の人とは話さず、話しかけるなオーラ全開だった。幸也が自分に似ていると思ったのは、幸也を鬱陶しいと思う時の自分の表情が、クラスメイトから私に向けられる表情と同じだったからだ。気付いた時はどうだ、人が怖くなって三日寝込んだ。
寝て起きてを繰り返して、夢の中ではクラスメイトの顔と、私の顔が溶けて混ざって、リアルではうなされた。それを繰り返してやっと、少し人の話を聞くのが上手になった気がした。
始めは、相手の話を聞くことを意識した。いつもは、途中の余計なつっこみから自分語りとか支離滅裂な話を展開していたが、とりあえず、相手の言いたいことを最後まで聞くように。途中は下手に喋らず相槌を入れたり、頷いているだけ。しばらく続けると、私から話しかけても嫌な顔をされなくなった。
『人との上手な話し方』なんて本まで買って、学んだことを試していった。私が今のように人と話せるまでは時間が結構掛かって、高校の卒業までにはギリ、間に合わなかった。悔しかった。もう少し早くから努力していれば友達がもっといたかもしれないし、進学した大学も違ったかもしれない。
そんなことを考えながら私がもう、帰りの電車に乗り込んでしまってから宗助からラインが返ってきた。
『もう帰ったの?』
『うん。今電車』
『部室、来なかったね』
『ごめんね、ちょっと体調悪くて』
『そっか。ゆっくり休んで。明日は迎えに行くからちゃんと準備しててね』
『分かった』
退屈な時間と、耳に流し込む音楽だけが過ぎていく。私の気持ちは今日の昼で止まったままだ。宗助の考えている事が分からない。私はどうすればいいんだろう。
気がついたときには眠りについてしまった。右手にスマホを持ったまま。
2
『分かった』
桃からそうラインが返ってきて、明日の約束に喜びを感じた俺はスマホを上着のポケットにしまった。
「お待たせ」
「何ニヤついてんの。気持ち悪い」
全ての講義が終わり放課後、俺はいつも通り部室へ向かおうとしたのだが、幸也に呼び止められ、空き教室へ来ていた。
俺の顔を睨みつける幸也はどこか笑っているようにも感じて不気味だ。気持ち悪いのはお前の言動だけで十分なのに。
確かに、桃とラインをしてニヤついてしまったのはあるのかもしれない。でもそれで、それだけで睨むなんて、幸也はやっぱり俺とは比べものにならないんだろうな。
「あー、そうか。野沢君は桃のライン知らないもんね?」
別に付き合っているわけでもないのに、どこからか沸いてきた優越感に俺はでまかせに幸也を罵ってみる。が、彼の表情に変化は見られない。
「桃果ちゃんとライン交換してないけど。僕にとっては何も問題ないんだよね」
「はぁ? 負け惜しみ? 必死だね」
「まぁ、好きに考えれば。思考は自由だし」
幸也の顔は、悔しいことに本当に、負け惜しみや怒りの表情ではなかった。俺を見る冷ややかで、どこか馬鹿にしているような目はずっと変わらない。桃には絶対に見せない表情だ。
「僕のこと、そういう目で見るの止めてくれない? 同類じゃん。少しは優しくしてよ」
つい、幸也へ対する俺の表情が険しくなったところに間髪入れずに突っ込んでくる。同類? 俺が? このストーカー野朗と?
「なんでだよ。何が言いたいんだよ」
「気付かない? その顔は、僕がアンタに向けてる表情と一緒だし。それに、僕だってアンタと接する時は謎の優越感、出ちゃうんだよね」
「優越感? ただのストーカーの癖に何言ってんだよ」
「えぇー、ストーカーだからこそ、有利だったり、するんだよ? 僕は桃果ちゃんの家も、連絡先も、スリーサイズも服の好みも、使ってる化粧品だって、生理周期だって、なんだって知ってるし、知ってることを桃果ちゃんも知ってる。僕は桃果ちゃんの前で、素でいる事が許されてるんだよ? 素を見せないアンタと違って」
気持ちの悪いことを淡々と語る幸也。桃のことになると、口元を緩めて話す姿が気に食わない。
「気持ち悪いんだよ。お前」
「心外だな。気持ち悪いのは、そっちじゃない? 桃果ちゃんの幼馴染で、桃果ちゃんの周りに男がいないのに、安心しすぎだし、てか高慢じゃん。恋人でもないくせに」
カチンときた。こっちが何も言わないと、自分は好き勝手言いやがる。これだからコミュ障の陰キャは無理なんだ。
「野沢君よりは桃に好かれてるし。ってかさ、そんな悪口とキモ自慢しに来たわけ? 俺、忙しいんだよね」
「そうなんだ。じゃあこんな話も程々に。今日はこれ、桃花ちゃんに見せていいの? って聞きにきちゃったワケなんだよね」
幸也はスマホに一枚の写真を表示する。
「これさぁ、アンタの彼女だよね? どう見ても。この前見ちゃってぇ~、ホテルにお泊りしてたよね? その写真もあるよ」
俺の身体から血の気が引いていく。ここで動揺するな。だって幸也だ、桃のストーカーだ。ただのクソ陰キャだ。今日だって、負け惜しみの皮肉と罵倒だけ期待していた自分がいた。雑に受け流して、ストレス発散でもして帰ろうと思っていたのに。
「アンタさ、僕よりキモイ自覚持ったら? 器量がいいからって二股とかありえなくない?」
勝ち誇る、と言うより心の底からドン引きして俺を軽蔑する目の幸也。違うそうじゃない、その目はお前がしていい目ではないんだよ。俺が、俺たちみたいな人間が、お前たちに向ける目なんだよ。
今までにない感覚に俺は妙な汗をかく。今すぐここから逃げ出したい、過去を消したい。幸也を殺したい。
「お前さ、プライバシー侵害だぞ」
「ストーカーに言う?」
幸也は笑いながら俺の無様な顔をカメラに収めていった。
「俺と桃果のストーカーの被害。訴えてやろうか?」
「好きにすれば。そしたらアンタの化けの皮も剥がれてセットで桃果ちゃんに嫌われるんじゃない?」
俺の目の前で何枚もの写真をスライドして見せてくる幸也。おそらく、先日彼女のバイト先に迎えに行ったとき、つけられていたのだろう。
「何が望みなんだよ」
「人聞き悪いなぁ。僕は、アンタと桃果ちゃんがどういう関係か調べただけ。んまぁ、予想の何倍も面白いことが分かったから、ついついアンタに聞きたくなったんだ。話したくもないのに」
「それで? 桃に言うのかよ」
「ん~~~。どうしよっかなぁ。桃果ちゃんよりまず、アンタの母親に教えてあげた方が面白そうだし。てか、今言ったところで桃果ちゃんのこと無意味に傷つけるだけだし、どっちにしろまだ言わない」
そう言って悲しげな表情を浮かべ、言葉を続ける幸也。
「僕ねぇ、知ってるんだよ。周りの人も知ってるけど。当然アンタも知ってるけど、桃果ちゃんがアンタのこと好きなんだってこと。だからさ、アンタがしてること最低だと思うよ。桃果ちゃんのこと尚更僕は諦めたくなくなった」
「桃は分かりやすいよな、でもさ、お前俺の何を知ってるんだよ」
「知りたくもないけど、桃果ちゃんのこと弄んでるのは事実じゃん。これは揺るがない」
「それ、消せよ」
「ヤダね。今日はここまでにしといたげる。アンタはさ、僕がこの事実知ってるってこと、一時も忘れない方がいいよ。じゃあまたね、お邪魔虫君」
ヒラヒラと手を振りながら幸也は教室から去った。言いたいことだけ言って、俺を脅して。それで涼しい顔して出て行く。
俺と幸也は同類なのかもしれないと、耳についた言葉のせいで不安になる。だって、幸也も俺も、桃の前では絶対に見せない顔、そもそも人に見せない顔を持っている。こうして二人だけになってみるとそれが痛い程感じられた。
あんなヤツより、俺の方が桃に愛されているのはわかりきったことだし、俺だって桃のことが好きだ。他の女と付き合っているのだって、本心ではないし。
何も知らないくせに。俺の桃を勝手に好きになって、ストーキングまで。あまつさえ俺の秘密すらいとも簡単に手に入れてバラそうだなんて考える。
どっちが最低なんだよ。……正直焦りと不安で俺はまともな考えなんて持てていないのだろう。独りの教室で、ずっと握り締めていた拳を強く、机へ叩きつけて学校を後にした。
彼女に適当にラインを返しながら、彼女のバイト先のファミレスへ向かっていると、昂りも落ち着いていた。俺が暇な時かつ彼女がバイトの日であれば、大体夕食はファミレスで済ませている。自炊派の俺からすればわざわざファミレスで飯を済ませるなんて、中々考えないのだけど、そうでもしなきゃ彼女に会う頻度が恐ろしいくらい少なくなる。まぁ、元より家から近かったから、自炊を始める前まではよく、レポート作成も兼ねて割と利用していた。彼女は俺がここに良く来ることを知ってからわざわざバイト先を替えてきた。
俺は、彼女のことをあまり好きではなかった。転校先で出会っただけで、桃とそれほど差のない背丈で整った顔立ちに艶やかな黒髪が綺麗だったから、何となく。桃の代わりになればいいのに、ってそんな感じで付き合うことにした。俺のどこが好きになったの? と彼女に聞いた時、一目惚れだなんて言われたし、俺も彼女が桃に似てなかったら別に付き合ってないし、適当にしてていいと思っていたけど、彼女は予想と裏腹に少しめんどくさい性格だった。
桃と彼女に接点はない。だから大丈夫。バレない。そう思っていたし、自分に言い聞かせてきた。幸也だって、多分言わないでくれると心のどこかで思ってしまう。だって、同じ男だろ。
色々考えながら歩いていると、すぐファミレスへ着いた。なんだか複雑な気持ちだ。また、幸也がどこかで見ているのかも知れないと思うとソワソワしてしまう。後ろめたいからだ。
今日はやめておくか? でももう、今更なんだよな。気にしたってなるようにしかならないし。
「宗助~」
少し迷って店に入るとすぐに声を掛けられる。聞き慣れた薄い声だ。
「よぉ、美咲。お疲れ」
「うん、お疲れ様~、こちらの席にどうぞ~」
彼女の名前は緑川美咲(みどりかわ みさき)大学は違えど、彼女の家もこのファミレスからそこそこ近いところにある。
「いつものでいいの?」
「うん」
「そっか、分かった! 待っててね!」
彼女はハンディに注文を打ち込むと、他の客のところへ行ってしまった。勤務中だし、別に構わないけど。
スマホをいじって待っていると、ほどなくして料理が運ばれてきた。いつも頼むから揚げ定食だ。パッとしないローカルのファミレスでも、唐揚げは安定して美味い。だから決まってこれを頼む。ドリンクバーもつけて、いつも通りコーラを飲む。
『今日の夜、家来ない?』
そんなラインに心が沈む。もちろん彼女からだ。きっと裏でやってるんだろう。
『いいよ』
『やった!』
何か良く分かんない絵のスタンプで喜びが表現されている。
『何時までだっけ。先に家行ってていい?』
『もちろん!』
夕食時になって、彼女はそれから急がしそうだったし、混んでいる中長居する気にもなれず、俺はさっさと食べ終わって店を出た。彼女が手を振って見送っていたので、俺も手を振り返す。
薄暗くなった空を眺めながら歩き出す。彼女の家は俺の家からは反対方向だ。近ければ帰る時楽なんだけど、俺の家の周りには友達もだいぶ住んでるし。そいつらにバレるのは嫌だったから。
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