ご安全に

いぬかい

ご安全に

 ちょうど発泡酒を開けたときに携帯が鳴った。着信の青いランプが点滅している。しぶしぶ手に取ると、メッセージが入っていた。

 ――工事現場の警備、半日で二万、十二時までに来られるか?

 先輩からだった。時計は午前十時半を少し回っている。添付されているマップを見ると、車で一時間ちょっとで着く場所だ。俺は、行きます、とだけ手短に返信し、スエットを脱いで放ってあるカーゴパンツに足を通した。

 今日はもう日雇いはないと思い、家で酒でもかっ食らおうと思っていた矢先だった。でもこの時間に連絡が来るってことは、たぶん何かトラブってるのだ。それに半日で二万はでかい。行かない選択肢はない。

 俺は発泡酒を一気にあおると、空き缶をダストホールに放り、代わりに車のカギと、百均で買ったスプレー缶を持って家を出た。

 アパートの玄関先はすぐ駐車場で、黒のミニバンが停めてある。令和二十年式のレグルスだ。3Dプリンター製の車体はシームレスで、しし座のエンブレムがついたフロントグリルと流線形のフォルムが格好いい。

 運転席に座るとすぐにアルコールチェッカーが赤く点灯した。スプレー缶のノズルをセンサーに押し当ててエアを吹き付けると、ランプは瞬時に緑に変わった。俺はエンジンを起動して、ナビにさっきのマップをアップロードした。ナビは最短ルートを検索し、コントロールパネルに到着予想時刻を表示した。十一時四十分と出た。

 ギアをオートに入れて運転開始ボタンを押す。エンジン音が急に大きくなり、車は勝手に動き出した。いつもの自動運転だ。なので寝ようが飲もうが関係ないはずだが、改正道路交通法は“予備”運転者の飲酒を固く禁じている。が、しょせんは役人の考えることだ。抜け道はいくらでもある。

 ルームミラーを覗くと、後席のクマのぬいぐるみが目に入った。俺は思わず目をそらした。元女房がおなかの子のために買って、結局そのまま置いて行った物だ。半年前、出産で里帰りしたあいつはそのまま実家から戻ろうとせず、電子押印した離婚届だけメール添付で送り付けてきた。俺は頭にきて速攻で決済して返送してやった。その後の連絡はない。だから未だに生まれた娘には会ってないし、名前も知らない。

 そもそもこの車は、家族が増えるからとあいつが無理やり買い替えたものだ。ただでさえ貧乏暮らしなのに、税金が安くなるからと安全装備をしこたま付けたせいで完全に予算オーバーだ。おかげでローンがあと十年近く残っている。

 独り身なのに、こんなでっかい車どうしろってんだ。

 通勤ラッシュの時間は過ぎているのに、国道はなぜか渋滞していた。車列は規定の車間距離を保ってじわじわ動いている。パネルを見ると、工事のため三キロ先通行止めとの表示があった。

 思わず、うめき声が漏れた。

 安物のナビだから道路情報の反映にタイムラグが出るのを忘れていたのだ。先輩の忌々しげな顔が脳裏に浮かぶ。自分は時間にルーズなくせに、他人のせいで一秒たりとも待たされるのを嫌がる人なのだ。以前先輩を待たせた奴は半殺しの目にあった。俺は大急ぎで頭を巡らせた。かなり遠回りになるが高速を使うしかない。限界まで飛ばせばたぶん間に合う。

 俺はパネルに左手を伸ばし、素早くメニューを呼び出した。

「自動運転を解除する」

 そう宣言し、八桁の解除パスワードを暗唱した。

「自動運転の解除にあたり、改正道路交通法第一一九条の規定に則り、予備運転者への通達事項の確認を行います」

 スピーカーからレグルスのAIドライブマネージャーが発する無機質な音声ガイダンスが流れてきた。

「自動運転解除によって生じたあらゆる交通規則違反ならびに交通事故に関し、人身、物損にかかわらず、行政上、刑事上、民事上の責任は予備運転者に帰し……」

「すべてイエスだ!」俺はパネルに怒鳴りつけた。「早く運転を代われ!」

 レグルスはすぐ応答した。「通達事項の確認が完了しましたので、これより自動運転を解除します。ではご安全に」

 エンジンが低い音に変化し、固定されていたハンドルが呪縛から解かれたように不安定になった。車体が左にふらつき、前輪が白線を越えて路側帯にはみ出しそうになる。俺は慌てて両手でハンドルをつかみ、急いで右に切ると、車は蛇行しながらも何とか元の車線に戻った。

 任意運転なら経験があるし、この手のゲームは昔から得意だ。別に難しくはない。胸の奥から奇妙な高揚感が沸き上がり、自分がこのでかい車を自由に動かしているという事実に恍惚とする。

 俺は深呼吸を一つして、ハンドルを握り直した。

 前方にICへの案内看板が見えた。混雑した車線を抜けて右折する。料金所を通ってアプローチを加速し、本線に合流しようとすると、後方から白いセダンが近づいてきた。だが合流のタイミングが分からない。俺はアクセルを踏みつけ強引に本線に割り込んだ。後ろでニワトリを絞め上げたような甲高いブレーキ音が聞こえる。次いでパネルが赤く染まり、クイズの不正解ブザーに似た間抜けな音が鳴り響いた。

「後続車両よりクレーム通知が届いています」レグルスが機械的な口調で言った。「交通警察への通報を警告されています」

「悪いがかまってらんねえんだ」俺は早口で答えた。今はとにかく時間に間に合うことが第一だ。俺はぐんとスピードを上げ、そのまま追い越し車線に入った。すぐに前の車に追いついた。商用の軽だ。丸いリアランプが笑っているように見えてつい嗜虐心がうずく。車線を空けるよう何度かパッシングを繰り返し、さらに圧迫しようと車間距離を詰めると、丸ランプは逃げるようにスピードを上げた。左車線に隙間がないので車線を変えずに走るしかないのだ。思わずサディスティックな笑みがこぼれた。こいつはまるで狼に追われておびえる子羊だ。相手ドライバーの焦る気持ちが手に取るように分かり、俺は痛快な気分になった。

 またブザーが鳴った。

「前方車両よりクレーム通知が届いています」レグルスがさっきと同じ声色で繰り返した。「法定車間距離を保って運転して下さい」

「急いでんだからしゃーねえだろ」そう言いながら俺はパネルをいじった。レグルスの声は英語にも中国語にも関西弁にも変更できるが、消音コマンドだけは見つからない。

「前方車両より、交通警察に通報されました」

 丸ランプのルーフから、救助要請を示す黄色いフラグが上がっている。クラクションを何度か叩きつけると、丸ランプは左車線にスペースを見つけて急ハンドルを切った。追い越しながら睨んだ運転席でハゲたおっさんが恐怖に顔を引きつらせているのが見えた。俺は中指を立てる。幅寄せして強引に停車させ、胸ぐらでもつかんで通報を取り下げさせようかとも考えたが残念ながらそんな時間はない。俺はハゲ親父の身体的特徴を一通り罵倒するとまたアクセルを踏んだ。すぐに前の車に追いついた。左車線にわずかな隙間を見つけて飛び込んだ。後ろの車から火がついたような激しいクラクションが湧き起こる。俺は気にせず右を走るワゴンを抜き去り、その直前に強引に割り込んだ。ワゴンが急ブレーキをかけ、抗議するようにブザーが連続して二回鳴った。

「後方車両より交通警察に通報されました」レグルスが他人事のように言う。

「通報車両により違反映像を記録されています。現在の累積罰金額は五万四千円です」

「金なんかねえよ」俺は鼻を鳴らした。「とりあえず捕まんなきゃいいんだろ」

 ふと、助手席に置いてある携帯が点滅していることに気がついた。先輩からだった。「今どこだ。間に合いそうか」とある。どうやら向こうもだいぶ切羽詰まっているらしい。パネルを見ると、到着予想時刻は十一時五十分だった。

 左手で「たぶん」と打って送信した。すぐに返信がきた。「遅れたら殺すから」

 俺は舌打ちし、助手席に携帯を放り投げた。


 高速は緩やかなカーブに差しかかっていた。遮音壁の切れ間からちらりと海岸線が見えた。目的地には二つ先のICで降りればいいはずだ。さっきのICで降りた車が多いせいか車線はずいぶん空いている。これなら何とか間に合うかもしれない。だが元来の心配性が頭をもたげ、俺はさらにスピードを上げた。メーターはもう時速一五〇キロを軽く超えている。エンジンはすさまじい音を立てて回転し、わずかにタイヤの焦げる匂いがした。前方から次から次へと湧いてくる車が流星のように後ろへ流れていく。俺はゲームでもするように車の隙間を縫い、ジグザクに蛇行しながら疾走した。だが、そもそもかわす必要はないことにすぐ気づいた。前の車は俺の接近に気づくとスピードを落として脇に寄り、まるで救急車にでも遭遇したかのように俺に進路を差し出しているのだ。

 もちろん、これは自動運転の仕様だ。違反車両の接近を感知したら速やかに退避行動をとるようにプログラムされているからだ。

 ――こいつら全員ビビってやがる。

 俺は何とも言えないハイな気分になった。

 逃げていく車を蹴散らしながらさらにスピードを上げると、周りの車両はシャチに追われるイワシの群れのように霧散した。俺は膝を叩いて雄叫びを上げた。車線すら無視し、高速道路のど真ん中を時速一七〇キロで爆走している自分に陶酔していた。

 ミラーの奥でクマと目が合った。俺をあざ笑うかのように、口角を上げてシートに斜めに寄りかかっている。

 女の子だってさ――と告げた時のあいつの笑顔が浮かんだ。急に苦いものがこみ上げる。半年前の、あの最後の会話を思い出し、胸の奥にこびりついていた感情が溢れそうになる。

 あんなこと言わなきゃ、今頃――。

 俺はもう一度言葉にならない叫び声を上げ、ハンドルの真ん中を殴りつけた。クラクションがけたたましく響き、前のライトバンがあわてて左車線に退避した。

 またブザーが鳴った。もうさっきからずっと鳴りっぱなしだ。パネルは警告と通報通知で真っ赤に染まり、累積罰金額はもう先月の月収を軽く超えている。

「法定速度超過時間が三十分以上経過しました。周辺交通からの注意、警告、通報の合計が五十件を超えたため、本車両をクラスAの危険運転車両と認定します」

 レグルスの声はまるで表彰状でも読むようだ。

「改正道路交通法第一二〇条に則り、本車両の車体認識番号及び位置情報を所轄交通警察に通報します」

「はん? 裏切るってのかよ」

「ただし本車両が締結している任意保険特約により、このガイダンスが終了してから一分以内に法定速度まで減速する場合に限り、本通報は撤回することができます」

「お断りだね」俺は前方を睨みつけたまま語気を荒げた。「けど俺が捕まったら、お前もスクラップにしてやっから」

 それには答えず、レグルスは通知を続けた。

「現在、本車両を原因とする重大事故発生確率は七七%。さらに上昇中」

 捕まらなくてもどうせスクラップになると言いたいのだろう。俺はまた頭に血が上り、無言でパネルを殴りつけた。硬化ガラスには傷一つ付かない。

 すると、いきなりパネルがテレビ映像に変わった。スーツを着たアナウンサーのような女性が、後ろのホワイトボードに貼ってあるぺしゃんこのスポーツカーの写真を指さしている。

「ガイダンス終了より一分が経過しましたが、法定速度への減速が認められないため、これより交通警察に本車両の車体認識番号及び位置情報を通報します。警察が到着するまでの間、臨時の交通安全講習をお楽しみください」冷笑するようにレグルスが言った。

「ではご安全に」

 パネルの画面で、免許更新の時に警察署で見せられる退屈なビデオ映像が始まった。交通事故の加害者の体験談や、事故被害者の苦しみを訴えるドキュメントドラマだ。交差点で信号を無視し、買い物帰りの主婦をはねてしまったらしい中年男性が路上で頭を抱えている。

「たった一度の過ちがあなたの人生をすべて変えてしまいます」

 悲しそうな声色のナレーションがスピーカーから流れてきた。被害者の息子らしき少年が中年男性につかみかかり、お母さんを返せと泣き叫んでいる。

 自動運転が普及したとはいえ、任意運転による事故が絶えないのはニュースを見て知っていた。それだけ自分でハンドルを握りたい奴が多いってことだ。だからこそ安全技術が日々進歩しているのだ。でも俺には、この間抜けなオヤジの姿がどうしても自分とは重ならなかった。事故る奴は運がないか腕がないかだ。そして俺はそのどちらでもない。むしろ、運転中にこれを見せられる方がずっと危険だ。

「レグルス、映像を止めろ。運転に集中できん」

「法定速度以下に減速し、安全確保が確認されない限り、当映像を停止することはできません」

「おまえバカか? 減速したけりゃとっとと俺から運転権限を奪って、警察署にでも何でも連れてきゃあいいじゃねーか」

「緊急時における運転権限の自動変更オプションは、先ほど予備運転者自身によりオフにされました。デフォルト設定に戻しますか?」

 言われて俺は気がついた。

 どうやら自動運転解除のときに俺が言った「すべてイエス」のせいで、非常時でも運転権限を奪われずに済んでいるらしい。

 俺はまた鼻を鳴らした。「いや、そのままにしておけ」

 レグルスがまた他人事のようにニュースを読み上げた。

「目的地まで二キロ地点の国道上で渋滞が発生しています。通過まで約三十分かかる見込みです」

 到着予想時刻は十二時二十分だった。まずい。完全に遅刻だ。俺は頭が真っ白になった。あの道が通れないと困ったことになる。

 俺は頭の中で地図を開いて迂回路を探った。だがあの現場は確か一本道の突き当りのはずだ。近道はない。俺は乾いた唾を無理やり呑み込んだ。先輩に殺される可能性がいよいよ現実味を帯びてきた。

 その時、前の車のブレーキに反応するのが一瞬遅れた。気がつくと銀色のリアバンパーがすぐ目の前に見えた。

 とっさに左にハンドルを振った。ガードレールが一気に近づき、今度は右にハンドルを切った。車が大きく揺れ、隣を走るタクシーの運ちゃんの慌てた顔がすぐそばに見えた。懸命にハンドルを動かすも車体は既にコントロールを失っている。メーターが激しく乱高下し、目の前の景色がめまぐるしく入れ替わる。ブレーキを踏んではいけないことは本能で分かった。遮音壁のコンクリートが斜め上から津波のように覆い被さり、左のドアミラーが弾け飛んだ。車体を削る嫌な音がして、車は内側に弾かれて大型バスの脇腹めがけて突進し――


 ――気づくと車は路側帯を蛇行していた。数秒、気を失っていたようだ。慌ててハンドルを握り直すと、待ち構えていたようにレグルスが言った。

「これまでの走行状況から予測した交通事故シミュレーション結果をお知らせします。最も可能性の高い事故類型は車線変更時の近接車両との接触、これは発生確率四七%。次いでカーブでのスリップまたは操作ミスによる壁面衝突、これは発生確率三五%。事故発生の場合、九九%の確率で全過失責任は当車両の予備運転者が負います。またこの場合の推定損害賠償額は一億二千二百八十万四千百七十円となります」

「頼むから黙っててくれ」

 俺は吐き気を抑えながら懇願するように言った。

「事故予測シミュレーションは基本安全装備に含まれており、解除できません」

 喉の奥がしびれて舌打ちすらできない。だがレグルスは追い打ちをかけた。

「算出した損害賠償額の内訳の大半は相手側遺族への人身及び物品に対する金銭補償となります。全て保険適用となりますが、任意運転状況の悪質性を勘案すると、加害者の今後の保険契約締結は他社を含め事実上不可能となります。また死亡事故の場合、刑事訴追の結果次第では三十年以下の懲役に処せられる可能性があります」

 レグルスの言う通りだ。あのスピードで車どうしが接触すれば、確かに高い確率で搭乗者はオダブツになる。さっきだってヤバかったのだ。盛大にスピンして遮音壁に激突して大炎上。それでジ・エンドだ。運が悪けりゃ後ろも巻き込んでの大惨事になるかもしれない。

「なお、本予測には加害者側の死亡保障額は含まれていません」

 俺は小さくうめき声を上げた。

「――大丈夫だよ、相棒。俺は今まで事故で死んだことはねえんだから」

 レグルスは答えない。俺は垂れかけたよだれを拭ってまたアクセルを踏んだ。

 道路はほぼ一直線だ。景色はすごい勢いで後ろに流れ去っていく。法定速度を守って走る周囲の車は、まるで路上に停まっているようだ。

 時速は一八〇キロに達していた。制動距離計の値は一六〇メートルを超えている。それでも十二時には間に合わないのだ。ミスったらただでは済まない。先輩に殺される前に死ぬ確率の方が高い。俺は自分のしていることの愚かさが分かりかけてきた。遺族、という言葉に妙なリアリティを感じ、今頃になって肩が震えた。

 だがなぜか、アクセルから足を離せない。

 その時、空からまぶしい光が照射され、車内が赤く染まった。同時にサイレンの音が大音量で鳴り響いた。パネルに白黒の交通巡視用ジェットドローンが映し出された。すぐ上空から追跡用ビームを照射している。

「こちら交通警察です。危険運転車両は当方の指示に従いなさい」

 スピーカーの声色が微妙に変わった。レグルスではなくドローンが直接アクセスしているらしい。

「すみやかに減速し、路側帯に停車するように」

 ドローンは車の前にまわり、高度を下げた。四本腕の機体が数メートル先に浮かんでいる。赤い光は腕の間から照射されていた。ここからは見えないがライフルの銃口が俺を狙っているはずだ。まず逃げられない。下手に抵抗すれば麻酔銃で無力化され、運転権限を奪われて遠隔操作で強制停止させられるのがオチだ。

 逮捕されればもう現場には行けない。どんな事情があろうと先輩はきっと許さないだろう。だが俺はもう限界を感じていた。俺みたいなド素人がこんな無茶して事故らなかっただけでも奇跡なのだ。

 アクセルを戻す理由ができたと思った。硬直した右足をわずかに緩めると、メーターは一気に一〇〇キロ付近まで滑り落ちた。ドローンも減速に追随し、ほぼ同じ距離を保って水平に浮かんでいる。

「よろしい。そのまま左車線に入りなさい」

 スピーカーの声が満足げに聞こえた。俺は口を真一文字に結び、シートに背中をつけた。眼前でドローンがゆっくりと回転し、赤い光が目に入った。その光がまぶしくて、一瞬、ドローンの位置を見失った。

 パネルを見ると――、

 到着予想時刻は十二時ジャストだった。


 そのとき何が起こったのか、自分でも分からなかった。気づくと、俺はアクセルを目いっぱいまで踏みつけていた。

 エンジンに濁流のようにガソリンが流れ込み、シリンダーが激しく脈動した。それに呼応して弾かれたように車体が急加速し、背中がシートにめり込んだ。

 次の瞬間、どかんと大きな音が響いた。ドローンの腕の一本が車体のどこかにぶち当たったのだ。一瞬後ろを振り向くと煙を吹いているドローンが見えた。バランスを失いふらふらしているが、墜落はしていない。いったん上昇し姿勢を立て直している。だがローターが一つ失われており、従来のスピードは出ていない。

「予備運転者に対し、公務執行妨害罪が適用されます」スピーカーの声はレグルスに戻っていた。「三年以内の懲役または五十万円以下の罰金」

「間に合うかもしれねえ」

 俺は焦点の合わない目を大きく見開き、ハンドルの上に上半身をかぶせた。からだ中に熱いガソリンが駆け巡っているようだ。

「予備運転者のアドレナリンレベルが法定危険レベルを超過。車内にトランキライザーガスを充填します」

 アナウンスの後、天井から透明な気体が噴き出てきた。柑橘系の香りのガスだった。俺は顔をしかめ、左手を上げてノズルを塞いだ。だがガスは指の隙間からもくもくと溢れ出て、すぐに車内に充満した。やがて口の中にまで入ってきた。息を止めるが苦しくて長続きしない。ガスは意識にまで入り込んできた。脳を氷水で洗われたような気分になるが不快ではない。ハンドルを握る真っ白な指に血色が戻ってきた。だがそれでもアクセルから足を離せない。自分とは違う別の誰かが俺の身体に乗り移り、そいつが俺の足の上から無理やりアクセルを踏みつけているようだ。

 その時、また携帯が鳴った。

 画面に先輩の名前が見えた。

 俺は反射的に携帯をつかみ、思い切りパネルに叩きつけた。硬化ガラスが割れて火花が散った。左の手の甲から一筋の血が滴り落ちたが、不思議と痛みは感じなかった。窓を開けると、すさまじい風圧が俺の右側をもみくちゃにした。風の音で何も聞こえない。ガスはあっという間に排出された。俺は荒い息のまま窓から携帯を放り投げた。

 いきなり右側のドアミラーが弾け飛んだ。後ろのドローンが発砲したのだとすぐに分かった。麻酔弾ではなかった。俺はすぐさまハンドルを切り、ジグザクに蛇行しながらスピードを上げた。さらにもう二回衝撃があり、すごい音がしてリアガラスが割れた。遠くから機械的な罵声が聞こえてくる。

 目の前にICの表示が見えた。飛び込むように出口レーンに入った。高速を降りれば警察の管轄が変わる。ドローンはもう追って来られないはずだ。俺はわずかに減速しながらぎりぎりカーブを回り切り、そのまま料金所をぶち抜いた。ゲートバーの破片がボンネットに散らばり、すぐに落ちて消えた。

 パネルはバックライトが消えていて、レグルスはもう何もしゃべらない。到着予想時刻も分からなくなった。俺は一般道にひしめく車の合間を縫って泳ぐように走った。はじめの信号は赤だったが、まったく減速せずに突っ切った。はるか後ろでブレーキ音とクラクションの合唱が聞こえた。

 腕時計は十一時五十五分を指している。渋滞はいつの間にか解消していた。きっと間に合う。間に合ってみせる。あの十字路を左折すれば最後の直線のはずだ。

 後ろからパトカーのサイレンが聞こえた。そこのレグルス停まれと喚いている。俺はまたアクセルを踏んだ。ぎりぎりの隙間を綱渡りのようにすり抜けていく。腕はしびれ、喉はからからだ。息が苦しくて口から胃袋が飛び出しそうだ。十字路まで残り百メートル、信号は青。前のトラックを抜いて大回りで交差点に進入する。ハンドルを左に切ると、タイヤが断末魔のような金切り声を上げた。

 もう俺には、自分が何のために走っているのか分からなかった。先輩との約束のためか、警察から逃げるためか、それともただ、誰かに認めて欲しかっただけなのか。

 でも確実なことが一つあった。

 現場についたら――絶対あいつをぶん殴ってやる。

「止まれバカ! いっつも他人様に迷惑ばっかかけやがって!」

 突然、後ろで別れた妻の声がした。うひゃあと声が裏返る。なんであいつが、と慌てて探ったルームミラーの中で、クマの目がらんらんと光っている。

 俺は凍りついた。まさかあいつ、こうなると分かってて――

「早く止まれ! 前を見ろ!」

 ハッと我に返り、とっさにブレーキを踏んだ途端、目の端に真っ赤なスカートが飛び込んできた。迫りくる横断歩道の真ん中で少女と若い母親が手を繋いで歩いている。止まれない、と直感した。少女と目が合った気がして息を呑む。

 たった一度の過ちがあなたの人生をすべて変えてしまいます――、と誰かが耳元で囁いた。

 衝撃に目をつむる一瞬前、俺は真っ白な何かに包まれて視界を失った。ズドンと爆発音がして、放り上げられるような感覚があった。闇の中でもみくちゃにされたあと、泡のようなものが弾け、急にぱっと視界が開けた。

 そして気づくと、俺は空中に浮かんでいた。

 真っ青な空に羊雲が浮かび、眼下に市街地と十字路が見える。俺は座席ごとパラシュートにぶら下がっていた。

 十字路に、レグルスの黒い車体は見当たらなかった。そのかわり、乳白色の砂が路上一面にばらまかれているのが見えた。数台のパトカーがようやく現場に集まりつつあった。何が起こったのかはっきり理解できないまま、俺は何となく、何かのCMで見た車の宣伝文句を思い出していた。


 ――3Dプリンターで使用するPLA樹脂は経年により加水分解を起こします。当社の最新安全技術はこれを利用し、緊急時には樹脂内に内包された特殊溶液入りナノカプセルを破裂させて、車体を素材レベルにまで急速分解するのです。


 パラシュートはゆっくりと降下しながら、パトカーの方に誘導されていった。きっととてつもない額の罰金が言い渡されるのだろうが、それはもうどうでも良かった。

 横断歩道の途中で、砂まみれになってたたずむあの母娘を見つめながら、俺は肩を落とし、唇を開き、もう元には戻らない家族の姿と二人を重ね、ただ自分が奪ったかもしれない未来を思って震えていた。そして、赤いスカートの少女が、あのクマのぬいぐるみを抱き上げるのを見たとき、俺は自分が泣いていることに気がついた。

 時計はちょうど、十二時を回ったところだった。 <了>                                    

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