ハニー*メープル
薪原カナユキ
1.オータム*アペタイト
茹だる暑さをようやく引っ込めた真夏を、少し過ぎ。
実りの季節とされる紅葉の秋は、アタシたちにも色々な恩恵を与えてくれる。
読書に芸術、スポーツに睡眠。
過ごしやすい気温に変わるからか、世の中の人たちは
だからアタシは。
「……地獄の秋」
誰にも聞こえないよう呟くアタシは、自分が置かれている忙しない状況に疲労を感じていた。
鼻孔をくすぐる焼けた小麦粉と砂糖の匂い。
耳に飛び込んでくるのは
アタシは手元に置かれたトレーから、休みなく手を動かしてある物をビニール袋へと詰めている。
そのある物とは――
「お待たせしました。気を付けてお持ちください」
慣れた作り笑いを浮かべて、ビニール袋を目の前で待っている女子高生へと手渡す。
一緒に待っていた友達と黄色い声を上げる彼女は、足取り軽く向かい側の扉を通り、外へと歩いていく。
「ミッカ先輩。今日もお忙しそうですね」
次に現れたのは、灰色のジャケットブレザーをきっちりと着こなし、甘く垂れた瞳でニコニコしている少女。
彼女とアタシの間にはカウンターがあり、そこに置かれたのはトレーに乗せられたパンたち。
そう。
アタシは今、お客さんで混雑しているパン屋で働いている。
「なら手伝ってよ、
「えへへっ。額に汗かいて働く先輩のお姿。惚れ惚れします」
「話聞いてる?」
ほんのりと頬を染める彼女――
アタシみたいに髪を染めたり、派手なアクセサリーとかを付けない大人しい印象の彼女だが、アタシにだけ何かにつけて、グイグイと詰め寄ってくる。
「はあ……まあ良いけど。こんなに食べて大丈夫なの?」
それよりもアタシが気になったのは、彼女の持ってきたトレーにあるパンの数。
まず砂糖をまぶした揚げパンがあり、さらには小さなケースに詰められたまん丸のドーナッツ群。
食欲の秋。
そして甘い物は別腹と言っても、今の時間帯は茜色の空が綺麗な夕方だ。
学校の帰りだとしても限度がある。
「問題ありません。先輩の美味しそうなプリン髪を目にしただけ、カロリーが悲鳴を上げています」
「悲鳴を上げるのは、これからだと思うけど」
目を輝かせて涎を垂らす
「なのでハニートーストも追加でお願いします!」
「はいはい。……なんでそれだけ食べて太らないの」
ぼやくアタシとは違い、
細身の外見とは裏腹に甘い物を大量に食べる
彼女が頼んだのは、アタシが働くパン屋――ハニカム・ベーカリーの名物。
店員に直接注文することで食べられるそれは、特別手間暇がかかる物でも無ければ、期間限定でも無い。
注文が入り次第トーストを焼き、出来立てのハニートーストをお客様に提供する。
たったそれだけの物なのだが、今となっては立派なうちの看板メニューだ。
「お母さん、ハニートースト一つお願い」
「はーい。ちょっと待っててね、ミッカ」
カウンターから繋がっている厨房へ注文を通すと、母親のゆったりとした声が帰ってくる。
注文から少し時間がかかるのが難点な気がするけど、それでもリピートが絶えないハニートースト。
その最大の理由は、アタシが分かる範囲に一つある。
「
「ミッカ先輩をお持ち帰りで。あっ、パンはここで食べます」
「はい。じゃあ大人しくカウンター横で待っててね」
「間違えました。ミッカ先輩もここで……。いえ、ナンデモナイデス」
聞き捨てならない発言に、アタシは冷たい視線を
蜂に刺されたように硬直する彼女は、自分の発言を訂正して大人しくカウンター横へと逸れていく。
「ったく。油断も隙も無い」
「先輩。昔みたいにその溢れる母性で、私のお願いも優しく包んでくれませんか?」
「今の
「ううっ……。高校の時の甘々な先輩はドコに……」
黒のリボンで適当に結ったルーズサイドポニーテイル。
そして私服にお店のエプロンをかけているだけなのだが、告白をしてくる奴も大半は今の姿を口にする。
曰く、優しく腕の中で甘えさせてくれそう。
それが去年まで通っていた高校の男子生徒が言う恒例文句だ。
「というか、優しいも何もアタシは――」
「はいお待たせ。ハニートースト一つだよ。
「わあっ! ありがとうございます。おばさん!」
優しくした覚えなんてない。
そう言おうとしたところに、お母さんが横から甘い匂いを引き連れて遮ってきた。
焼いたパンの香ばしい香りすら飲み込む蜂蜜の匂いは、瞬く間に店内を一色に染め上げる。
「ミッカちゃん。このまま
「いや、待ってお母さん。まだお客さんが」
「このくらいの人数なら、わたしが何とかするわよ。ささっ。行ってきなさい」
グイグイと背中を押されつつ店内を見渡すと、確かにお客さんの数は片手で足りる程になっていた。
「ほら行きましょう、ミッカ先輩」
「ああもう、二人とも急かさないで。行くから。今行くから」
そうしてお母さんにレジを任せ、アタシは
ドアベルを鳴らして出た外は、店内からでも分かっていたけれど茜色が空を満たしていた。
店の前には隣の喫茶店と共同で使っている飲食コーナーが広がっていて、帰宅途中の中高生たちが買ったパンを片手に談笑をしている。
一見繁盛しているように見えていても、視線を周りに移すと現実は違う。
所々にシャッターが降りているお店が立ち並び、通行人は多くても立ち止まる人はほんの僅か。
「
「止めましょう、先輩。苦い話はまた後です」
アタシの小さな声を拾った
パタパタとテーブルへかけていく背中には、
「あっ、
「げっ……――」
飲食コーナーでうちとは別のエプロン姿の男性店員を見つけるや否や、
対してアタシは、口元を少し上げて声を漏らしてしまう。
少し鬱陶しさを感じる、伸ばされたダークブラウンの髪。
左耳には、六角形の金色ピアスが一つ。
モノトーンコーデの服装は彼が働く店のものであり、高めの身長も合わせて似合ってはいる。
何もないときはスンっと冷めた表情をしているけど、お客さんの前では良くできた微笑を浮かべるのは腹が立つ。
「んだよ、ミツバチ女。
「なわけ無いでしょう、
「いつも反応速いですよね、二人とも。もう脊髄反射レベルです」
「速くねぇよ!」
「速くない!」
開口一番の売り言葉に買い言葉。
だけど
アタシの親が経営している小さなパン屋――ハニカム・ベーカリーに隣接する、同規模の喫茶店の一人息子。
どう足掻いても縁が切れない腐れ縁で、小学校の頃からの知り合い。
「
「あっ、アタシも珈琲一つちょうだい。アンタのオススメなら何でもいい」
「そこは
黙って立ち尽くしていてもどうしようもないので、アタシたちは空いている席に腰を落ち着ける。
丸投げは止めろと文句を垂れる
「はむっ……もぐもぐもぐもぐ……。っんく。ねぇ
「食べるか喋るか、どっちかにして」
「………………はむ」
「ああ、大したことじゃ無いのね」
揚げパンを頬張り、口の周りを砂糖まみれにした
どう見ても口の中身が残っているまま喋ろうとする彼女だが、どちらか片方にしろと迫ると、無言のままリスの如く揚げパンを味わっていく。
区切りをつける間もなく縮んでいく揚げパン。
「……ふう。Dayoffの飲み物は、やっぱり先に頼まないと駄目ですね」
「いや、
飲み物が来るまで一切待つ気がなかった癖に、
その為か注文から提供までの時間が早く、一秒でも多くお茶の時間を過ごせる。
そんな仕組みになっているのだが、早食いされては元も子もない。
「お待たせ――。……チッ。今日も無理だったか」
「ふっふっふ。今日も私の勝ちですね、
「早食いと早淹れで競うとか、馬鹿なのアンタたち」
思った以上に早く店から顔を出した
彼が手にしているトレーの上には二つのカップがあり、ちゃんと二人分を淹れてきたようだ。
「ほら、
「……へえ。なるほどね」
「何か文句あんのか」
それは一見変哲の無いマキアート。
けれども珈琲の香りに混じる甘い匂いは、よく見かけるキャラメルの物とは違う。
「メープル・マキアート。アンタがそう来るなら、乗ってやろうじゃない」
「ミッカ先輩っ! それ私のハニートースト! 別に良いですけど、ちゃんと残しておいてくださいね!」
アタシは
気が付いたら自然とやっていた、味見勝負。
最初は何てことない理由で、お互いの作った物を食べて比べて。
そして今は、相手が美味しいって言わせられるかを競っている。
「今日はパンを作るところから付ける蜂蜜を選ぶまで。全部アタシがやったんだから」
「先輩。私、ちょっともう一枚買ってきます」
「えっあっ、うん。――だから勝負しなさい、
「勝負も何も、ただ味見するだけじゃねえか」
不服そうにしながらも、
合わせてアタシもカップを手に取り、器の中身をじっと見つめる。
急ぎで作ってきた割には綺麗に引かれた、琥珀色の葉っぱの線。
キャンバスとなるフォームドミルクは優しい色味で、口をつけようにも躊躇ってしまう。
ふと視線を
「――ホント、甘いんだから」
そっとカップに口を付けて、湯気立つ珈琲を口の中に含んでいく。
甘くも苦いメープル・マキアートは、その一口だけで
ゆっくりとカップを口から離し、ほうと一息つきながら味を反芻する。
「ちょっと苦いんじゃない、
「それはこっちの台詞だ、ミッカ。甘すぎんだよ」
欠けたハニートーストとメープル・マキアート。
甘すぎて、ちょっと苦い。
そんな評価を下したアタシたちは、目線が合うや否や、ぷいとそっぽを向いてしまった。
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