ある男の手記
Itokichi
観察者
ここにオレの当時のちょっとした趣味について記しておこうと思う。それは『のぞき』だ。待て待て、いかがわしいもんじゃないさ。それに相手は男だ。俺の一軒家の隣には、20代前半くらいの細身で身長はかなり高い『好青年』とも呼ぶべき人物が住んでいて、俺の家の窓からあの青年の自室が見える。そしていつも絵を描いているのを見るに、彼は『絵描』に間違いないだろう。それに描いている絵も見えるかぎりだと、必ず女性のシルエットがカンバスの上に広がっている。オレはいつもあの青年の絵のうまさに舌を巻いてるのだが、ある日から様々な出来事が彼の周囲に起こり始めたのだ。
ある快晴の昼下がり、例の青年の家の方から何やら声が聞こえてきたんだが、明らかに男の声じゃなくて女性の声だったんだ。まあ、別にとり立てて気にすることでもなかった。だがその声があまりにもずっと続くから、気になって窓から覗いてみたんだ。そしたらある女性が(かなりの厚化粧と今からパーティへいくのかと思うほどシャレた格好をしている)手に何かは冊子のようなものを持って青年の名前?をずっと呼んだかと思えば扉をノックしていたんだ。だけど当の本人である青年は、絵を描くのに夢中で全く気づいていないようだった。それから程なくしてその女性は諦めたのか帰っていったよ。手記にするほどの話じゃないって思うだろ?まあその時のオレは同意見だろう。こんなことの一つや二つ誰にだってあることだって思った。
だがその日以降、週に3〜4回くらいの頻度であの女性が青年の家を訪ねるようになったんだ。それよりも違和感を感じたのは、あの青年がその女性の呼びかけに一回も応じないことなんだよ。疑問に思ったオレは色々考えてみたんだ。
家の構造のせいで、青年がいつも絵を描いている部屋まで女性の声が聞こえないのか?それともあまりに絵を描くのに集中していて聞こえていないのか?だとしても流石に一回くらいは気がついてもいいはずだ。ではなぜだ?オレは仕事が手につかないほど気になっちまったから、もうこれは仕方がないからどっぷり考え込んでやった。すると一つの結論に辿り着いた。
それは『恋』だ。あの女性は青年に恋してるんだ。だから週に何度も家を訪れては、懲りもせず愛しの青年の名前を呼ぶ。青年の反応からして女性のことは好きではないんだろう。そしてだ。あの青年はたぶん、いや確実に思い人がいるはずだ。理由はあの絵だよ。毎回必ず女性の絵だろ? それは自分の好きな女性への叶わぬ思いをを描いてるからにちがいない!きっとそうやって、女性への想いを昇華させているんだろう。
そんな推理をしていた頃、休日に自宅でのんびりしてたんだ。テレビを見たり、漫画とか本を読んだり、あと早い時間から酒も飲んでた。そしたら例の家の方から女の泣き声がしてくるんだ。オレは思ったよ。とうとう女を泣かせたな青年、ってね。もはや分かりきったことだったから、わざわざ確認する必要なんてなかった。
その日の夜、早い時間から酒を飲んでたからもう寝ようと思った矢先にあの青年、いつもじっと絵を描き続けている青年が立ち上がったかと思うと完成した絵を持ち嬉々とした表情を浮かべていたのである。オレは、青年のそんな嬉しそうな表情見たのは初めてだったから驚いちまった。同時に上手くかけた絵をその女性にプレゼントしに行く気ではないかと思ったんだ。そしたら案の定だ!青年はその絵を持って、青年の右斜め前の家に訪れては扉をノックした。すると中から女性が出てきて、青年を家に招き入れたのだ。オレは青年がうまくいくよう神に祈った。
だが現実は厳しかった。その家から出てきた青年は酷く落ち込んだ表情をしてたんだ。もうみてられなくなって、オレまで辛くなっちまったからその日はすぐに寝こんだよ。
そしたら翌朝、もっと衝撃的なシーンを見ちまったんだ。ゴミ出しするために家を出たら、オレの家の近くで青年の想い人が知らない男性に向かってこの裏切り者、って叫んで泣いてんだぜ。朝から目が覚めるどころか、その後もずっとこのことが頭にこびりついて離れなかった。
なんでかって?その時は分からなかったんだが今なら言える。それはオレの中で『恋』ってものがどれだけ馬鹿馬鹿しいものか思い知らされちまったからなんだ。ご近所さんでそんなもん見ちまったらそう思うのも当然だよな?実際オレはその後の人生はその教訓に従って生涯独身で過ごしたよ。それでこの手記を書いている今は、もう老ぼれのじいさんで病院のベッドの上さ。まったく、飯が不味すぎるってもんだ。まあ、とにかくオレはやるべきことはやり尽くした。仕事もその後頑張ったし、やりたいことも全部やれた。まったく、いい人生だった。まったく、本当に。じゃあなぜこんな手記を書いてるのか疑問に思うか?ハハッ、なんでだろうな。あんまり老いさき短いじいじいに言わせないでくれ。
それじゃ、おれは眠るとするよ、おやすみ、見知らぬ誰かよ。
ある男の手記 Itokichi @itokichi4974
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