第十四話 分霊

 数日後——


 あの家は、なぜか突然、不動産会社の手で解体されることになった。


 地元では「何かあったらしい」とだけ噂されたが、真相を語れる者はいなかった。


 そして、間宮響子の元には一本の電話がかかってきた。


「あの……長男の博行です。母の声を、夢で聞きました。『もう大丈夫。戻ってきても大丈夫よ』と……。どうして、そんな夢を見たのか分かりません。でも、なぜか、すごく……安心したんです」


 響子は、電話を握りしめたまま静かに微笑んだ。


「……それでいいのよ。ようやく、呪いは終わったのだから」


 だが、その足元では、小さく蠢く影が、壁の隙間に消えていった。


 悪魔は去った。しかし——全てが終わったわけではなかった。




 悪魔マセシエルが封じられてから、二週間が経過した。


 響子は、自宅の一室に古びた手帳を広げ、過去の心霊調査の記録を整理していた。どのページにも赤い印が残っている。悪魔が関与したとされる痕跡のある案件にはすべて、同じような異質な残響(レゾナンス)が記されていた。


 “カーテンが一斉に閉じる”  “赤い目”  “腐敗臭”  “「何しに来た」という声”


 そして、すべての事件で共通していたのが――一人の少女の存在。


 前田真希。


「彼女は最初の“鍵”だった……」


 響子は机の引き出しから、あのとき前田真希が残していったウィジャボードの写しを取り出した。


 ノートに書かれたエンジェル様の盤面。数字、ひらがな、そしてアルファベット。中央には、確かに"MASESIEL"という綴りが小さく、震えるような字で記されていた。


「あの時……真希は自分が呼び出してしまったものの名を書き残していた。助けを求めて……でも、誰にも届かなかった」


 ふと、部屋の温度が下がった。


 吐息が白くなる。


「また……来たの?」


 振り返ると、そこにはクローゼットの前にうつむいた少女の霊が立っていた。


 白く濁った瞳。血の気のない唇。そして、あのときの制服姿のままの――前田真希。


「……わたし……まちがえた……」


 声はかすれていたが、たしかにそれは真希のものだった。


「私が……呼んだの……遊びだった。みんな……いなくなった。わたし、独りになったの。だから……“守って”って言ったの……」


 響子はゆっくりと立ち上がり、彼女に近づいた。


「あなたは悪くない。あの存在は、真希な心の弱さにつけ込んだだけ」


 だが、真希は首を振った。


「わたし、まだ……呼んでるの。夢の中で。……“第二の器”になりかけてる」


「なに……?」


「……わたしの中に、マセシエルの“分霊”が……居るの……。本体は封じられたけど、“影”は……私の奥に残ってる……」


 その瞬間、真希の瞳が一瞬だけ赤く光った。


 響子は身構えた。


「真希……あなたを救わなきゃならない。でも、それには……“マセシエルの影”を完全に祓わないと」


「無理だよ……もう、わたしじゃない。もうすぐ“次”が来る……“あの人”が次の器になる」


「“あの人”? 誰のこと……?」


 真希は、ゆっくりと、ある名前を口にした。


「……芳生さん」


 ——野口家の次男、芳生。


 “孝之の霊”が語っていた、あの家族の次男。


「……あの家を離れていたはず……! 守護霊に護られて……!」


「でもね……響子さん。彼は戻ってくる。“あの家に呼ばれて”……自分から」


 そして真希は無機質な表情で口元だけ微笑んだ。


 その笑みに、悪意はなかった。だが、それは――まるで、自分がその運命を受け入れているかのような諦めの表情だった。


「マセシエルの影は……人の絶望と罪を喰って、根を張る。誰かの後悔を……糧にするの」


 その言葉とともに、彼女の姿は霧のように消えた。

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