第十三話 名前
梅雨の終わりを告げるような生ぬるい雨が降っていた。
響子は、白い喪服に似た装束に身を包み、再び“あの家”の門前に立っていた。手には、阿川から授かった古代の祓符、そして自ら調合した清めの液体が入った銀製の瓶を握りしめている。
「……帰ってきたわよ」
無言のまま佇む家。窓という窓にはカーテンが引かれ、どこか“見られている”ような感覚だけが圧し掛かってくる。
玄関の扉に手をかけた瞬間、鉄のような冷気が響子の指先を凍らせた。
「悪魔よ……貴様はこの家に巣食い己の狩場にした。そして孝之さんを器にした。でも、ここに住んでいたのは人間だ。家族だった者たちの愛と記憶が、まだこの家を完全には渡していないはず。孝之さん亡き後、貴様が再び媒体にしたこの家では、器無き貴様など恐れるに足らん!」
玄関を開けたその瞬間——
ズゥゥン……という低周波のような唸りが、家全体から湧き上がった。
辺りの空気が急激に変わる。まるでこの家そのものが生き物であるかのように、吐息をし、眼を開け、響子を睨みつけているかのような気配。
「戻ってきたのか……私の愛おしい器よ」
家の奥から、あの性別を持たない声が響く。
「お前が名を知ろうとしても無駄だ。この世に記されていない。忘れられたのだ」
「忘れられてなどいないわ。貴様等悪魔は巧妙には嘘をつく。人の心を裂き、時間を喰い、家族を壊しながら、誰かに覚えられることだけを望んでいた。私は……もうそれが、わかっているのよ」
悪魔のクククククっと笑い声が床下から天井裏まで反響する。
「ならば言ってみろ。名を呼べ。私を貫け。さもなくば、お前の魂を喰らい、肉体を“新たな器”とするだけだ」
響子は目を閉じ、深く呼吸した。
過去の声が蘇る。
——“あの家で何かが生まれたのは、真希が“名前”を付けたから”
——“孝之さんはその“音”を耳にしてから変わった”
——“呪いとは、言葉で始まり、言葉で終わるのよ”
ふと、心の中にある音の響きが浮かび上がる。
それは、響子がかつて夢の中で何度も聞いた、意味のないようで意味のある、耳に棘を残す呪いの音。
——「マセシエル」
その名を、静かに、しかし確かに唇から零した。
「……マセシエル」
次の瞬間、家全体が悲鳴を上げた。
ガンガンガン! 壁が内側から砕けるように音を立てる。天井から埃とともに何かがパラパラと降ってくる。
「何故……何故だ!? その名を……その名を貴様……何故知っている!?」
「思い出したのよ、貴様自身が教えたの。真希にも、孝之さんにも。そして、私にも」
屋根裏から落ちてきたのは、布でぐるぐる巻きにされた人形だった。血で濡れたような赤い糸で縫われた口。黒い髪。赤い目。
「貴様は呼ばれたのよ。真希が、自分を守ってほしいと願った時——あんたは“天使”の仮面を被って何食わぬ顔で舞い降りてきた。でも、その正体はただの——卑劣な悪魔!」
悪魔の怒声が轟き、空間が捩じれる。
音が全て消え、闇が家の内部を支配した。
そして——家の奥、祖母が亡くなった和室の扉が、ひとりでにバンと激しい音を立てて突然開いた。
その中には、異様に膨れ上がった“何か”がいた。
腐敗した肉、まばたきしない赤い目、長く垂れ下がる黒髪。人間の姿を模倣しているが、それは明らかに異型の者でだった。
「マセシエル……あなたを、ここに縛る」
響子は、阿川から渡された呪詛返しの祓符を取り出し、己の掌を裂いて血を滲ませた。
そして、自らの血でその名を祓符の裏に書いた。
——M-A-S-E-S-I-E-L
「名を知った今、あなたは地上に留まれない!」
全身を圧するような衝撃が響子を襲う。
呼吸ができない。目が潰れそうな光。骨が軋む音。家全体が崩れそうな震動。
それでも、響子は手を離さず、名を刻み続けた。
「名をもって、貴様を封ずる! マセシエル、地獄へ還れ!!」
悪魔の断末魔のような咆哮とともに、家中の窓が次々と粉々に砕け散り、カーテンが青色の炎を上げながら焼け落ちる。
家の中に充満していた黒い瘴気が、扉や窓の隙間から外へと一気に噴き出し、夜空へと霧散していった。
そして、静寂——。
床に崩れ落ちた響子は、ようやく息をついた。
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