第285話 令和4年1月15日(土)「いまのわたしにできること」日々木陽稲

「行ってらっしゃい」


 わたしはお姉ちゃんを笑顔で見送る。

 お姉ちゃんはほんの少し緊張した面持ちだ。

 やがて意を決したように「うん。行ってくる」と頷いた。

 その時、お姉ちゃんの右手はわたしがクリスマスプレゼントとして贈ったマフラーに添えられていた。


 今日は大学入学共通テストの初日だ。

 猛烈な寒波は和らいだとはいえ真冬の早朝の空気は肌を切り裂くように冷たい。

 お姉ちゃんが玄関のドアを開けると、部屋着の上にカーディガンを羽織っただけのわたしだと身震いするような風が吹き込んできた。

 試験会場まで付き添うお父さんとふたり、慌ただしく家を出て行く。

 わたしはドアが閉まったあとも祈るように両手を胸の前で組み、プレッシャーになるかもしれないと言えなかった「頑張ってね」という言葉を口の中で呟いた。


 居間に戻ると、お母さんが朝食の準備をしていた。

 車椅子を使うことも滅多になく元気そうに見えるが、まだ病に倒れる前の健康さは取り戻してはいない。


「手伝うよ」


「もうこれで終わりだから座っていて。お父さんや華菜がいると私に家の仕事をさせてくれないけど、これもリハビリのうちだから」


 ここに居ないふたりの名誉のために言うと、ふたりが過保護なのではなくお母さんがいつもやり過ぎるから止めるのだ。

 お母さん本人はちょっと無理をするくらいじゃないと回復に繋がらないと話すが、周りがハラハラしてしまうのは仕方がないだろう。

 わたしはそれを指摘することなく自分の席に着いた。

 お母さんもわたしの斜め前の席に座り、手を合わせた。


「いただきます」


 互いの今日の予定を再確認したあとは、雑談の内容はどうしても今日の入試のことになる。

 お母さんは「陽稲がこれから受験するみたいな顔をしてる」と笑う。

 わたしは頬を膨らませて「お母さんは心配じゃないの?」と聞いてみた。

 お姉ちゃんの成績からすると実力通りに結果を出せば志望校の大半に合格できそうだった。

 でも、何が起きるか分からないのが受験だ。

 わたしは中学受験で大失敗した苦い思い出がある。

 試験会場で文字通り頭が真っ白になり、まったく答えが書けなかったのだ。

 高校受験の時だってかなりの対策をしていたのに非常に緊張した。

 可恋から「名前さえ書けば合格だから」と言われていなければ、もっと酷い出来になっていたかもしれない。

 あの時は名前を書いて落ち着けたが、お姉ちゃんの受験となるとまた違った緊張感がある。


「大丈夫よ。華菜は私に似たから」


 お母さんはドヤ顔で言い切った。

 学生時代から自信家で、周囲からも常に注目を浴びていたと母の妹である宣子叔母さんからも聞いている。

 お姉ちゃんはそこまで自信みなぎるタイプではないが、ここぞという場面では肝が据わっている印象だ。

 そこは「姉」の信頼感なのだろうか。

 いまのわたしにできることは信じることだけなので、「そうだね」とお母さんが信じる気持ちを素直に肯定した。


 朝食を終えると純ちゃんが迎えに来てくれた。

 わたしからすると見上げるような体躯の持ち主で、筋肉の鎧に包まれて小山のようにさえ感じてしまう。

 それでいて威圧感はまったくなく、大型犬のようにわたしを慕ってくれる。

 わたしは厚手のコートを身に纏うが、純ちゃんは上下ジャージのままだ。

 肩から大きなスポーツバッグを提げ、どんな強風にも揺るがないどっしりした安心感をわたしに与えてくれる。


 オミクロン株によって新型コロナウィルスの新規感染者数が爆発的に増えている。

 しかし、街中を歩く限りではそんな衝撃的なニュースは別世界のことのように感じる。

 行き交う人がみなマスク姿であることを除けば、変わり映えしない日常の一ページにしか見えない。

 試験も感染症もこの世界のごく一部での出来事だと錯覚してしまいそうだ。


 中学時代に3年間――実際は1、2年生の時だけだが――通った通学路をふたり並んで歩く。

 いつもならわたしが一方的に話をするが、最近は黙ったまま歩くことが多かった。

 中学の正門の前に、まだ新しい感じの残るマンションが見えてきた。

 住宅街のこの辺りでは高めだが、もの凄く高層というわけではない。

 この街にしては高級感があり、部外者を寄せつけぬような厳めしい雰囲気のある建物だった。


 それを見上げて深呼吸をしてからエントランスに入る。

 エレベーターに乗り、降りてすぐのドアに向かう。

 鍵を開け、ゆっくりとノブを引く。

 重々しく扉が開き、玄関が現れた。

 思わず溜息を吐く。


「送ってくれてありがとう。練習、頑張ってね」


 わたしは純ちゃんに礼を言った。

 彼女はこれから横浜のスイミングクラブに向かう。

 表情を変えずに頷いただけの純ちゃんだが、練習を楽しみにしていることは感じられた。

 そこは長いつき合いだ。

 わたしは笑顔で送り出し、それからしばらく閉じたドアの方を向いて立っていた。


 大きく息を吐いて、「よし!」と自分に気合を入れる。

 振り向いて飾り気のない廊下を進む。

 その先のドアを開けると、広いリビングダイニングが目に飛び込んできた。

 誰もが驚くような開放感のある部屋だ。

 それがいまのわたしの目には寒々しく映った。


 部屋の灯りをつけ、空調の電源を入れる。

 そのまま奥に向かい、ベランダに通じる大きなガラス戸の前のカーテンを全開にする。

 自然の光のお蔭で少しホッとできた。

 これが先日の雪の日のように外が真っ暗なら居たたまれない気持ちになっていたかもしれない。


 わたしは週に一度この部屋に来ている。

 目的のひとつは清掃だ。

 部屋が老け込むというのは変な表現だが、誰も住まないまま1週間もすればそう感じてしまうのだ。

 週に一度くらいは綺麗におめかししてあげようという思いだった。


 リアリストの可恋は退院が決まったら業者に隅から隅まで清掃してもらうから必要ないと話していたが、これはわたしの気分の問題だった。

 そう、可恋は入院している。

 10月末の臨玲祭の直後からだ。

 入院後しばらく経って、わたしは可恋の口から病名を告げられた。


「いまは不治の病って訳じゃない。幸い、私の身体にも薬が効くようだし」


 そう言われたって安心できるはずがない。

 可恋は生まれつき免疫系に障害を持っている。

 子ども時代のことは話に聞いただけだが、その大変さは想像を絶するほどだった。

 二十歳まで生きられないと医師から宣告されたこともあった。

 可恋ならそんな運命を跳ね返してくれると信じていただけにショックは大きかった。


 絶句するわたしに「大丈夫。しばらく入院が必要だけど、必ず退院するよ」と励ますように語った。

 わたしの方こそ可恋を励まさないといけないのに。


「何でも話してね。わたしにできることなら何でもするから」


 そう言ったものの、可恋の試練をすべて受け止められる自身はわたしにはなかった。

 可恋もそれが分かっているから話すタイミングを計っていたのだと思う。

 それでも他の誰よりもわたしに辛い気持ちを吐き出してくれていると信じている。

 薬が効きすぎて副反応が酷いことや検査の大変さ、面会制限への不満、自分の身体なのに思うようにならないことへの愚痴など様々なことを話してくれた。

 これまでの闘病の中でもいちばんキツいそうだ。

 生の感情ではなく愚痴というオブラートに包んで話す分、わたしは聞き役としてなんとか受け止められている。

 もっとわたしが大人だったら……と思いもするが、こればかりはどうしようもない。


 掃除といってもリビングの大部分はロボット掃除機任せだ。

 わたしは彼(?)の手が届かないところをカバーする。

 それが終わると、この部屋に来たもうひとつの目的を始める。

 それは仕事だ。

 臨玲ブランドの新作のデザインを考えなければならない。


 学校の制服のデザインだから、一度決まればそれで終わりだと思っていた。

 制服以外の学校関連の衣類・生活用品などのデザインも統一感を持って考えて欲しいと言われた時も似たようなものだった。

 だが、可恋の要求は更に続いた。

 季節ごとに新作を発表するようにと言われた。

 その量たるやこれまでの人生で考えついたすべてのデザインのストックを使い果たすほどだ。

 それでも足りない。

 いまは夏物の製作に注力しているが、すぐに秋物のデザインを求められるようになる。

 ここからは2年目となるので前年との違いも出していかなければならない。

 果たして自分にそれができるのか。

 いまの可恋を前にして泣き言は言えない。

 可恋はわたしを信じて仕事を任せているのだから、わたしは可恋のその判断を信じるしかない。


 自宅よりも静かで、空調の音が微かに聞こえるのみ。

 集中するにはもってこいの環境だ。

 それに。

 ここでは可恋の息吹のようなものがほんのわずかながら感じられて、わたしに力を与えてくれる。


 インターホンが鳴って顔を上げると、外はすっかり暗くなっていた。

 お昼は家から持参したお弁当を食べたが、その後は飲まず食わずでスケッチブックに向き合っていた。

 もう少し続けたかったが、立ち上がろうとするとよろめいた。

 体力の限界のようだ。


「わざわざ上まで来てくれてありがとう」


「バイトだからな」


 玄関まで迎えに来てくれたのは中学時代のクラスメイト、麓さんだ。

 可恋は入院が決まったあと、彼女を護衛役として雇った。

 不良として知られるが、可恋とは意外と仲が良い。

 アルバイト代がかなり破格ということもあるのだろうが、護衛は手を抜かないし時間もきっちり守る。


「自分が襲撃するならどのタイミングが良いか考えられるのなら護衛役は務まるって言ってたから」


 ぶっきらぼうな態度だが、可恋の指示通りにしっかり玄関まで足を運ぶ。

 家を出た瞬間や帰った直後がいちばん大きな隙が生じるそうだ。


 ふたりで歩いていると、わたしの知らない可恋のことを話してくれる。

 言葉はキツいが、元気のないわたしを気遣ってのことだろう。

 それに感謝しつつ、わたしは気になったことを聞いてみた。


「もし、退院した可恋が麓さんより弱くなっていたらどうする?」


「さすがにいまのワタシはタイマンだけが強さじゃないって知ってるからな」


「そうなんだ」とわたしは可恋が認められたように感じて嬉しそうに微笑む。


「そう。アイツは喧嘩が多少弱くなっても札束で殴れるだろ」


 ……否定はしないけど!




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・高校1年生。臨玲高校生徒会副会長。ファッションデザイナーを子どもの頃から目指していた。現在は起業し、臨玲高校の新しい制服及び新ブランドのデザインを担当している。


日々木華菜・・・高校3年生。料理が得意で調理師か栄養士を目指していたが、迷った末に栄養士の資格を取ることを決めた。妹を溺愛している。


安藤純・・・高校1年生。貧乏だが可恋の推挙もあって臨玲に通っている。競泳選手であり、この年代では全国レベルの実力を誇る。


日野可恋・・・高校1年生。臨玲高校生徒会長。臨玲高校理事。NPO法人代表。プライベートカンパニーの社長も務める。父からの養育費を元手に投資でも稼いでいる。


麓たか良・・・高校1年生。いわゆる”底辺”の高校に通うがいろいろあって総番となった。ボクシングジムに通っている。

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