第153話 令和3年9月5日(日)「秘策」神瀬結

 初めてその想いを口にしたのは全中で優勝を飾ったあとだった。

 父は道場主だ。

 わたしの優勝で上機嫌になり、周りに人がいないタイミングを見計らって切り出した。


「臨玲高校に行きたいの。お願い!」


 深々と頭を下げる。

 相手が何も言わなかったので恐る恐る顔を上げるとお父さんは渋面を作っていた。

 賛成ではないが頭ごなしに否定もしない。

 それを見て、「いままで以上に空手の稽古を頑張るから」とか「ほかのことはすべて親の言うことを聞くから」とか言って説得した。

 結局、お父さんは「お母さんがいいと言ったらな」と条件付きで認めてくれた。


 しかし、お母さんは表情ひとつ変えずに「ダメです」とにべもない。

 空手の練習環境だけでなく通学時間やその後の進路のことまで指摘され、わたしは為す術なく退却するしかできなかった。


 それでもわたしの想いは変わらない。

 現在は私立大学系列の中高一貫校に通っていて空手の練習環境としては素晴らしいが、ここには日野さんがいなかった。

 わたしは彼女に出会って自分の空手に目覚めた。

 わたしの心と身体は日野さんによって作り替えられたのだ。

 それなのにいまは滅多に会うことができない。

 わたし以外にも日野さんの素晴らしさに気づいた空手家も現れた。

 危機感を覚えたわたしは臨玲進学しかないと思うようになった。

 なんとかそれを許可してもらおうとあの手この手で迫ってみるが、まったく取りつく島もない。

 わたしはついに「空手を辞める」と宣言して家を飛び出した。


 行く当てがない……と言うよりも、行くとしたらここしかないと言った方が正確だろう。

 わたしの足は日野さんが暮らすマンションに向かった。

 日野さんと日々木さんは親身になって相談に乗ってくれた。

 それが昨日のことだ。


「お母さん、お願い!」


 家にいる時は普通の主婦のように見えるが、お母さんはお父さんの空手道場だけではなくスポーツジムなども経営する優秀な経営者だ。

 コロナ禍でも売り上げを伸ばしているらしい。

 お父さんはこと経営に関しては頭が上がらない。


「鎌倉市内で下宿しながら臨玲に通おうと思うの。お父さんも高校生の時に師匠の家で暮らしていたって聞いたよ」


「あなたに独り暮らしができますか?」


「大丈夫。お姉ちゃんも大学進学後は独り暮らししたんだし、わたしだって」


「舞は高校生の時から自分のことは自分ですべてできました。結は……」


「わたしだってやろうと思えばできるよ!」


 そりゃこれまでは親任せだったが、やろうと思えばできるはずだ。

 日野さんなんて中学生の時から独り暮らしに近い生活をしていたと聞いている。

 あの人は特別だけど、頑張ればわたしでも何とかなる、……たぶん。


「経済的負担はどう考えているのですか」


「臨玲にも特待生の制度があるから学費はきっと大丈夫だよ」


「結は1ヶ月の食費や光熱費がいくら掛かるかも知らないでしょ?」


「そ、それはそうだけど、これからちゃんと勉強するよ」


 そう言ったのにお母さんはこれ見よがしに溜息を吐く。

 わたしはこのまま話が打ち切られないように慌てて「それに……」と言葉を繋ぐ。


「お姉ちゃんは協力してくれるって」


「舞と話したのですか」


 昨日日野さんのマンションからその足でお姉ちゃんのところへ向かった。

 忙しいかと思ったが連絡を取ると会ってくれると言ったのだ。


「空手を辞めるって話ならお姉ちゃんに言えなかったけど、続けるために協力して欲しいって話だからお願いをしに行ったの」


 歳が離れているし、わたしが小さな頃に家を出たので姉とは少し距離を感じている。

 同じ空手の形の選手ということで比べられてきたというのもある。

 そして、いまや向こうはオリンピックのメダリストだ。

 わたしにとって高校進学は大問題だが、日本の空手界を背負う姉に話して負担にしてはいけないという気持ちもあった。


 だが、姉はわたしの想いを真剣に聞いてくれた。

 母や日野さんに言われたことと同じ懸念は指摘されたが、最後は「結が後悔しないように」と背中を押してもらった。


「お姉ちゃんに臨玲のコーチをお願いしたら引き受けてくれたの」


 これは昨日日々木さんに教わった秘策だ。

 もちろん姉は現役選手なのでフルタイムの指導はできない。

 でも、これならわたしの臨玲入学を周りが認めてくれるんじゃないかと提案してくれた。

 日野さんは高校生でありながら臨玲の理事も務めているので人事も何とかできるらしい。

 さすがは日野さんだ。


 お母さんは困惑した表情で腕組みをしている。

 わたしはあと一押しと思い「だから、お願い」と両手を合わせて懇願した。


「自分の都合で周りに迷惑を掛けすぎです」と注意したあと、「こうなっては話し合いが必要ですね」とわたしをギロリと睨んだ。


「連盟や舞が所属する大学のお歴々に頭を下げて回らないといけません。もちろん、あなたがいまいる空手部の関係者や迎えていただく臨玲高校の責任者にも」


 母の言葉にわたしは喜びが弾けそうになった。

 しかし、「結」と厳しい口調でわたしの名前を呼び、「自分が播いた種ですから、あなたにもすべて同席してもらいます」と言葉を続ける。

 わたしの表情が曇る。

 いや、それどころではない。

 わたしは相当な顰めっ面になっているだろう。

 いまはコロナ禍でそういう機会は減ったが、昔はよく空手界の重鎮と言われる人の家にお邪魔して畏まって長話を聞かされた。

 それが嫌で嫌で、知恵がついてからは何かと理由をつけて避けてきた。


「舞もつき合わせます。オリンピックの話などで盛り上がり、時間が2、3倍掛かりそうですが仕方がありません」


「ほら、感染が怖いからリモートで済ますとか」と藁にもすがる思いでアイディアを口に出すが、「お説教を聞くだけですからリスクは低いですよ」とお母さんは微笑みながら感染よりも怖いことを言った。


 決まれば行動が早い。

 お母さんはお父さんを呼んで説明し、お姉ちゃんにも挨拶回りへの同行を命じた。

 続けて挨拶先へ連絡を取っていく。

 その間、わたしはお母さんの目の前の椅子に座らされた。

 姉のことでお礼を、わたしのことでお詫びを入れながら、伺う予定を立てていく。

 自分の高校進学ひとつで大げさなようにも感じるが、わたしたち姉妹に対して本当に多くの人が関わっているのだろう。


「選手の間は気づきにくいでしょうが、名門の空手部ともなると様々な人の努力の上に成り立っているのです。そのお蔭で心置きなく稽古に打ち込めることを決して忘れてはいけません」


 母の言葉はずしりと重い。

 舞も自覚が足りないと嘆きながら、お母さんはわたしのために電話の前でも何度も頭を下げていた。




††††† 登場人物紹介 †††††


神瀬こうのせ結・・・中学3年生。空手・形の選手。この夏の全国大会で優勝した。姉も所属した私立の強豪校の空手部に在籍している。大学の付属校で中高一貫校だが、臨玲高校への進学を熱望している。


神瀬こうのせ舞・・・結の実姉。東京オリンピック日本代表。空手・形の選手。オリンピックでは銀メダルを獲得した。現在は大学職員。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。空手・形の選手。大会への出場経験はほとんどないが、結や舞から実力は評価されている。臨玲高校理事でもある。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。可恋と共同生活をしている。空手についてはまったくの素人。

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