第89話 令和3年7月3日(土)「避難指示」麻生瑠菜
深夜。
日付が変わって数時間が経つ。
あたしはソロリソロリと自分の部屋から廊下に出た。
消灯後に他人の部屋を訪問することは禁止されているが、いまはそんなことに構っていられる余裕はなかった。
あたしは彼女の部屋のドアをドンドンッと叩く。
もう眠っている可能性は高い。
起こしてしまうことになるかもしれない。
それでもあたしは叩き続けた。
「誰?」
思っていたより速く彼女の声が聞こえた。
あたしは大声で「瑠菜」と名乗る。
激しい雨音でかき消されないように。
少しドアが開き、いぶきが顔を覗かせる。
部屋は明るいが、灯りを背にしているので彼女の表情は読み取れない。
「どうしたの?」
「いまパパから連絡があって、鎌倉に避難指示が出たんだって」
「……入って」といぶきはあたしを部屋に招き入れた。
あたしは自分のスマートフォンだけ持ってやって来た。
ほらと言って確認のために見たネットのニュースを彼女に見せる。
彼女はそれを食い入るようにのぞき込んだ。
「……どうしよう」とあたしは心細い声を出す。
鎌倉を始めとする神奈川県の一部に避難指示が出ている。
ずっと降り続いている雨のせいだ。
土砂災害の危険があるようだった。
いまわたしたちがいるこの寮は木造でかなり古い建物だ。
ひとりでじっとしていられないこの気持ちを分かって欲しかった。
いぶきはあたしにスマホを返すと自分のスマホを手に取った。
無言でそれを操作する。
ほかの友人なら一緒になって「怖いよ」と慰め合う感じになりそうだが、彼女は冷静で落ち着いているように見える。
それがいまはとても頼もしかった。
しかし、黙っていることに耐えられない。
つい、「このままここにいていいの?」と口を出してしまう。
この寮に入って3ヶ月ほどになる。
こんなことが起きるとまったく予想していなかったので、どうしていいのかまったく分からない。
「外は危険だから出ない方が良い」
いぶきがキッパリと断言した。
藁にもすがりたい気持ちのところにドッシリした大木があるような気がして、あたしの不安はかなり和らいだ。
「垂直避難――建物の上階への避難ができればいいのだけど。寮母さんに相談してみよう」
この寮は2階建てだが、あたしたち1年生の部屋は1階にある。
2階では高校2年生と3年生がふたりずつ暮らしている。
あたしたちふたりを含めた6人がここの寮生だが、全員が鎌倉にある有名な三つの女子高の生徒だ。
いぶきはそう言うと自分の部屋を出ようとする。
あたしは「置いていかないで!」と悲鳴に近い声を上げ、彼女の腕にしがみついた。
風はそれほど強くないが、雨はひどくなったり少し収まったりを繰り返している。
避難指示の話を知らなければそこまで不安にならなかっただろうが、知ってしまった以上ひとりでいることには耐えられそうになかった。
いぶきは仕方ないという顔であたしを見て、振りほどくことなくゆっくりと歩き出した。
あたしは遅れないようについて行く。
深夜の廊下は普段でも怖くてトイレに行くのも我慢しがちだ。
でも、いぶきと一緒なら大丈夫だ。
そう思いながら彼女の腕をがっしり抱きかかえていた。
住み込みの寮母さんがいるというのがこの寮の売りだった。
少なくとも保護者に対しては。
門限など決まりがあることに不満を感じなくもないけど、こういう時は確かに大人がいてくれて安心できる。
眠っているかもと思ったが杞憂だった。
扉をノックするとすぐに開いた。
「見回りに行こうと思っていたところなのよ」とパジャマ姿のままの寮母さんが言う。
「鎌倉に避難指示が出ました」といぶきが告げると、「そうなのよ。困ったわね」とあまり困っているようには見えない口調で彼女は頷いた。
「垂直避難をした方がいいと思います」
いぶきの言葉に寮母さんは頬に手を当てて考え込む。
2階に空き部屋はない。
避難するなら上級生の誰かの部屋にということになる。
「廊下でも構いません」といぶきは言ってあたしを見た。
「あ、はい」とあたしは同意する。
考えてみればいぶきは上級生たちと折り合いが良くない。
面倒見は良いがあまり愛想がある方ではないからだ。
彼女たちと長時間狭い部屋にいると息が詰まるかもしれない。
「あななたちはここで待っていてね」とカーディガンを羽織った寮母さんが階段を上がっていく。
雨音が強くなった気がする。
沈黙していると再び恐怖が湧いてきそうだ。
「ねえ?」
「何?」
「いぶきは怖くないの?」
「本当は瑠菜みたいに怖がった方が良いんだろうけど」
「え?」
「瑠菜が来なかったら避難指示が出たことを知っていても普通に寝ていたと思う。自分だけは大丈夫だろうって。根拠なんてないんだけどね」
いぶきは淡々と話す。
あたしからすれば不安に怯えない彼女の姿は羨ましい限りだが、「だから、ありがとう」と彼女は感謝の言葉を述べた。
「ありがとうなんて言われるようなことはしてないよ」
いぶきでなければ、からかわれていると思うところだ。
あたしは彼女の腕をさらに強く抱き締めて想いを口にする。
「あたしこそ、いぶきにありがとうって何回も言わないと。本当に感謝しているんだよ」
今日のこのことだけではなく、いつもあたしはいぶきを頼りにしている。
彼女はどっしりしていて、つい頼ってしまうのだ。
迷惑を掛けていると思うものの、彼女のいない寮生活はあたしにとってはありえないものとなっている。
顔を背けたいぶきに、あたしのこの気持ちをもっとちゃんと伝えたいと強く思う。
そのためにどんな言葉を使えばいいか考えていると、寮母さんが戻って来た。
「カズちゃんの部屋を空けてもらえることになったから、ふたりはそこで休んで。少しは寝ないとキツいから」
2年生のひとりの部屋を使わせてもらえることになった。
部屋の主はもうひとりの2年生のところで寝るらしい。
いぶきの表情はほとんど変わっていないが、心持ち安堵しているように見えた。
2階に上がる。
カズ先輩は「あちこち見たり触ったりしたら殺すから」と物騒なことを言って、あたしたちに自分の部屋を明け渡した。
落ち着かない気分でベッドのところに行く。
雨はさらに激しくなっている。
2階だからか余計に叩きつける雨の音が響く。
「一緒に寝て良いよね?」と尋ねると、いぶきは頷いた。
あたしは仰向けにベッドに横になったいぶきの上に覆い被さる。
彼女の胸元に顔をうずめるようにして抱きついた。
「……重いよ」と女の子に対しての禁句を口にしたいぶきに、「そんなことを言う奴はこうだ」と顔をグリグリと柔らかい部分に押し当てた。
「ブラしてないんだ」
「寝る時は外すよね?」
「あたしがいぶきのおっぱいを守る!」
「何、それ」
安心すると急激に睡魔が襲ってきた。
雨脚は強いが全然気にならない。
心地よさに包まれ、胸を締め付けていたものが薄れていく。
……これ、ヤバいよ。
そんなことを思いながらあたしは眠りに落ちた。
††††† 登場人物紹介 †††††
麻生瑠菜・・・高校1年生。鎌倉三大女子高のひとつ「高女」の生徒。中高大の一貫校で、外部からの受験は偏差値が高め。彼女は内部進学。
香椎いぶき・・・臨玲高校1年生。臨玲も鎌倉三大女子高のひとつだが、最近は人気薄。中等部や大学との連携がないことも不人気の要因。
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