第88話 令和3年7月2日(金)「退院」日野可恋

 退院は予定より1日延び、今日となった。

 滝に打たれるよりキツい検査がいくつかあり、泣きを入れる羽目になったからだ。

 実際には滝に打たれたことがないので比較はできないが、誰がこんな検査スケジュールを組んだのかと呪いたくなった。


 私は毎月1回この大学病院で検査を受けている。

 この4月からその担当医師が替わった。

 関東に引っ越してきてから3人目となる。

 最初に当たった人は中学生だった私を見下す態度が酷くて変更してもらった。

 あの頃はまだ私も若かった。

 いまならもっとやり方があっただろう。

 コンプライアンス意識の低い医師は叩けば埃が出そうだし、それをネタに病院側と友好的・・・に話し合うこともできた。

 その後担当した医師は機械的に検査を繰り返す人で、私にとってはありがたかった。

 生まれた時からこの体質とつき合っているので余計な説明は必要ない。

 検査で出た数字の意味も理解しているし、どう対処すればいいかも頭に入っている。


 そして、新しい担当医は母と同世代くらいの女性だった。

 この大学病院に移った来たばかりだそうで、4月5月の検査内容はこれまでを踏襲するものだったがやたらと話し掛けられた。


「一度しっかり検査をしておきたいと思っているんだけど、どんな検査をしたらいいと思う?」


「そうですね……」と私は思いつくままに必要そうな検査の名前をずらずらと並べた。


「じゃあ、やりましょう」


「全部ですか?」と私が驚くと、「あなたがやった方が良いと思うものだけでいいわよ。コレとコレを除けばいまから予約を入れておけば検査機器が使えるから。このふたつは要調整ね」


 それが5月末のことだ。

 これだけの数だからと検査入院をすることになり、私はパズルのように検査のスケジュールを決めていった。

 どうせならと、あれもこれもと検査の数が増えていく。

 病院内の動線や待ち時間の予測を立てながらスケジュールができた時には達成感を覚えたが、こんな地獄を見ることになるとは……。


「気持ちは分かるわ。私も医師になりたての頃は大事をとって検査を増やして患者さんを困らせたもの」


「そんな楽しそうな顔をしないでください。前もって教えて欲しかったです」


「何ごとも経験よ」


 結果が出たいくつかの検査について話を交え、それから雨の中を帰途についた。

 朝はかなりひどく降ったようだ。

 いまもタクシーの窓を雨粒が叩いている。

 私は温室育ち――というか入院生活――が長かったので環境の変化が苦手だ。

 暑さには比較的対応できるが、寒さは大の苦手だし、湿度も高すぎたり低すぎたりすると体調に影響を受ける。

 昨年は感染症対策という名目で学校に行かずに済み、快適な生活を手に入れた。

 高校に行かずにそんな生活を続けられたら良かったが、同じ高校に進学するというひぃなとの約束があった。

 それに適度な刺激も必要だろう。

 人間、やるべきことがあるから創意工夫が生まれ頑張ることができる。

 臨玲が安心して過ごせる場所になった暁には昨年のような引き籠もり生活を再開しよう。


 マンションに到着する。

 なんだかんだ言ってもここがいちばん落ち着く。

 住んだ期間は短くても、いままでの棲み家より自分の家という実感がある。

 ひぃなのお蔭かもしれない。

 そんなことを思いながら部屋に入るとダイニングテーブルの上に置き手紙があった。


『おかえりなさい、可恋』


 ひぃなの丸っこい文字がなんだか懐かしい。

 少し感傷的になりながら「ただいま」と呟く。

 もうひとつメモがあり、こちらは昨日華菜さんが買って来てくれた食材のリストだ。

 受験生をこき使ってしまい悪いなと思い、お礼の品をどうするか考える。

 調理関係のプレゼントを渡すと勉強時間が減ってしまいそうなので注意が必要だ。

 いっそ合格したらレストランを借り切って厨房見学付きで盛大にお祝いすると言っておけばいいか。

 日頃のお礼としては食材を取り寄せた時にお裾分けをしているので、あとは合格後に一括払いとすることに決めた。

 合格しなかったら、その時に考えよう。


 少しだけ身体を動かし、昼食を作る。

 食べ終えてからしばらくベッドで横になる。

 仕事は溜まっていると思うが、いまは休息が欲しいと感じた。


 うとうとして気がつけば夕方になっていた。

 寝そべりながらスマホを見ていると、「可恋!」の声とともに私の部屋のドアが勢いよく開く。

 制服姿のひぃながトトトと駆け寄ってきた。


 私はスマホを枕元に置くと、ベッドの脇に腰掛けた。

 そして、「おかえり」と言って手を伸ばす。

 ひぃなも「おかえり、可恋」と私の胸元に飛び込んできた。

 彼女の髪からは雨の匂いがした。


 ひぃなとハグしていると幸せな気持ちになる。

 これはほかでは得られない感覚だ。

 もりもりと元気が湧いてくる。

 気分が向上し、やる気に満ちていく。

 私はハグしながら、彼女の有無で検査結果がどれほど変わるか測定したいという研究者のような気持ちが芽生えるのを感じた。


「それでね」


 ひぃなは私が彼女から充分な生命力を捕球し終えたところで学校での出来事を話し始めた。

 藤井さんをクラスメイトと和解させようと取り組んでいるらしい。


「藤井さんと仲良くなるだけならひたすら共感していけばいいんだけど、対等に見てもらえないとわたしのアドバイスを聞いてもらえないと思って工夫しているのよ」


 ひぃなは何でもないことのように話すが簡単にできる芸当ではない。

 藤井さんは普通の高校生ではない。

 才能というよりも努力で築き上げてきた優秀さだろう。

 私も陥りやすいが、優秀であるという自覚は周囲を見下すことに繋がりやすい。

 そうなると友人の助言も耳に届かないだろう。


 私の場合は母がその都度軌道修正してくれた。

 いまでは様々な優秀さがあると相対化して考えられるようになったが、自分より劣ると見なした人の意見に従おうとしない人は世の中にごまんといる。

 藤井さんの場合は自分の世界が狭く、経験が乏しいのだろう。

 私なら彼女の鼻をへし折り上に立つ者がいることを教えるというアプローチを取ると思う。

 ……面倒なのでやらないけどね。

 一方、ひぃなの手法は対話を通じて彼女の世界を広げようという試みだ。


「クラスのみんなも協力してくれるって」と彼女は嬉しそうに話す。


「ひぃなの人徳だね」


「わたしは可恋と同じやり方はできないから。だから、わたしのやり方で精一杯頑張るよ」




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生まれつき免疫系の障害を持ち幼少期は入院生活が長かった。本人の驚異的な努力もあってある程度の体質改善が図られたが、それでもほかの人とまったく同じような生活が営めるとは言えない。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。祖父から受け継いだロシア系の遺伝子が色濃く出て、生まれた時から容姿に注目が集まった。その容姿の維持は本人の並々ならぬ努力の賜でもある。


藤井菜月・・・臨玲高校1年生。有名なIT企業創業者一族であり眉目秀麗。可恋よりも中間テストで高得点を叩き出す頭脳の持ち主でもある。空気を読まない発言と周りを見下すような振る舞いによりクラスメイトからは嫌われている。

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