第76話 令和3年6月20日(日)「家族」日々木陽稲
今日は父の日だ。
午後から実家に帰り、お父さんにささやかな贈り物をすることになっていた。
しかし、昨夜掛かってきた1本の電話によってその予定は変更を余儀なくされた。
可恋に掛かってきたその電話は母親である陽子先生からだった。
急な話ではあるが会って欲しい人がいるということで、母娘の話し合いの末に今日の午後自宅のマンションでその人と面会することになった。
電話中の可恋の表情はいつにも増して険しく、その声は感情を隠すように機械的だった。
わたしは同席しない方がいいと思い、「予定通りに家に帰っているね」と電話を終えた可恋に告げた。
だが、彼女は「ひぃなは私の家族だから一緒にいて欲しい」と答えた。
そう言われて断る訳がない。
お父さんに会うのを午前中に繰り上げ、マンションに戻ってから改めて身だしなみを整えて来客に備えた。
お昼過ぎに陽子先生に連れられて彼女がやって来た。
高校3年生だそうだ。
わたしのお姉ちゃんと同じ年齢だが、少し大人びた印象を受けた。
やや背が高い程度で見た目はごく普通。
聡明そうな顔立ちで、オシャレや遊びよりも学生の本業を優先している雰囲気がある。
制服ではないが白のブラウスにサマーベスト、落ち着いた感じの膝丈のスカートという装いだ。
その表情は硬く、ただならぬ緊張感が伝わってくる。
リビングのソファに案内し、彼女は可恋の対面に腰掛けた。
わたしは可恋の隣りに席を取り、その前には陽子先生が座った。
用意しておいた飲み物やお茶請けの菓子をわたしがテーブルに運ぶ。
可恋もいつになく緊張しているが、それ以上に強張った様子だったのが陽子先生だ。
いつも余裕のある態度を見せる著名な大学教授が、いまは初めてのお見合いに挑む直前のように顔を引きつらせている。
全員の前に紅茶を置きわたしが席に着くと、来訪者が上ずった声で挨拶を始めた。
「初めまして。若松
あらかじめ何度も頭の中で練習を繰り返してきたような話し方だった。
言い終えてから彼女は可恋の反応をうかがう。
可恋はまったく感情を表に出さずに「ようこそいらっしゃいました。初めまして、日野可恋です」と挨拶に応じる。
そして、少し笑みを浮かべてわたしのことを紹介する。
大切な同居人だと言われ、わたしは場を和ませる笑顔を浮かべて「日々木陽稲です。よろしくお願いします」と自己紹介した。
「高校3年生だとお聞きしました。わたしの姉も高3で大学受験に向けて大変そうです」
「そうですね。私も受験に集中していかなければならないのですが、このままでは勉強に手がつかなくなってしまいそうで、日野先生に無理を言ってこの場を設けてもらいました」
しばらくわたしと若松さんとの会話が続く。
彼女は国立最高峰の大学を目指しているらしい。
現在は私立の進学校でトップクラスの成績を誇っていて、大変だと言いながらも受験に対してはかなりの自信が垣間見えた。
一方で、「あの人の娘ですからこれくらいは」というセリフが耳に残った。
可恋の父親であり、彼女の義理の父親に当たる人物は陽子先生に引けを取らないくらい有名な大学教授だと聞いている。
その人となりはまったく知らないが、彼女の言葉の端々から尊敬していることはうかがえた。
若松さんの緊張がほぐれた頃合いで可恋が「お話の内容はどういったものでしょうか?」と尋ねた。
可恋も自分の母親を通して大事な話があるとしか聞いていないそうだ。
若松さんはいちど居ずまいを正すと「妹のことでお願いがあって参りました」と思い詰めた顔つきで答えた。
「妹は中学3年生です。私と同じ中高一貫の私立に通っています」
東京にあるその進学校の名はわたしでも知っている。
姉妹揃って本当に優秀なのだろう。
「勉強一筋の私とは異なり、彼女は女子野球のクラブチームに所属しています。男子に負けないための身体作りを追い求めているうちに貴女の存在を知ったようです」
可恋は女子学生アスリートを支援するNPO法人の共同代表に就いている。
支援方法は様々だが、メインは女子学生に適したトレーニング方法の動画公開だ。
自分で強化を目指す女性アスリートにとってはかなり知られたサイトになっているそうだ。
可恋は以前自分の両親がWikipediaの項目になっていると話していた。
それだけの有名人であれば、彼女たち姉妹に血のつながりのことを隠しおおせるものではない。
彼女にとって母の再婚は物心がつくかどうかという頃のことで、早い段階からそういうものだと知らされていた。
妹にも両親は隠さずに伝えていたらしい。
また、父親の過去のこともある程度は知っているそうだ。
日野先生と結婚し、子どもをもうけたということも。
「妹は日野さんに興味を持ったようです。彼女にとってのもうひとりの姉の存在に」
可恋は押し黙ったままだ。
若松さんと可恋の間には血のつながりはない。
だが、妹を通すとふたりとも彼女の姉という間柄だ。
「それだけなら問題はなかったのですが、先日彼女が臨玲高校に進学したいと言い出しました。問い質しましたが、どういう理由でそんな思いに至ったのか聞き出すことはできませんでした」
この発言には驚いた。
臨玲は名門だが、近年は受験生に人気がない高校に落ちぶれてしまった。
悪い噂の元凶は可恋の活躍で対処できたものの、それが学外に知られている訳ではない。
初瀬紫苑の入学や校舎の建て替えなどで数年後には人気高に返り咲きたいと学校側は考えているようだ。
しかし、そう簡単に汚名を払拭できるだろうか。
「非常に勝手なお願いですが、妹に思いとどまるよう言ってはもらえないでしょうか」
若松さんが頭を下げる。
妹のことを大切に思っていることがわたしにも伝わって来た。
「ご両親は何と仰っているのですか?」
「父は子どもの希望を可能な限り叶えようとする人ですから、それがあの子の望みなら受け入れると思います。母は反対しています」
「そうですか」と言って一瞬目を伏せた可恋は、再び視線を目の前の相手に合わせてから「冷たい言い方になりますが、私はいちども一緒に暮らしたことのない父を家族だと思っていません」と断言した。
「養育費を滞りなく払ってくださることは感謝しています。しかし、それだけです。貴女の妹さんにとって姉と呼べる存在は貴女ひとりだと思います」
いつもの可恋らしく社会人のような言動を見せる。
それまでの緊張は影を潜め吹っ切れたようだが、わたしの力を持ってしてもその顔の下にある内面までは読み取ることができない。
「大学受験で大変でしょうが、妹さんを説得するのは貴女の役目だと思います。ここでの私の発言を使って頂いても構いません」
じっと可恋の言葉を聞いていた若松さんはやがて「分かりました」と頭を垂れた。
悩みが解決した訳ではないので、ここに来た時と同じように眉間には皺が刻まれたままだ。
「お時間を取っていただきありがとうございました」と彼女は辞去の弁を述べる。
わたしは「思いが伝わると良いですね」と声を掛けた。
姉の心妹知らずなんて言葉はないが、わたしのお姉ちゃんもわたしのことをいろいろと思ってくれているのだろう。
陽子先生はまだ硬い顔つきのままだが、それでも来た時よりは和らいだ印象になっていた。
その陽子先生に連れられて若松さんが部屋を出て行く。
玄関先で見送ったわたしと可恋は、ふたりがエレベーターに乗るのを見届けてから部屋に戻った。
ふーっと息を吐いた可恋に「お父さんに会いたくなったりはしないの?」と質問する。
わたしは父親と離れて暮らすようになって1年以上経つ。
会おうと思えばすぐに会える距離にいるから寂しくはない。
だが、可恋は……。
「いないのが当たり前だからね」と笑い、彼女は大きく伸びをした。
可恋はもう気持ちを切り換えようとしているが、わたしは気になっていたことを確認する。
リビングへ続く廊下を歩きながら「もし説得に失敗して臨玲に入学してきたらどうするの?」と問い掛けた。
可恋は振り向いて立ち止まると、「その時に考えるよ」と苦笑した。
当面は忙しくてそこまで考える余裕がないのだろう。
わたしは彼女をいたわるように、「その頃にはわたしが可恋の分まで何でもできるようになっているからね」と胸を張った。
「頼りにしているよ」と微笑んだ可恋は「でも、ひぃなにはひぃなにしかできないことをやって欲しいな」と囁いた。
「わたしにしかできないこと?」
「たとえば……」と突然可恋がわたしに抱きつく。
身体全体を包まれてわたしは呆然と立ち尽くす。
廊下は少し蒸し暑かった。
その中で可恋の体温が肌から伝わり頭がのぼせていくのを感じていた。
耳元から「落ち着く」という可恋の声が聞こえる。
わたしはドキドキして落ち着かないが、その分彼女の精神的安定になっていると考えれば悪いことではない。
きっとこれが熱量保存の法則なのだろう。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。昨年の一斉休校のタイミングから可恋とふたりで暮らし始めた。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。女子学生アスリート支援のNPO法人の共同代表。トレーニング理論の研究者でもある。
日野陽子・・・可恋の実母。東京にある超有名私立大学の教授職に就いている。彼女自身も女性問題の研究や支援で名が知られている。
若松
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