第10話 令和3年4月15日(木)「いまのわたしにできること」日々木陽稲

 今日は肌寒い。

 そんな状況でも可恋は休み時間になると教室を飛び出して行く。

 正式な立候補は明日だが、すでに生徒会長になるための選挙運動はスタートしている。


 外では疲れた顔を決して見せない。

 しかし、マンションに戻ると自分のベッドに倒れ込む日が続いている。

 週末は休養に充てていたが、それでも体調はあまり良くないようだ。

 そんな可恋を間近に見ながら何も手伝えないことに、わたしはやるせなさでいっぱいだった。


「ひぃなの力を借りる時は来るから」と可恋は優しく言ってくれる。


 いまは可恋の負担を増やさないように、おとなしくしていることしかできない。

 わたしは横に立つ純ちゃんに見守られながら、休み時間はじっと席に座っていた。


 ぽっかり空いた可恋の席の前、そこに初瀬さんが座っている。

 彼女は私服というより制服風のブレザーを身に纏い登校している。

 可恋や初瀬さんは学校側に請われて入学した。

 だから、交渉によって制服に関する自由を手に入れた。

 羨ましく思う一方で、中学生にしてそういう発想と交渉力を持っていることに感嘆する。

 ふたりともすでに大人に混じって働く社会人でもある。

 早くそこに追いつきたいという焦りはふたりの服装を見るたびに強まった。


 先週は”初瀬紫苑がいる教室”にみんな慣れない感じで遠巻きにチラチラと視線を送っていたが、ようやく教室内の雰囲気は落ち着いてきた。

 とはいえ、初瀬さんの周りには誰も寄ってこない。

 可恋がいない休み時間は小ぶりのヘッドフォンをつけて話し掛けるなとアピールしているからだ。


 わたしもいまは様子見だ。

 可恋の計画では4月はクラスメイトの掌握を図るつもりだったようだが、選挙が前倒しになって予定は変更された。

 事前の予定を狂わされることを嫌う可恋にとって、こうしたことも精神的な負担になっているのだろう。


 突如、かなり大きな音を立てて教室の前のドアが開いた。

 駆け込んできたのは園田さんだ。

 その顔には困惑や焦躁といった感情が貼りついている。

 彼女は教室を見回すと、一直線に西口さんの席に向かった。

 その席はわたしの列のいちばん前だ。

 わたしは気になって身を乗り出すようにしてそちらを見た。

 園田さんは西口さんの耳元で何か囁いている。

 ただならぬ気配を感じるが、「何かあったの?」と聞きに行くかどうかは迷う。

 躊躇っているうちに可恋が戻って来た。

 普段通りの落ち着いた表情だが、どこか普通と異なる感じがした。

 彼女が席に着くのを待つようにチャイムが鳴り、クラスメイトは自分の席に慌ただしく戻って行く。


 すぐに教師が入室してくる。

 しかし、現れたのは担任だった。

 彼女は社会科の先生だ。

 次は数Ⅰの時間のはずだ。

 生徒の間にざわめきが起きる。


 教師というよりOLという印象を受ける担任教師はゆっくりと教壇に向かう。

 室内が静まりかえり誰もが加賀先生の発言を待ち構えるようになってからおもむろに口を開いた。


「みなさんにお伝えしたいことがあります。隠しても分かることですからハッキリお知らせします。欠席中の野中さんのご家族から連絡があり、彼女に新型コロナウイルスの陽性反応が出たそうです」


 教室内に悲鳴や叫び声が上がる。

 不安や動揺を隠せず、大きな声で周りに話し掛ける生徒が多い。

 可恋や西口さんの顔はうかがえないが、園田さんはわたしの斜め前なので様子を確認した。

 彼女はあまり驚いていないようだった。

 どこかで知って、それを西口さんに伝えた可能性が高い。

 そう言えば彼女は保健委員だった。

 保健室あたりで先生同士の話を耳にしたのかもしれない。


 ある程度静まるのを待ってから「野中さんは無症状だと聞いています。また、保健所からは校内に濃厚接触者はいないと伝えられました」と先生は語った。

 少しホッとした空気が流れたが、蒔かれた憂いは根深くて押し流せない。。

 わたしは自分のことよりも可恋の心配をしてしまった。

 彼女は生まれた時から免疫系に障害があり、いまも定期的に検査を受ける境遇だからだ。

 重症化するリスクが高いかもしれないと可恋は話していた。

 万が一を考えるとわたしの胸は張り裂けそうになる。


「休校にはならないのですか?」と挙手して西口さんが尋ねる。


 彼女はクラス委員長を務めている。

 自ら立候補してその役に就いた人だ。


「休校にはなりません。学級閉鎖も行いません」と加賀先生は答えた。


 クラスの何人かから不満の声が上がった。

 感染が怖いという気持ちより、学校が休みになって欲しいという怠け心が強そうな声だった。


「今日もこのあと通常通りに授業を行いますが、不安が強い人は保健室で休んだり早退したりしても構いません。欠席扱いにはなりません」


 加賀先生の発言に小さなざわめきは起きたが、今度は広がりを見せなかった。

 教室を出て行こうとする生徒はいない。

 先生は感染症が誰もが掛かる病気であることを述べ、偏見を持たずに正しく怖がることを求めた。


「野中さんのご家族は発症者が出てすぐに、感染させてしまう可能性を考慮して彼女の登校を控えるようにしたそうです。感染症は自己責任だけでは対応できません。こうした心遣いが社会に感染症を広めないことに繋がっていくのです」


 変異型の種類によっては、これまで罹りにくく重症化しにくいと言われた若い世代に対しても脅威となるようだ。

 関西では感染者数が急増して医療崩壊の危機が叫ばれていると聞く。

 コロナと共存する生活に慣れてきたようでいて、まだごく身近なところでは感染者は出ていなかった。

 しかし、いよいよ……。


 加賀先生による臨時のコロナ対策の授業になった50分間が終わった。

 休み時間になっても可恋は席を立たなかった。

 振り向いた彼女は「私がほかのクラスに行けば、感染症をばらまいているって思う人がいるかもしれないからね」と肩をすくめる。

 ただでさえ時間が少ないのに、これでますます知名度を上げる手立てが限られてきた。


「立会演説会で私がどうにかしようか?」と初瀬さんが話に加わった。


「いや。立会演説はひぃなに頼もうかと」


「わたし?」と驚きの声を上げた。


 知名度抜群の初瀬さんではなく、わたしが演説をする理由が思い浮かばない。

 可恋は初瀬さんの方を向き、「紫苑には別の役割をして欲しいと思って、いま根回し中」と微笑んだ。


「まあ、いいけど」と言って初瀬さんがわたしを見た。


 わたしはその視線に負けないように見つめ返す。

 大勢の人の前で話すことは緊張するけど、可恋に大役を任されたのだ。

 ここで頑張らない訳にはいかない。

 たとえ初瀬さんがカリスマ女優でも、彼女に負けていてはダメなのだ。


「……初瀬さん」


 彼女は無言のままだ。

 どこか可恋に似た黒い瞳をわたしの方に向けている。

 彼女は子役から女優へと順調にステップアップしたと言われている。

 詳しい経歴は公開されていないが、波乱の人生だったとは聞いていない。

 しかし、その瞳に宿るものはとても順風満帆な生活を過ごしてきたとは思えないものだった。


「立会演説で上手く話すコツを教えてもらえませんか?」


 わたしは精一杯の気持ちを込めて頭を下げた。

 可恋に聞けばアドバイスをもらうことはできただろう。

 だが、初瀬さんの方が適任だ。

 より優れたやり方を知ることができるのなら、わたしのプライドなんてちっぽけなものだ。


「私の演技指導は安くないよ」と初瀬さんが微笑む。


 わたしはマスクの下でゴクリとツバを飲み込んでからゆっくり頷いた。

 すべては可恋のために。

 決意を胸に、わたしは初瀬さんが口にする条件を聞き漏らさないように努めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・高校1年生。ロシア系の美少女にしてコミュニケーション能力も非常に高い。だが、現在はあえてクラスメイトと距離を置いている。可恋と同居中。


日野可恋・・・高校1年生。免疫系の障害により幼少期から何度も生死の淵を彷徨ってきた。かなり健康になったものの、それでも不安を抱えている。生徒会長選挙に立候補予定。


初瀬紫苑・・・高校1年生。令和元年のクリスマス映画で一躍脚光を浴びた。子役時代はまったくの無名で、そのシンデレラストーリーはマスコミで大きく取り上げられた。


安藤純・・・高校1年生。陽稲の幼なじみ。有望な競泳の選手だがコロナの煽りを受けて望むような私立高校の推薦が取れなかった。可恋が交渉して臨玲に競泳部を設立し、そこに在籍することになった。普段は陽稲のボディガード役を務めている。


園田美羽・・・高校1年生。保健委員。弟妹が3人いる。


西口凛・・・高校1年生。クラス委員長。地元の公立中出身。


加賀束・・・臨玲高校教師。社会科を担当。非常に小柄だが自分より背の低い生徒がいてホッとしている。

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