第1章 安西航 16

 17時50分―


「ふぅ~・・・今日は疲れたな・・・。」


航が単車を引っ張りながら事務所に向かって歩いていると、ベンチの前に茜が空を見ながらぼんやりと座っていた。茜の今日の服装はクリーム色のブラウスに紺色のフレアスカート、そしてピンク色のパンプスを履いていた。その装いは普段とは違い・・デート帰りを彷彿させるものだった


「あれ・・・お前、もう来てたのか?」


航が声を掛けると茜はパッと顔を上げた。


「え・・?」


航はその表情を見て戸惑った。茜の目は真っ赤に染まっていた―。




****


「ほら、コーヒー入れたぞ。」


トン


航は乱雑とした事務所に茜を招き入れ、ベンチソファに座った茜の前のテーブルにマグカップを置いた。


「あ、ありがとうございます・・・。」


茜は鼻声で答えた。


「ん・・・。」


航は何と返事を返せば良いか分らず、曖昧に答えると茜の向かい側の席に座った。


カチコチカチコチ・・・


「「・・・・。」」


2人の間に気まずい沈黙が降り、時計の音だけがやけにだだっ広い事務所に響き渡る。


「あの・・さ・・・。」


とうとう痺れを切らした航が口を開いた。


「は、はいっ!」


茜はパッと顔を上げて航を見た。


「俺に・・・何か用があって・・連絡入れてきたんだろう?」


「は、はい・・・そうです・・・。」


茜は俯くと肩を震わせた。その様子を見て航は心の中でため息をついた。


(はぁ~・・・・全く・・・勘弁してくれよ・・・。)


航はコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばすと、口を付けた。


「・・・あ、あの・・・安西さん・・・。」


ようやく茜が何かを決心したかのように口を開いた。


「何だ?」


「今日はお願いしたい事があってこちらに伺いました。あの・・3週間・・いいえ!1カ月の間だけ・・・私の恋人になって頂けないでしょうか?!」


「え・・ええええっ?!」


航は突然の茜からの申し入れに驚いた。するとそこで航の慌てぶりに気付いたのか、慌てて弁明するかのように茜が言った。


「いえ、あの・・・ち、ちがうんですっ!恋人と言っても本当に恋人になってもらいたいわけじゃなく・・恋人の振りをしてもらいたいんですっ!」


「ああ・・・フリね・・・。」


(まあ、フリ程度なら別に構わないが・・・。)


「だがな、依頼を引き受ける以上は・・・理由が必要だ。何故恋人のフリをしなければならないのか、その理由は・・・。ひょっとしてその涙が原因か?恋人のフリをして欲しいって言うのは・・・。」


すると茜は航の話に小さな肩をビクリと震わせ・・・俯くとポツリポツリと語りだした・・・。



****


 茜には4歳年上の付き合って3年目の恋人がいた。彼は普通のサラリーマンだったのだが、ある日会社の社長令嬢に目を止められた。そして彼女は父親にねだり強引に彼と半ば見合いと言う形で紹介された。

社長令嬢はますます彼を気に入り、結婚を前提にお付き合いしたいと言い出した。

そして父親である社長は我が娘可愛さに青年に娘と結婚するように迫った。しかし彼は恋人がいるからそれは出来ないと断ると、言う事を聞かなければ会社をクビにするし、どこにも雇って貰えなくしてやると脅迫してきたのだった―。

 そこで茜は泣く泣く恋人の為に別れを決意したが、彼は頑としてそれを受け入れようとはしなかった。茜は彼の思いの強さに感動し、2人は交際を続けていたのだが、一向に茜と別れようとしない青年に業を煮やした社長と社長令嬢は今度は直に茜のもとへとやってきて、脅迫をしてきたのだ。もし別れないのなら、茜の勤める店を潰してやると―。


「何だよ、それっ!酷い話だなっ?!パワハラもいいところだっ!」


航はあまりにも理不尽な話に腹が立ち、憤慨した。


「は、はい・・。私の彼は・・母子家庭で育って・・・貧しい家だったんです。彼には年の離れた弟もいて・・今仕事を失う訳には・・だけど私と別れれば、彼は次期社長になれるんです。私も・・お店を潰されなくて済むし・・・。なのに・・彼は私とは別れないって・・。」


「そうか・・・それで・・自分に恋人が出来れば・・彼は別れてくれると思ってるんだな?」


「はい・・・そうです。」


「だけど、本当にそれでいいのか?」


すると茜はコクリと頷いた。


「はい、それでいいんです。元々・・・私には勿体ない位素敵な男性だったので・・・私は彼の足枷になってはいけないんです・・。」


「そうか・・・分かったよ。その依頼・・引き受けてやる。」


「ほ、本当ですか?!」


「ああ。お前の彼氏が諦めてくれるまで・・恋人のフリしてやるぜ。」


そして航は笑みを浮かべた―。


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