第1章 安西航 10

 とあるマンションの玄関前―。


「嫌だよ~!この猫は僕が飼うんだ~っ!!」


茜の黒猫を拾った10歳ほどの少年はキャリーバックに入れたクロを抱えて、返そうとしない。


「壮太!いいかげんにしなさいっ!この猫はお姉さんの飼い猫なのよっ?!」


ついに怒った母親は我が子とキャリーバックの奪い合いになってしまった。

そして、親子喧嘩を茫然と見ていた茜だったが・・・。


「きゃああ!ク、クロがっ!」


茜が悲鳴をあげた。2人の間で何度もバックの引っ張り合いが続くのでその度にバックの中でクロが転がっているのだ。クロはたまらずニャーニャーと鳴いている。


「お、おい!やめてくれよっ!」


流石の航もこれ以上看過できないと思い、親子の間に割って入ると少年に言った。


「いいか?この猫・・クロの飼い主は今お前の目の前にいる女の人なんだ。ほら、野良猫が首輪なんかしていると思うか?しかも首輪にはクロと書いてあるらしいぞ?そうだよな?」


航が同意を求めるように茜を見た。


「え、ええ・・そうです・・。」


「うう・・・だ、だけど・・・拾ったのは僕だ!落し物を拾った相手はお礼を受け取れることが出来るんだぞ?僕はちゃんと知ってるんだからなっ!」


「壮太っ!お兄さんにそんな口を叩くんじゃありませんっ!」


母親が再び声を荒げて少年を叱る。


「う~ん・・確かに落し物を拾った場合・・・現金だった場合は拾った額の5~20%受け取れるって言われているけど・・猫だからなぁ・・こればっかりはどうしようも無いだろう?猫は分けるわにはいかないんだから。」


「うう・・・そ、そんな事・・・言われなくたって分かってる・・分かってるんだよぉ!」


すると今まで黙っていた茜が少し考えこむと言った。


「あの・・・私から提案があるのでが・・・。」




****


 帰りの車内―


茜の膝の上には空っぽのキャリーバックが乗せられていた。


「・・・。」


茜はどこか悲し気にキャリーケースを見つめている。


(やっぱり・・自分で提案したことだとは言え・・・落ち込んでるんだろうな・・・。)


茜が提案したのは週の前半と後半に分けて、クロを互いの家で交代で飼育することに決めたのだった。


(クロと過ごせないから・・さみしいのかもな・・。)


航はそんな茜を見かねて声を掛けた。


「なぁ・・・本当にあれで良かったのか?」


「え?何がですか・・・?」


茜は顔を上げて航を見た。


「本当は・・・今夜、クロの事・・連れて帰りたかったんじゃないのか・・?」


「あ・・・い、いえ。そうじゃないんです。実は・・あのまま・・・クロをあげてもいいかなって思ったんです。」


茜は意外な事を口にした。


「え・・?何でだ・・?俺に依頼までしてきたのに?」


「はい・・・。少し・・心境の変化があったので・・。」


「心境の変化?」


「・・・・。」


しかし茜は口を一文字に閉じてしまったので、航はそれ以上追及するのをやめた。


「まぁ・・・どんな事情があるかは知らないけど・・飼い主がそれで構わないって言うなら、俺から特に何か言う事は無いからな。」


航は肩をすくめながら言う。


「あの・・なので、もうこれで調査も終わりで結構です。」


「ああ、分かってるさ。」


航はハンドルを握り締めながら答える。


「今回の調査費用は・・ポスター代を含めて1万4千円でいいわ。」


「え・・?それで本当にいいんですか・・?」


茜は信じられないと言わんばかりの視線で航を見た。


「ああ、それでいい。で・・どうする?振り込みにするか・・現金払いにするか・・。」


「現金払いで払います。それで・・・あの・・・。じ、実は・・ですね・・。」


何故か茜が急に歯切れが悪そうに航を見た。


「なんだ?一体どうかしたのか?」


「い、いえ。何でもありません。」


茜は視線を窓の外に移すと、それきり押し黙ってしまった。


(一体突然どうしたんだ・・?)


だが、航はそれ以上追及するのをやめた。



この時の茜の態度が何を意味するのか航が知るのは・・・もう少し後の事になる―。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る