慣例

 ある地域で、圧倒的なシェアを誇るガス会社があった。

 その本社ビルの最上階で、社長であるエヌ氏が外の景色を眺めていた。

 エヌ氏の執務室からは、盆地に広がる街並みを、その隅々まで見渡すことができた。



 百年前の起業以来、社長は創業家から出ており、エヌ氏は生まれた時から、その席に就くことが決まっていた。


 エヌ氏の会社は売り上げこそ、エネルギー関連企業として中堅止まりだったが、常に高い利益を上げており、その社長の座は羨望の的であった。


「椅子にすわっているだけの楽な仕事ですよ」

 しばしば、エヌ氏は、冗談とも本気とも取れる口振りで、社外の人間に笑ってみせた。



 その日のエヌ氏の表情は険しく、目の下に、くまができていた。

 社長室のドアをたたく音がしたのち、彼と同じく、厳しい顔をした専務が入って来た。

 専務も創業家一族の出である。


 右手に黒いファイルを携えている専務が、社長の机の前へ立った。

 しばらくするとエヌ氏は窓から離れて、豪華な椅子に身を沈めた。



「慣例に基づいて、候補者のリストを提出いたします。あとは……」

 専務から渡されたファイルの中には、従業員三名の評価表が挟まれていた。

 社長が選ぶ段階で、候補者は三名に絞られる。

 そういうきまりであった。


 エヌ氏は三名の顔写真を見た。

 三人とも見覚えのある顔だった。

 候補者に選ばれるのは、新卒で採用された中堅以上と決まっており、エヌ氏は、該当する全員の顔と名前を頭に入れていた。


 候補者の中に見知らぬ者がいれば、どうしてもその者を選んでしまう。

 それは避けなければならないことだと、エヌ氏は考えていた。


 どうせ、一人を選ばなければならないのだから、ほとんど意味のないことだ。

 自己満足に過ぎないのはわかっている。

 エヌ氏は心の中で自嘲した。



「慣例に従って一人を選ぶ。専務……。そろそろ、この慣例はめるべきだとは思わないかね。非科学的すぎるよ、この儀式は」

 エヌ氏が評価表を眺めながら、独り言のようにつぶやいた。

「その通りですが、四十年以上も四年おきに続けてきたのです。今さらやめる勇気は、少なくとも私にはありません」

「四年前にも、こんな話をしたな」

 エヌ氏が苦笑すると、専務は無表情のまま、「はい」とだけ答えた。


「ある寺の法定点検に従業員を行かせる。すると、しばらくして必ず行方不明になる。その代わりに次の点検がある四年後まで、不景気や天災があろうとも、我が社は利益を出し続ける」

「そのために、創業家一族の社員が候補者を三名選び、その中から社長に決めていただく。成績や素行の面で会社に不要な人材から……」


 エヌ氏はファイルを閉じ、そのうえに手を置いた。

「そろそろ息子にも、この慣習について教えておかないとな」

「はい。それについては社長のほうから……」

「しかし、どういうけいではじまったのだろうな。おやからは聞いていない。知らなかったのかもしれないが」

「知らないほうが良いことも世の中にはあります。たとえば、消えた従業員がどこに行くのとか……」

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