第30話 捲したてる老婆と逃げるネコ
「だから。赤ずきんが出てからもう三週間、経っているんだって」
「え、一週間ではなく?」
胡乱なものを見る目で見つめられて、ソルシエールは困ったなあ、と視線を逸らした。
結局二人は階下に降り、眠気覚ましに紅茶を飲む魔女の前で、メジーは大げさなくらいの身振り手振りで語って見せたのだ。
曰く。赤ずきんが街を出てからすでに三週間もの時間が過ぎている。らしい。
ソルシエールは一週間きっかり過ごしたつもりでいたのだが、
「魔女さん。あんた生き方が鈍感だものねえ」
その一言で片付けられてしまった。
たしかに言われてみたら、ソルシエールは自分が鈍感であるような気がしないでもないが、断言されるほどでもない。そんな気もする。
朝に目を覚まし、一日三回きっかり食べ、夜に寝たつもりでいたのだが、どうやらそうではなかったようだ。そういえば、ハーブ園に水をあげに出た時、何回かは日が陰っていたような気もする。あれは陰っていたのではなく、暮れていたのか。どこか腑に落ちないまま、それでもソルシエールは納得した。
そういえば、時間の確認を怠ったような気がする。腕時計なんて見る暇はなかった。
とはいえ、時間の感覚が狂っていたのは、べつだん問題でもない。
そんなことはどうでもいいのだ。
「帰ってこないって、そんな事あるわけないでしょう」
「実際にあるからここまで来たんじゃないさね」
「……ああ」
「寝ぼけてるのかい?」
「いいえ」
しかし、赤ずきんが予定していた日にちを過ぎても帰ってこないのは妙だった。なにせ赤ずきんはそういうことを、疎かにしない。
「狩猟会と一緒のはずでは。ええと、リーダーはアルチュールさん、でしたっけ?」
メジーは鼻息荒く、ふんふん、と鳴らす。
「そうなのさ。同行していたはずの狩猟会の面々も帰ってきてなくてねえ。アルチュールったら『赤ずきんは俺たちに任せとけ!』とか言っておいてなにしてるんだか。自分ごと行方不明になっておいてザマアないね。
向こうで依頼したっていう業者とも連絡が取れなくってさ。なにか問題でも起きているんじゃないか、心配で心配で」
「業者の名前は?」
「なんだっけねえ」
マジーは胸元からゴソゴソ紙を取り出すと、目を細め、精一杯体から突き放して読み上げた。
「ああ、そうだ。『スミノロフ商会』さ。スミノロフ商会!」
「住所は?」
「そんなもん知らないよ! 連絡が取れないって言ったろう」
ソルシエールはため息をついて、目頭を揉む。
「マジーさん、どうして一緒に行かなかったんですか?」
「あんた、年寄りをなんだと思ってるんだい。でも、こんなんなら、一緒に行けばよかった。ああ、心臓に悪いよ。胸がばくばくするんだ」
悲しそうな顔をして、胸のあたりをさすってみせる。
「それはアルコールによる不整脈では…」
そう言った途端、その顔は獣のように鋭くなった。
「いやだねえ、この子ったら。老人を労わりなさいよ」
「はあ」
それから、おいおいと泣き真似をしてみせる。
これほど泣き顔が似合わない人が他にいるだろうか、ソルシエールは思う。
世界のどこかにはこれを、ああ哀れだ助けてあげたい、と思える感性の持ち主もいるのかもしれないが、少なくともそれはソルシエールではない。ソルシエールには、大口を開けて獲物が入るのを刻々と待ち構えている肉食獣以外のなにものにも見えない。
「遭難したのかもしれない。誘拐されたのかもしれない。きっと、あの子はクラースヌィに留め置かれたまま、あたしを想って泣いているんだろうよ。きっと、助けを待っているにちがいない。ああ、かわいそうな赤ずきん」
ちらちらと、獣の様相のまま、ソルシエールを伺っている。
ところが、
「はあ、私が様子を見に行きますよ」
視線をくるりと回したソルシエールがこの言葉を告げた途端、ころりと態度が変わった。にこにこと笑い顔になる。その朗らかな笑い方は、どこか赤ずきんに似ていなくもなかった。
「いやあ、わるいねえ。魔女さん。年寄りのわがままを聞いてもらって。まあ、ここの庭に水やりくらいならしとくからさ。任せときなさいよ」
「え。いや水やりはべつに」
「いいから、いいから」
うんうん、と頷き、
「それで、いつ出発するんだい? 三十分後? 一時間後?」
「え、あ、明日?」
「分かった。明日ね。朝ね。水やりついでに起こしにきてあげるからね」
しっかりと言質までとっている。
「ま、ちょっとばかし様子を見に行ってくれるだけでいいから。頼んだよお。なんてったって、あの子はあたしのたった一人の家族なんだからね」
そう一方的にまくし立てて、マジーはソルシエールの手を握ってぶんぶん振ってみせた。力のないソルシエールはされるがままに任せて、体ごと上下に揺らされるしかない。
それが、実に昨日の話である。
歳をとると人は早起きになるという。早朝、昼寝中に老婆に叩き起こされたソルシエールは、列車に乗るために首都までやってきた。自分の家から締め出されたのである。
大陸の西端から東端までの長旅である。
ソルシエールの住んでいる森近くの町にも駅はあるが、あくまで近隣の地域に行くための運行しかしていない。国をいくつも跨いで移動する列車は大体、人の多い首都から出発する。そのため、まずホウキで首都まで移動した。
それから、切符を購入した後、列車の出発まで時間の空きがあったので、折悪く仕事を頼みたいと連絡をしてきた王の執務室に顔を出すことにした。
「なんだ。突然現れたと思ったら。どうしてそう着膨れしているんだ。日々仕事に追われている僕を、笑わせて和ませようという気遣いか? ありがたいね」
扉の閉まった部屋。そこに音も立てずに出現した魔女に、ちらりと一瞬、視線が向く。しかし、彼の注意はすぐさま机の上で広げられている仕事に戻った。
その視線も、書類をめくる手も、せわしなく動いている。
しかしその口からは、驚くほど滑らかにイヤミが滑り出てくる。
「そんなに忙しいんですか?」
「忙しいとも。いろんなことを正確に把握しようとすればどうしたって忙しくなる。そんな中、懇意にしている魔女は仕事を断ろうと言うんだから、まいったね」
さながらイヤミの散弾銃である。
ソルシエールはぐるりと目玉を回転させる。
「二週間前に依頼をしていただければ、お応えできましたのに」
時間を遡る魔法がないなんて、なんて幸せなことだろう。
「なんだ、君は。休みをとらせないと全てを捨てて遁走してやるなどと君が駄々をこねるから、この僕が珍しく気遣ってやったというのに。休みというのは、人を記憶喪失にさせるものなのか? ぜひ僕もそうなってみたいものだね」
よっぽど忙しいらしい。
かりかりしている。
多忙というのは罪だ。
更年期にはまだ時間があるというのに、仕事に忙殺されて、すでにホルモンバランスが崩れているのかも知れない。このままバランスが崩壊し続ければ、さまざまな不調があらわれることだろう。王から髪の毛を毛根ごと奪っていってしまってもおかしくない。童顔の『不死王』に頭髪がないなんて。それはなんて悲劇だろう。
「それで、休みの次はなにを望むというんだ。魔女」
長いイヤミの後、ようやく王は本題を切り出した。
気がそぞろになっていたソルシエールは、危うく自分がここに来た目的を忘れそうになっていた。
「ああ、しり……」
「しり?」
「ご存知ですか、クラースヌィで狩猟会の人間が行方不明なんだそうですよ。捜索を依頼されたんです」
王はピクリと手を止めた。
しかし、すぐに動きは再開される。
「知り合いなのか? 僕なんて年に三人は親戚を処刑台に送ってるんだぞ。いまさら知り合いの二十や三十、失踪したくらいで驚かないね」
「お気の毒です。そういうわけで今回に限っては本当に依頼を受けることはできないんです。探しに行くので」
「そんなもの、君の名ばかりの弟子たちにでも任せておけばいいじゃないか。飽き性なせいで、たくさんいるだろう」
王は大げさに息を吐き出した。
世の不幸すべてをそこに押し込んだかのような大きなため息である。
「やれやれ。王の『頼み』を断るのなんて君くらいのものだ。首切り台が恐ろしくはないのか?」
ソルシエールは肩を竦めた。
「陛下は隙あらば私を始末しようとしますね。そんなことになれば白雪王妃が嘆くでしょう。陛下は彼女が悲しむ顔が見たいんですか」
王はその答えが気に食わなかったらしい。
書類に走らせるペンを止めて、ソルシエールを向く。
その顔は皮肉げに歪んでいる。
「どうかな。ますます僕を頼りにしてくれるかもしれない。それにあの子は友達が多いんだ」
フン、と鼻を鳴らしてソルシエールを見る。まるで親の愛を自慢する子供のようだ。見せびらかして悦に入っている。ソルシエールは、あえて、ゆったりと笑みを浮かべてみせた。
「知ってますよ。でも、魔女の友人は一人きりでしょう?」
その余裕綽々の返事に、王の鼻にシワが一本よる。
「さあ、どうだったかな」
肩をすくめてはいるが、思ったような反応が得られなかった王はどこか不満げだ。
付き合ってられない。
そんな気持ちになったソルシエールは話を切り上げることにした。
「まあ、そういう訳で探しに行くんですよ」
勝手なこの態度に、王も慣れたものである。
興味を失ったように、書類仕事に戻る。
「そうか。白雪には会っていくのか?」
かりかり書きつけながらの質問に、ソルシエールは答える。
「いいえ。時間がないのでこれで失礼します。この仕事ならガブリエルさんに回したらいかがです? 宮廷魔術師でしょう、彼」
申し訳程度に礼をして、それから消えた。
部屋に残された王は、一人おどけて呟く。
「これは、本当に気が急いているとみた」
王宮の抜け道からこっそり抜け出して、隣の裁判所へと抜ける。
せわしない場所だ。しかめつらをして背広を着込んだ男たちがせかせか行き交う廊下。どこかからは怒号もする。
そんな中、ソルシエールは見知った男に呼び止められた。
「ソルシエールさん」
外から帰ってきたのだろう。襟巻きとコートに身を包んだ背の高い男性がソルシエールを見下ろす。
「……ずいぶん温かそうな格好をされていますね」
以前、昔馴染みのピエールの城に行った時に同行したアーノルドという刑事だ。遠出の必要があった以前とはちがって、街の若者らしい小洒落た格好をしている。
ソルシエールはお辞儀をする。
「こんにちは。これからちょっと北国まで出かけるもので」
「そうなんですね。どうぞお気をつけて」
「どうも、ありがとうございます」
「あ、あの、帰ってきたらでいいんですが、今度二人で食事に行きませんか?」
旅の間一緒に行動したくらいで、とりわけて親しい間柄でもない男の突然の申し出に、ソルシエールは首をひねった。
今までぼんやりとしていた視点の焦点を、相手の顔に合わせる。
威圧感がないから気がつかなかったけれど、こうしてみると、意外と身長が高いのだということに気がつく。
「なにか依頼でしょうか?」
「い、え。そうではなくてですね、その……」
彼は表情ゆたかに慌てふためく。
もしや、以前腹いせに、呪いでカエルにした彼の上司についてだろうか。慰謝料でも請求されたらいやだな、ソルシエールは考え、アピールしておく。
「オーギュスターブ警部なら一週間もすれば呪いは解けたでしょう?」
せいぜい、長く保ってそれくらいの効果しかかけていない。それでもカエルの姿のままでいるのなら、本人が望んでいるからに他ならない。本人が望んでいることの責任をどうしてソルシエールがとれようか。
「あ、えっ。そうなんですか!」
さあと血の気が引いたと思ったら、頬を赤く染めて慌てて弁解する。
アーノルドを疑惑の眼差しで見つめるソルシエールに、照れたようにアーノルドは視線を逸らした。
「あ、いや。そうですね。警部は元に戻りました。今は一ヶ月の長いバカンスをとってますが。そうでなくて、その……」
「はあ」
「自分、……いや、私と結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
「…………」
「……あ、あの?」
あまりに唐突すぎる申し出にソルシエールは停止した。アーノルドの問いかけに、ソルシエールは言われたことを咀嚼し、ようやく返事をする。きっと顔はタコのようにぐにゃぐにゃになっている事だろう。そんな気がした。
「面白い冗談ですね、アーノルドさん」
「冗談ではありません」
「出会ったばかりなのに?」
軽く睨むふりをするソルシエールに、アーノルドは慌てたように言葉を重ねる。
「そ、そういうこともあるでしょう? 自分はソルシエールさんの優しさに惹かれたんです」
ちなみに、ソルシエールは彼以外に『優しい』などと評されたことはない。
一体、なにをもって彼はこんな事を言っているんだろう。
さらに首を捻る。
「人の心を駆け引きの材料にするような真似はどうかと思いますよ」
なにせ、彼の方こそが『善良』を絵に描いたような男なのである。
まったくお気の毒に。なにが目的かは知れないけれど、自らの価値を下げるような真似をしなければならないなんて。ところが、アーノルドはせっかくのソルシエールの老婆心に、途端ににこにこしだした。
「ほら、ソルシエールさんはやっぱり優しい」
その笑顔がなんとも得体の知れないものに見えて、ソルシエールは一歩退く。反対に、アーノルドはソルシエールに向けて一歩踏み込んだ。
「あなたのご家族はなんというでしょうね」
「構いません、しがない元男爵家の次男ですから」
「なるほど。しかし今は忙しいんです。もしこの件についてまだお話しするおつもりなら、また後日にしましょう」
「ええ、もちろんです。花束をもってお伺いしますよ」
なんだか、大変おかしなことになってしまったようだった。
家に引きこもっているうちに、世界はソルシエールを残し、こじれにこじれていくようだ。いずれ世界は狂気に侵食され、残された正常者はソルシエールたった一人になってしまうのかもしれない。唯一の正常者を、正常者というのかは、さておき。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます