第29話 腐った魚の匂い
気持ちのいい朝である。
ブランシュ王国とその東にある隣国を跨ぐようにして存在する森。そこの粗末な小屋で、『黒い森の魔女』は幸せに眠りこけていた。
時刻は早朝である。
鶏が遠くで鳴いた。
ソルシエールの意識はうっすらと浮上するのものの、まあいいか、とすぐに眠りに戻りかけた。そのまま再び夢の国に出発するかと思われたが、扉を盛大な音を立てて押し行ってきた闖入者によって、それは阻止される。
「師匠、なにやってんの! うわ、くっさ」
闖入者こと、魔女の弟子を自称する少年、赤ずきんが叫ぶ。
部屋を横切って、部屋についている簡易な窓を押し開けた。少し冷たく、しかし森の清涼な空気が流れ込んでくる。
「………もっとお菓子を食べなくちゃ」
ついで、寝言をもごもごと呟くソルシエールの布団を、赤ずきんが容赦なく引き剥がそうとする 。しかし、寝ぼけるソルシエールも反射で毛布に包まろうと引き下がらない。容赦のない攻防は、赤ずきんの悲鳴が上がるまで続いた。
「師匠、起きてって! ばか!」
ばか、の言葉を拾い上げ、のろのろとソルシエールの頭が持ち上がる。
「あれ、赤ずきん。ここでなにやってるの?」
臭気に涙目になった赤ずきんが、声を上げる。
「なにやってんのじゃない。何日も家から出てこないで師匠こそなにやってるんだよ!」
「なにって。怠惰を満喫しようと…」
「ご飯は?」
「ご飯? 食べたよぉ……」
全体的にごちゃごちゃとしたガラクタをかき集めたような雑多な部屋の、その隅に置かれた机指差す。赤ずきんが覗くと、散らばった多数の書類やら本やらの間に、しなびて赤黒くなったリンゴが一個置いてある。そこには小さな歯型がひとつ、ついていた。
「うわあ、…え、これ何日前に齧ったの?」
頭の中で魔女が街に姿を現さなくなった日数を必死に計算する赤ずきんに、ソルシエールは興味なさそうに、さあ、と答えた。
「死んでないから、栄養は足りてたんだよ」
再度眠ろうとするソルシールに、赤ずきんもまた悲鳴を上げる。
「結果論でしょ!」
「うう……」
寝台の淵に腰をかけてよろよろするソルシエールに、赤ずきんは言い聞かせた。
「ご飯作るから、お風呂入ってきてよ。何日入ってないのさ。臭いよ」
「え、……くさい?」
さすがにその言葉は聞き捨てならなかったらしく、意識も覚醒してきたようだった。しかし、まるで意味が分からないととぼけるソルシエールに、赤ずきんはにっこり笑みを浮かべた。
「そうだよ。冬ごもり中のクマでももう少しまともな匂いをしてるよ」
「え」
「腐った魚みたいな匂いだ。なにをしたらそうなるの」
「ひどい」
悲しそうな顔をするソルシエールに、赤ずきんはますます笑みを深めた。笑顔なのに笑っていない。どこかの王様みたいだ。ソルシエールはそう思う。
彼らは面識がないはずなのに。
これはどうしたことだろう。
ソルシエールは戸惑った。
そんな怒らせてしまうほど自分の匂いはひどいのだろうか。鼻をすんすんさせてこっそり匂いを嗅いでみるが、なにも感じない。赤ずきんの五感は鋭いから、常人では嗅ぎとれないような匂いも拾ってしまうのかもしれない。でも、そうしたら別にソルシエールのせいじゃない。
そう思うが、なんだか相手が不機嫌だという事を理解するだけの感受性と、それに明らかに火に油をそそぐ事を言わないだけの分別は、ソルシエールにもあるのだった。
視線を左右に彷徨わせるソルシエールに、赤ずきんはふう、とふくれてしかめっ面をした。
「そう言いたいのはこっちだよ。心配して来てみれば、こんなひどい匂いを嗅がされる羽目になるなんて。少しは人間らしく小ぎれいにしたらいいのに。ゾンビじゃないんだから」
「うう……、きれいに着飾ってどうするの。人間なんてどうせ虚飾に惑わされて、正気を失うのがオチなんだ。大体、死んだ人間が生き返るはずもないんだから、私がゾンビな訳も無い」
ぶつぶつ文句を言うソルシエールに、赤ずきんがすっぱりきっぱり言い切った。
「そんなことどうでもいいよ。早く。お風呂」
「…………ハイ」
拒否してはいけない、とそう告げる本能に逆らわず、従順にソルシエールは返事をした。
朝と昼の間。
ブランチの時間帯。
「え、二週間出かける?」
赤ずきんが持ってきてくれたホウレンソウのキッシュの最後の一口。それを飲み込んで、ソルシエールが鸚鵡返しに反芻する。
その黒く短い、湿った髪の毛からは、ハーブの匂いがする。些細な動作で、それが香った。
そうなんだ、とテーブルの向かい側の赤ずきんは、目を輝かせる。
「狩猟会のアルチュールさんに誘われたんだ。クラースヌィ国の『白銀の森』にまるでフェンリル神みたいに大きいオオカミが人狼族と住んでいるんだって。犬ぞりで見に行くんだよ!」
「ああ、ジェボーダンでバケモノ退治した実績があるもんね。すばらしいじゃない」
よかったね、と頷くと、赤ずきんはほんとうに嬉しそうに首を振る。
「俺、オオカミが好きなんだ。楽しみだなあ」
残念なことに、ブランシュ国では絶滅寸前まで狩り尽くされたという経緯もあり、オオカミはほとんどいない。
「そういう割には仔犬を連れ帰ったりしないね」
「あれは、野生の中で、うつくしい生き物だから。人の庇護なんていらないんだ 。肉ならシカの方がおいしいし」
「そう」
「だから、二週間。ちゃんとご飯を食べて。師匠」
話の矛先が変わった。
「うん? も、もちろん」
そんな事言われる筋合いなどまるでないのだが、散々世話になっている手前、頷くしかない。
とりあえず了承しておいて、あとはその時の気分で決めればいい。赤ずきんが満足するほど食べるかどうかは分からないが、二週間もあればきっとなにかは口にするだろう。
そんな適当な事を考える。
赤ずきんはそんな思惑を読み取ったものか、ソルシエールに釘をさした。
「一日三食。食べないなら俺は行かない」
「え」
「行かないよ。狩猟会、すっごく楽しみだったけど。あーあ。残念だなあ、残念だなあ」
「分かった分かった。ちゃんと食べるし、お風呂も浴びるよ」
悲しそうな顔をする赤ずきんに、ソルシエールは慌てて頷いた。
赤ずきんがにっこり笑う。
「よかった。ちゃんと二週間後、ここに確認しに来るからね」
「う、うん。楽しんでおいで」
引きつり笑いを浮かべて、頷いた。
ソルシエールは食事をした。
三食きっちり。
約束をしたのだ。約束というのは守るものだということくらい、ソルシエールだって知っている。
朝起きて、食事をして、それからやっと、積んでいた書類を読みふけって、昼食をとって、また本を読んで、夜ご飯を食べて、それから寝た。ときどき、ハーブ園に水もやったし、森の中で遊んだりもした。めずらしく王からの依頼も、客人の訪問もなかったので、文字通り不精な生活を送っていたのである。
もしこのまま永遠に依頼がなければ、食料はやがて尽き、魔女は干からびて死んでいくだろう。もしそうなったら、残った骸を栄養にして、大きな木が生えたらいいな。ソルシエールはそう思った。
その木にやがて実がなったなら。それらを啄ばみに小鳥たちが近寄ってくるにちがいない。そうして、かつてソルシエールだったものは鳥たちと混じり合い、世界に散らばっていくのだ。それってとても心安らぐことじゃないだろうか。
それはともかく。
ソルシエールは、たくさんの文字を読んだ。
文字はラクだ。
逃げないし、おもねらなくてもいいし、読むだけで内容が頭に入ってくる。
ぬる湯に浸かるがごとく怠惰な生活。この、寝て目覚めるのサイクルを、ソルシエールは実に一週間分繰り返した。
変化があったのは、一週間と一回分目である。
ソルシエールの粗末な小屋。
窓から差し込む朝日が眩しい。
目を覚ましたはいいものの、ベッドから出る気になれず、二階でごろごろ読書をしていたソルシエールの耳に、一階の玄関の派手な開閉音が届く。あまりの力強さに、ぼろい扉が吹き飛ばされたのではないか、心配になったほどだ。
「魔女さん。入るよお」
しゃがれ声が怒鳴るが、すでに入ってきた後である。
ついで、どんどん、ばん、という派手な音を立てて、寝室の扉が開いた。
どっしりした老婆が顔を出す。
棉のように白い髪は、三つ編みになっている。
ソルシエールはといえば、ようやく上体を起こしたところだった。
「まあ魔女さん、まあたあんた、こんなだらしない生活をして」
顔をしかめる。
今回は風呂に入っていたからか、臭いとは言われなかった。
「もう夕方だよ。もう少し人間らしく生きたらどうだい」
そういう当人の生活だって品行方正とは言い難い。
眠る前のハーブティーの代わりに、浴びるように酒を浴び、夕食の代わりにつまみを食うような人なのだ。そのハスキーな声だって、老化のせいだか、酒やけのせいだか分かりはしない。ソルシエールとは常識知らずのベクトルがちがうだけだ。
「メジーさん、なんのご用ですか」
ぼそぼそとした声がソルシエールの喉から出た。
喋るのが久しぶりすぎて、かすれている。
老婆はソルシエールの質問をまるっと聞き流した。
「まあったく、うちの孫は何を好きこのんで、こんなところに足繁く通うのかねえ」
そう、彼女は赤ずきんの祖母であり、狩猟の師匠だ。ソルシエールのなんちゃって師匠とはちがって、ほんとうに狩りのいろはを赤ずきんに叩き込んだ人である。
とても剛毅で、ソルシエールはいつだって圧倒されている。
遠慮会釈を世界の果てに置き忘れてきたような人なのだ。今更そんなものを拾い戻しに行くわけにもいかないのだろう。遠すぎて、旅中に老衰で死ぬのがオチである。
老婆はずかずか室内に踏み込んで、窓を開け放った。
埃が舞う。
「あああ、空気が。光が」
カエルのようにのけぞってひっくり返り、じたばたするソルシエールをメジーが呆れたように見下す。
「なんだい、まったく。これで淀んだ空気も少しはまともになっただろう」
「研究が…」
「研究? してたのかい?」
「してないけど」
「ならいいじゃないか」
「よくない」
呵々大笑するメジーとは反対に、ソルシエールがごろごろと不満を表明した。メジーが聞いていないのは承知の上で怨嗟の声を垂れ流す。
それから、文句を言い疲れたころ、ふとある事に気が付いて、メジーに尋ねた。
「夕方? この光って朝日じゃないんですか?」
「はあ? なに言ってんだい。もう日暮れだよ」
「……はあ、不思議なこともあるもんだ」
首を傾げるソルシエールに、メジーは顔をくしゃくしゃにした。あれは文句を言おうとして呑み込んだ顔だ。
「……おっと」
迂闊なことを言うもんじゃないな。
ソルシエールは自戒した。
「なんだい、あんた。だいじょうぶかい?」
「もちろん。それで、メジーさん。今日はどうなさったんです? 赤ずきんは?……あ、お茶入れるので下に行きましょう」
よろよろと寝台から立ち上がるソルシエールに、メジーは首を横にふる。それから、沈んだ声で問いかけた。
「なあ、魔女さん。うちの孫の居場所、知らないかい?」
「え?」
なんだか、とんでもない事が起きているような、いやな予感がした。
『
けれど、ここに一つ両親の心を傷めることがありました。それは、こんなに美しい娘が、いつも黙って、沈んでいて、うれしそうな顔をして笑ったことがなかった。
「なぜ、あの子は笑わないだろう。」
「まんざらものをいわないこともないから、おしではないが、いったいどうした子だろう。」
両親は、顔を見合わせて、うすうす我が子の身の上について心配しました。
』
(『笑わない娘』小川末明著、青空文庫)
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