スラブクラヴジャームスプス

エリー.ファー

スラブクラヴジャームスプス

 冷たい風を避けて生きる。

 自分の体温を奪われてしまっては、生きていけない。

 こんな寒い夜は、そう。

 ラーメンを食べるしかない。

 味噌もいいが、いや、味噌は昨日食べた。今夜は、塩にしよう。いや、醬油もいいな。

 待てよ。

 まぜそば。

 これもいける。

 麺類にこだわっているが、ご飯ものだっていい。温かい味噌汁に肉じゃが、から揚げ、とんかつ、ステーキも悪くない。

 とにかく。

 お腹が空いた。

 入れたい。腹に何か詰めて元気を取り戻したい。

 財布の中に五百円玉が二つと、千円札が二枚と五千円が一枚。

 これは悪くない。

 安心できる金額だ。ちょっと頼み過ぎた。トッピングを贅沢にし過ぎた。飲み過ぎた。

 でも、大丈夫。そうやって財布に手を伸ばせる。

 ただ、こんな寒い夜は、やっぱり麺をすすって、スープを体の中に流し込んで、一息つく。これが情緒だ。人としての在り方だ。


 ラーメンをすするために生きているやつらというのが大勢いる。

 それが俺の客だ。

 俺は、まぁ、ラーメンに人生を捧げた、不器用な三十代とでも言えばいいだろうか。

 丁寧に、ただ正確に、それでいて大胆にラーメンを作っては人に提供している。皆、美味しそうに食べて帰っていくし、正直、あの表情でラーメン職人冥利につきると、本気で思える。

 もちろん、お金はほしい。なければ店を持つことも、ラーメンを作り続けることもできない。当たり前だ。

 でも、ラーメンを食べにきた客の笑顔で報われているところがあるのも事実なのだ。今は、ラーメンはデータになってしまった。良い悪いの評価もすぐにつくし、実際評論家は沸いて出てくる。別に、評論家が嫌いなわけではないのだ。ただ、本当に美味しいラーメンを作りたかっただけなのに、今はありとあらゆる人の顔色をうかがって作ることが多くなってしまった。

 悪いとは言わない。

 しかし。

 良くもない。

 妙に疲れるのだ。


 ラーメンが好きだ。

 母親が作ってくれたラーメンが好きだった。

 母親は、いない。

 かなり前に死んだ。

 母親のラーメンはもう食べられない。

 どれだけ願っても食べることができない。色々なものを準備しても、すべて捨ててしまっても、どこかの誰かに頼んでも不可能なのだ。

 眠ることで忘れようとするがそれも上手くいかない。

 全てがずれてしまったような気がする。

 ラーメンを作ってもらった日から、少しずつ変わってしまったのだ。

 それはたぶん、私だけではない。

 母親に、お母さんに、ママに、おふくろに、もう二度とラーメンを作ってもらえない子どもたちは何かを失って、何かで満たそうとしながら生きているはずなのだ。


 ラーメンのことが嫌いな人間なんているのだろうか。


 ラーメンなんて嫌いだ。

 ラーメン屋を経営して、もう二店舗も潰している。次も潰れたら借金の額も相当なものになる。さすがに、このラーメンの道から足を洗わなければならない。

 でも、ここで成功したいのだ。

 ラーメンが好きで始めたのに、今はラーメンのことが嫌いで、でもこれしか自分にはもう残っていない。

 ラーメンは悪くない。そう思う。

 でも。

 それでも、自分の人生から少しだけ取り除けば、もしかしたらもっとましな生き方もあったのではないかと思えてしまう。

 後悔している。

 ラーメンに出会ったこと、心奪われてしまったこと。

 そして。

 後悔してしまっていること。

 ラーメンをまた作る。もう一杯だけ、もう一杯だけ。そうやって作る。

 納得がいかない。指針もない。

 暗闇で作るラーメン。

 もう、味はない。

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