他人夫婦

 結婚して数十年。あの人は先に逝ってしまった。悲しくないと言えば嘘になる。

 でもこれで良かったとも思ってる。最後のその瞬間まで私が傍に居てやれた。きっとあの人も寂しくなかったはず。

 思い返せばあの人とは随分と長い間一緒に居た。遺影を見上げていた目を閉じれば沢山の想い出が――あの人が思い浮かぶ。


「僕たちは他人なんだから」


 あの人はそう口癖のように言っていた。


「僕は君を愛してる」

「君と一緒にいられて僕は幸せだ」

「今日も綺麗だ」


 あの人はそうやって思っている事はよく口にしていた。当然ながら私は嬉しかったが、同時にこうも言っていた。


「言わなくてもちゃんと分かってますよ」


 でもあの人はこう返した。


「ダメだよ。言わないと伝わらない。もし伝わってるとしても僕が勝手にそう判断して言わなくなるのは違う。君は僕が想ってる事を読み取ることは出来ないんだ。僕が言わないとそれは憶測でしかいんだ。だって僕らはテレパシーなんて使えないだろ? 同時に僕も君がちゃんと分かってくれてるかは把握できない。だって僕たちは他人なんだから」

「それじゃあ私もちゃんと口にした方が良いですか?」

「いや、それはいい。僕の考えを押し付けるつもりはない。だから僕は信じる事にするよ。僕と同じだって。でもたまには言ってくれると嬉しいかな」

「分かりました。私も愛してますよ」


 あの人は常に優しく気を遣ってくれていた。それは結婚して数年経っても付き合い始めた時と変わらなかった。


「もっと気を抜いてくれてもいいんですよ?」

「大丈夫。別に無理をしてる訳じゃないよ。でもどれだけ君という存在が自然になったとしても一人と同じようにはしてられない。親しき中にも礼儀ありという言葉があるように、お互いが心地好く過ごせるように多少なりとも気は遣わないと。だって僕たちは他人なんだから」


 あの人のおかげで私はどれだけ近づこうとも二人は別々の独立した人間であることを忘れなかった。私たちはどこまでいっても他人である。愛し合い、気を許してもお互いに心の中を完全に読み取ることは出来ない。

 でも他人であるという理解がより一層、二人の心を近づけてくれたと私は思ってる。自分の主観に相手を当て嵌め自分と全く同じだとして接するより、相手が自分とは違った考えや感覚を持っているという事が意識出来た方が、より一層相手に近づける気がする。いや、実際私はあの人をより近くに感じた。

 私たちは一定の距離を保ちながらも誰よりも近くに――傍で寄り添っていた。


「でもあなたと他人で本当に良かったとあの時は思いました。最後のあの瞬間、悲しみで見送るのは嫌ですからね。何とか笑って幸せだったと伝えられて良かったです」


 私は上げた口角の傍を泪が流れるのを感じ少し顔を俯かせた。


「だけど、あんまり悲しんでなくてほっとした、とあなたは言っていましたが、それも私を気遣ってくれてたのかもしれませんね。私がちゃんとあなたを見送れたと満足するように」


 もう一度、さっきよりもぼやけた視界で遺影を見上げる。


「あなたの事はこれからもずっと愛していますよ。そっちに行ってもまたよろしくお願いします」

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