削除屋さん

 今日も仕事を終えた私はいつも通りの帰路を歩いていた。疲れ切った体もいつも通り。だけどそれに加えて今日は会社であった嫌な事が心までも酷く疲れさせていた。そのせいで思い出す度にため息が零れる。でも寝て起きれば少しはマシになっていると思うし、数日後にはきっと忘れてるはず。それまでの辛抱だ。

 そんな体のみならず心までも疲労困憊している帰路の途中。


「随分とお疲れのようですね」


 最初、私はそれが自分へ向けられた言葉だと分からなかった。それ程に唐突に掛けられた声。だからその声が聞こえても二~三歩そのまま歩き、そこでやっと足を止めると後ろを振り返った。向こうからこっちへ手を振っている人に対して手を上げたら実は自分の後ろの人に対してだった時のように少し恥ずかしい思いをしないか心配だったが(実際、私にそのような経験はない)、そこには寂しげな夜道が一歩伸びているだけ。

 それもそのはずここまでの道中、通行人とすれ違った覚えはないのだから。でも私は背後が見えないから(むしろ見える人の方が異常なのでは?  とさえ思える)いつの間にか後ろを歩く人がいても何等おかしな話ではない。むしろ後ろの誰かに声を掛けたのにも関わらず私が勘違いして立ち止まる方がおかしな話だ(二つの意味で)。

 だが、となるとあの声はやはり私宛だったということになる。私はまだ目をやっていない方(後ろを確認する際、道路側から振り返ったからその反対側)を確認した。

 そこには黒いベストとYシャツを着た男立っていた。細身で白髪混じりの髪を全て後ろへ流し、頬骨の出た中年ぐらいの男。微かに笑みを浮かべている。人気の無い夜道で突然声を掛けてくるという点を除けば不審さは無くむしろ人が良さそうに見えた。


「何でしょうか?」


 聞こえていなかったフリをしてそのまま立ち去ることも出来たが、その選択肢は立ち止まり振り返った時点で身を潜めてしまっていた。それにこうして目と目を合わせてしまった以上、ここか無視するのはどこか気が引ける。だから私は一応警戒をしながら返事をした訳だ。

 それに対し男は依然と微笑みを浮かべながら口を開く。


「いえ、随分とお疲れの様に見えましたので」


 それは最初同様に丁寧な口調。だが今度はどこか申し訳なさそうな雰囲気が感じられた。それが夜道を歩く女性へ突然声を掛けたことに対してかあるいはわざわざ足を止めさせたことに対してか、その両方に対してかは定かではないが。


「まぁ、仕事終わりですし今日はちょっと嫌な事がありましたので」


 私は早く帰りたいという気持ちが表に出て嫌な態度になってしまわぬように気を付けながら言葉を返した。


「では、もしよければ私がそれを差し上げましょうか?」

「えっ?」


 もしかしてナンパ? 私は反射的に出た声を自分で聞きながらそう思った。もしかして忘れさせるってそういう意味?

 そう考えると私は律義に相手をした自分に少し呆れた。無視して立ち去ればよかった。


「私、疲れてるのでそういうことでしたら他を当たってください」

「そうですか。ではこちらだけでもどうぞ」


 あっさりと引いた男はベストのポケットから一枚の紙を取り出すと私へ差し出す。それは名刺だった。


「削除屋 白井 遊左」


 私はその名刺に書かれていた文字を小さな声で読み上げた。削除屋。初めて口にするその名に思わず首を傾げる。


「私は記憶から感情までありとあらゆるモノを削除する削除屋をやらせていただいております。何か忘れたい過去や消したい恨み妬み怒り等の感情がありましたらいつでもどうぞ」


 そう言い丁寧に頭を下げる白井さん。だけど私はそんな彼を訝し気な視線で見ていた。記憶ならまだしも感情までも消すなんて信じられるはずがない。仮にそれが本当だとするなら話題にぐらいはなってそうだけど。でも現に噂すら聞いたことがない。なら理由として考えられるのはそもそも存在しないか公になってはまずい類のものか。

 どちらにせよ関わらない方が良さそう。


「はぁ。覚えておきます」


 それだけ言い残しその場を立ち去ろうとした。

 すると、


「それとこれはほんのサービスです」


 白井さんはもう片方のポケットから黒い袋を取り出すと私へ差し出した。それはたまにサンプルなどが入れられ路上とかで配られているやつと同種の色違い。

 だけど削除屋という怪しい職業を語っていることも相俟ってかそれには何かヤバい物が入っているようにしか見えず到底受け取る気になれなかった。

 そんな私を見て察したのか白井さんは中が見えるように袋を開けた。


「ご安心ください。中に入っているのはアイマスクです。ですがただのアイマスクというわけではなく、短時間ではありますが一度だけ記憶を削除することができます。ですのでご利用の際は中にあります説明書をしっかりとお読みください」


 そんな訳の分からない物を使うはずがない。そう思いながらもとりあえずすぐにこの場から立ち去る為に受け取るだけ受け取ろうと手を伸ばした。


「ありがとうございます」


 心の籠っていないお礼を添えて。


「一度限りの削除を利用した後は捨てても構いませんしそのままアイマスクとしてもご利用いただけます」

「分かりました」

「ではいつでもご来店お待ちしております」


 白井さんは深く丁寧に頭を下げる。


「良い夜を」


 最後にそう言い残すと後方の路地へ消えていった。私はその後ろ姿を最初とはすっかり変わった視線で見送ると一度首を傾げてから家へ向け歩き始めた。

 夕食もお風呂も済ませ寝るまでのゆったりとした時間。私はビールと簡単なおつまみをテーブルに並べソファに深く腰掛けていた。親友のように信頼しているソファへ体を預け深呼吸をしながら体の力を抜いていく。これをすると今日も頑張ったって思える。少しの間、その状態で目を閉じ今日という日常の一部が終わるのを感じていた。


「ふぅ~」


 もう一度ゆっくり息を吐くと目を開けおつまみを一口食べてからビールを飲む。

 するとビール缶をテーブルに置くとほぼ同時、視界端に黒い何かが映った。私は思わずぎょっとして勢い良く顔を動かしてそれを正面に捉える。

 だがそれは私の想像した悍ましい生物ではなく白井さんから貰ったあの袋。


「なんだ」


 安堵のため息交じりの声を零すとその袋に手を伸ばしてみる。そして中のアイマスクを取り出し、裏返してみたりと色々な角度から見てみた。黒一色の特に何かあるわけではないアイマスク。強いて言うなら右側にボタンのような物が付いているぐらい。

 それをテーブルに置くとビールを挟んで袋に入っていた紙を取り出し目を通してみる。使用方法と注意事項がそこには書かれていた。


「ふ~ん」


 軽くだが読み終えると興味ないと言うことを代弁するような声を出しながらその紙をアイマスクの上に投げ捨てる。そしてビールを手に取り再びソファに体を預けた。

 それからしばらく特に何かをする訳でもなくぼーっとしていた。このまま呑み込まれしまうんじゃないってぐらいにソファへもたれて何も考えずただぼーっとしてる。この時間が私は好き。

 だけど折角。折角、良い感じの気分で何も考えないようにしたてたのに今日あったあの嫌な出来事が頭に割り込んできた。上司の顔が頭を埋め尽くし気分は台無し。それがビールを手に取らせ一口、また一口と進ませる。一緒に飲み込み消化してくれないか、なんてことを出来ないと分かっていても願ってしまう。出来る事なら今すぐにでも忘れてしまいたい。そんなことを思っていると視線は自然とあのアイマスクへ。

 頭には上司の顔。目には怪しげなアイマスク。若干酔いも回っていたこともあったが私はムカツク上司に煽られるようにアイマスクを手に取った。そして眼鏡を掛けるようにそれをつけ説明書を思い出す。

 まず消したい記憶を頭に思い浮かべる。出来るだけ鮮明にそして強く。その後にアイマスク右側にあるボタンを押した。アイマスクから微かに機械の起動音が聞こえる。その間も消したい記憶だけを思い浮かべ続けた。念じるように強く、強く。

 きっと今の私は他の人から見れば滑稽に見えるはず。わざわざ嫌な出来事を思い出して、しかも自分を痛めつけるようにそれだけに集中している。愚の骨頂。むしろ狂気さえ感じる今の私をイカれてしまったと思ってもそれはその人の所為じゃないのかもしれない。

 そんなイカれた行動を始めて約一分。私はある変化に気が付いた。


「あれ? 何考えてたんだっけ?」


 ついさっきまで頭に浮かべていたあの出来事が一体どんなことだったのか思い出せない。


「ものすごく嫌なことだったはずだけど……。なんだっけ?」


 ド忘れしてしまった時のように思い出そうとしてもそこには何かあるという影だけで本体はどこにも見当たらなかった。

 私はアイマスクを外し視線を落とす。両手に乗った何食わぬ顔のアイマスク。ブラックホールのように黒いそれは本当に嫌な出来事の記憶を頭から吸い出してしまったのだ。


「ウソ……」


 胸に一杯詰まった信じられないという気持ちの欠片が口から零れた。同時にあの胡散臭く関わらない方がいいと思っていた白井さんの顔が頭に浮かぶ。


「本当だったんだ」


 だけどまだ安心はできない。何か副作用とかがもしあったら。そう考えると恐怖の雲がかかり始めた。だけど結局、その日は雲行きが怪しいだけで特に何もなかった(気分が悪くなるだとか頭痛がするだとか)。

 それからも一週間ほど様子を見たが気になる異常は感じられなかった。もっとも私自身が感知できない部分で異常が発生していなければだが。そうじゃなければただ本当に嫌な出来事が洗剤のCMのように綺麗さっぱり消えただけ。

 違和感もなく記憶が消え去り最初は警戒をしていたが、それも時間が経つにつれまるで霧に隠れるように姿を消した。そしてあれから数ヵ月が経過する頃にはその不思議な出来事すら忘れてしまっていた。だけど人生においての変化はいつも唐突。あの日、白井さんに出会った時のように。

 それはいつもより気温が二~三度高く歩いているだけで額に汗が滲むような暑い土曜。

 私はこの日、二年間付き合っていた彼氏に振られた。確かに最近、疎遠気味になっていたけどそれはお互いに仕事が忙しいからだと思っていた。けどそう思っていたのは私だけだったみたい。

 それは丁度、家に帰って来たタイミングだった。後ろでドアが閉まり靴を脱ごうとしてた時に電話が掛かってきて画面には彼の名前。久しぶりの電話に(ラインでのやり取りもなかったし)私は心躍った。だけどすぐに陽気な音楽は途切れるように止まり、軽快なステップを踏んでいた心は徐々に動きを止めていく。そのおどけた雰囲気が場違いだと気が付き静まり返っていく様は見ている側に居心地の悪さを感じさせるものだった。

 そして気が付けば彼との電話は切れてて額から流れる汗とは明らかに違う雫が頬を流れ始める。悲しみが容赦なく突き刺すごとに心から流れる血が悲涙となり一滴また一滴と眼から零れ落ちていった。そして崩れ落ちるようにその場に蹲った私は玄関でみっともなく咽び泣く。

 それから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。涙と共に気力も流し切ってしまった私は希望を失った者のような虚ろな目をし、そのままゆっくり立ち上がるとぐちゃぐちゃになったひとい顔で家へと上がった。そして歩く屍のように覚束ない足取りで寝室に向かいベッドへ倒れる。何を想い何を考えていたのかそこからのことはあまり覚えていない。

 気が付けば眠ってしまっていて朝になっていた。昨日閉めてないカーテンからは私の心情とは裏腹に陽気で活力を体現するような燦々たる太陽が今日も街を照らしているのが見える。今の私にはそんな太陽が眩しすぎた。だから重い体を起こすとまるで吸血鬼のように陽光を避けカーテンを閉める。依然と気分は地を舐めるほどにどん底にあったが不幸中の幸いか今日は休みだった。だから私は再びベッドへ戻った。

 無気力とは怖いモノで何もしないまま一日が過ぎあっという間に夜。瞬きをしたら一気に時間が過ぎ朝から夜になったんじゃないかって思わせる程に体感的には一瞬だった。だけどそんな無気力でさえ抑え込めないモノがある。それは食欲だ。心は食べたくないとい言うが体は食べろとお腹を鳴らして怒る。私は仕方なくキッチンへ行くと作業として空腹を満たした。

 そして再びベッドへ戻ろうとしたが寝室の棚上にあった物に目が留まった。それはあのアイマスク。置きっぱなしにしていたのをすっかり忘れていたアイマスクだ。

 私はそれを手に取るとまるで埋もれた遺跡のように忘れられたあの日の記憶を思い出す。あの日、心底嫌だった記憶が一瞬にして消え去ったことを。そして同時にあの男、白井さんの言葉も思い出した。


『私は記憶から感情までありとあらゆるモノを削除する削除屋をやらせていただいております』


 記憶のみならず感情までも。


「もしかしてこの気持ちも?」


 誰に問いかける訳でもなく独り呟く。私はその場で目を閉じ内側に蔓延る感情へ目を向けた。心にひどく纏わりついている冷たく重い憂い。するとそれが私へ意地悪をするように運んできた昨日のことが頭を埋め尽くした。いつまでこの呪縛に縛られないといけない? あと何日、何週間この悲しみに暮れないといけない? そう考えるだけで既に憂鬱だ。

 私はもう一度アイマスクへ視線を落とす。十秒か二十秒。正確な時間は分からないけどそう長くない間、アイマスクを見つめるとそれを棚に戻し急いで着替えを済ませた。そして財布だけを持って中に入れっぱなしだった名刺を片手に外へ駆け出す。名刺の裏にあった地図を頼りにお店の場所へ急いで向かった。

 お店は裏路地にひっそりと普通なら気が付くはずの無い、立地で言えば最悪な場所にあった。壁にぽつりとあるドアの横には『削除屋』と書かれた表札のような小さな看板が掛けられていた。その雰囲気に少し不安になりつつもドアノブへ手を伸ばす。恐る恐るドアを開いてみると中は思った以上に綺麗な作りで少し驚いたのが正直な気持ち。

 そこはソファとテーブルに雑誌や漫画などが置かれた待合室になっていた。ちなみに自販機も置いてある。全体的に高級感があって、入り口からは想像も出来ない空間に仕上がっていた。


「いらっしゃいませ」


 そのソファの一つに白井さんは腰かけていた。まるで私が来るのが分かっていたかのように。


「ではこちらへどうぞ」


 まだ思考と体が共に停止していた私を立ち上がった白井さんは奥にあるドアへ誘導した。


「え? ……あっ、はい」


 言われるがまま彼の後に続きそのドアの向こう側へ。そこは小さな個室になっていて高級そうな革のソファが置いてある。それにはパーマ機のような機械が取り付けられていた。


「どうぞ。お荷物は傍にありますカゴへお願いします。貴重品等はお持ちいただいても構いません」


 荷物の無い私は白井さんの手に従いそのソファに腰を下ろした。その少し後、白井さんは隣に椅子を引いて来て同じく腰を下ろす。


「では。今回はどのようにしましょうか?」


 まるで美容室にでも来たような質問に私は彼のことを頭に浮かべた。


「記憶とこの気持ちを」

「かしこまりました」


 私の沈んだ小さな声に返事をしたその声はサラッとしたものだった。


「では始める前に一つ確認事項がございます」


 白井さんはそう言いながら一枚の紙を挟んだクリップボードを手渡してきた。


「一度削除した記憶及び感情等は今後一切修復することが出来ません。無くしたモノはもう二度と取り戻すことが出来ないのです。それでもよろしいでしょうか?」


 慣れた口調で説明すると胸に差してあった万年筆を答えを求めるように差し出した。


「良くお考え下さい」


 私はその万年筆を見つめながら彼の事を思い出す。振られた時の事そして今までも想い出を。

 確かに今はすぐにでも消し去り忘れたい。でも同時に楽しかった想い出が沢山あるのも事実。こんな一時の感情に任せてそれすらも消し去ってしまっていいものなのか。そんな疑問が頭を過る。だけど彼とはもう終わった。今となってはあの時の気持ちを思い出すきっかけになるだけで意味はない。ならいっそのこと元恋人から貰った物を捨てるように捨ててしまった方が。だけど……。

 まるで悪魔と天使が葛藤するように私の心はここに来て揺らいだ。そんな私の決断を静かに待ってくれる白井さんの顔を見ると少し申し訳ない気持ちになった。だからもう決めないと。


「私は……」


                * * * * *


 この日私は友人の美香と一緒に映画を観に来ていた。少し前から観たかった映画だけあってその内容は大満足。とっても楽しい時間を過ごせた。


「ちょっとお手洗い行ってくるね」

「うん。じゃあここで待ってるから」


 美香と別れた私は邪魔にならないように壁際に寄って待つことにした。さっきの映画を思い出しながらスマホに視線を落とす。


「夏希!?」


 すると私の名前を少し驚いたように呼ぶ男性の声が聞こた。同名の誰かを呼んだのかとも思ったが一応確認するように顔を上げてみる。すると一人の男性が真っすぐ私の方へ近づいてくるのが見えた。男性は私の目の前に来るまで終始信じられないといった表情を浮かべていた。


「まさかこんなとこで会うなんて。連絡しようとしたけど出来なくてスマホ変えた? まぁそんなことはいいや。ここで会えたのもきっと運命だよ。なぁ、俺からあんなこと言い出したのは分かってるけど。やっぱりやり直さないか? 俺がバカだった。だから頼む」


 捲し立てるように一方的に話を進めた彼は最後に頭を下げた。こんな場所で止めて欲しい。だけど私はなんて答えていいか分からず黙ったままその姿を見つめてしまった。するとゆっくりと彼は顔を上げ始めた。


「やっぱりダメか?」


 こちらの様子を伺うような言葉。それに対し私は今思っていることをちゃんと伝えようと決めた。そして恐る恐る口を開く。


「あの、どなたでしょうか?」

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