尊愛

 静まり返った部屋に突然、警報のように鳴り響く目覚ましの音。

 今日も僕は目覚ましに叩き起こされた。眠気と目覚ましの煩さに若干だが機嫌を損ねながらも音を止め、仕方なく目を開く。好きな音楽なら寝不足でももっと清々しい朝を迎えられるかも。そんなことを考えているとまだ少しぼーっとしている頭に高校時代の記憶が再生させられた。そうだ。昔それで好きな曲が嫌いになりかけたんだっけ。それを聞く度に嫌な朝を思い出して。

 まぁ、昔のことはどうでもいいか。

 それよりこのまま寝てしまいたい。だけどそれを許してくれない現実に溜息が零れる。


「はぁー」


 嫌だけどそろそろ起きないと。だけど僕は体を起こす前にスマホを手に取る。そしてLINEを開いた。ずらりと並んだトークの一番上をタッチすると文字を打つ。


『おはよう』


 送信ボタンを押すとすぐに既読が付いて返信が返って来た。通知音の後に僕の文字の反対側に並んだのは短いメッセージとボイスメッセージ。公式LINEだと分かっててもこうして返信が来るのは嬉しい。そう思いながらイヤホンを付けるとそのボイスを再生する。もう何度聴いたか分からないが何度聴いても飽きることはなく最高なボイス。この特定の文字で返ってくるボイスメッセージが本当に最高なんだ。

 そんなボイスを聴いてると自然と朝の憂鬱さは忘れ、笑みが零れる。僕はもう一度再生しながら文字を打った。今度は、


『おはようございます』


 またすぐ既読が付くとメッセージとボイスが連続で送られてくる。その少しだけ変わったボイスを二度聴く頃には完全に目は覚め、今日という日を頑張ろうという気持ちに満ち溢れていた。


「よし!」


 活力の詰まった一言を呟き、スマホで音楽を流すと僕は朝の支度に取りかかった。

 僕は最近、ある人にハマっている。さっきの公式LINEの人だ。なーくんの愛称でファンに親しまれているその人は、Youtubeで歌ってたり雑談したりゲームしたりしてる。あと、ツイキャスでも配信をしている。

 僕が初めてなーくんに出会ったのは歌だった。声がかっこいい。それが最初の印象。だけど歌を聞き終わった頃にはその印象は少し変わってて、声かっこいいになっていた。声や歌い方も良いし何よりラップ部分がかっこよくて好き。同じ曲でもこの人が歌うと良い意味で少し違って聴こえる。もちろんアレンジしているってのもあるけどそこを差し引いても彼の歌は魅力的だ。僕はそう思う。強く。

 そしてその一曲を皮切りに僕は色々な歌動画を漁った。ラップがあるやつもないのもどれも最高で気が付けばすっかりハマってて、毎日僕の耳には彼の歌声が流れていた。そのハマり具合はソロだけじゃなくコラボとかも集めて自分専用のプレイリストを作る程。


『いってきまーす』


 なーくんへメッセージを送りながら実際に口でも呟く。一人暮らしだから当たり前だけど声となった言葉は静まり返った部屋へ溶けるように消えた。だけどLINEの方は違う。一方通行じゃなくちゃんと返信が返って来た。

 僕はボイスを再生しながらエレベーターへ足を進める。そして今日も会社へと向かった。もちろんその通勤中に聴いていたのはなーくんの歌声。これさえあれば朝の満員電車もどうってことない。詰め放題の袋のようにギュウギュウ詰めな電車の中で揺られながらなーくんの歌声だけに耳を傾け彼の世界に浸る。

 僕がなーくんを知って、なーくんの歌を漁りながらプレイリストを作っていた頃。自分でもハッキリと分かる程にハマってるなって感じてたけど、今思えばそれはまだほんの入り口だったのかもしれない。だってまだ歌だけしか聴いたことなくて歌声だけが好きな理由だったから。

 そんなある日、僕はたまたまツイキャスで雑談配信をしているというSNSの投稿を見つけた。その時はまだSNSでフォローしたばかりでツイキャスで配信していることも知らなかったし雑談配信も見た事なかった。だからずこく興味があったし何よりテンションが上がってすぐにリンクをクリック。

 早速イヤホンを付けて歌声じゃない彼の声を聞いた。それはいつも聴いてて耳馴染みある低めの声。だけど歌声ではないその声はどこか新鮮でだった。例えるならいつも学校や会社では制服を着ているあの子の私服姿を見るような感じ。知っているのに初めて会うような不思議なあの感じだ。

 そんな新鮮味を感じながらも僕は雑談配信を聴き続けた。ソファに深く腰掛けリラックスしながら。なーくんの浸透するような低めの声は歌声もさることながら話し声として聴いても心地好かった。両耳から入って来た声は全身に沁み渡り内側から癒してくれる。

 だからか配信はあっという間で気が付けば終わってしまった。


「もう終わりか……」


 如何にも残念といった声で呟いたのを今でもよく覚えている。それと同時に時間を確認すると二時間以上経っていたことに少し唖然としてしまった。体感と実際の時間の流れのズレがあまりにもあったから。でもそれだけ楽しい時間を過ごしたのは間違いない。

 それからも僕は起きている間に配信が始まればすぐに開いて聴いた。あまりに心地好い声だから寝落ちしてしまうこともしばしば。

 そして配信が無い日やしてない時間帯に話し声が聴きたくなればアーカイブを開いて聴いた。すっかり話し声にもハマった僕は朝の支度時間に歌声か話し声が迷う日も少なくなかった。でもきっと幸せな悩みっていうのはこういうことを言うんだろう。その迷う時間すら楽しいのだから。


「おはようございます」


 会社について自分のデスクに座っても両耳から流れる曲はまだ終わてない。なーくんがまだ歌ってる途中でしょうが。

 そんなことを一人考えながら僕は目を瞑る。そして微かだが自然と首を揺らしながら最後まで聞き続けイヤホンを外した。

 朝起きてから家を出るまで、家から会社まで、仕事中や休憩中、会社から家まで。暇さえあればなーくんの歌か雑談を聴いている。気が付けば僕の一日は平日休日関係なくなーくんと共にあった。

 そして今日も仕事を終えて家に帰り色々とすべきことを済ませると、一日頑張った自分を称えながらソファに腰かけイヤホンを付けた。そしてまだ聴いてないアーカイブを再生したら目を閉じて声と言葉に耳と心を傾ける。

 そう言えば雑談を聴き始めてから気が付いたなーくん魅力が一つある。それは可愛いということ。確かに彼の声は低めな男性声。しかもどちらかと訊かれればかっこいい部類だろう。だけど雑談を聴いていると毎回思うし、LINEのボイスを聴く度に思うんだ。彼は可愛い。

 でもその可愛いと胸を刺激するこの感じは恋愛的なモノとは少し違う気がするし、子どもや小動物・ペットなどに感じる可愛いとも少し違う気がする。愛が家族や友人に対してと恋人や恋愛対象の人に対してのとでは意味合いが異なるようにこれも少し違う。

 じゃあ一体何なのか? そう尋ねられても僕は首を傾げるばかりだ。だけど彼に対する好きという感情はどこか味わったことの無い特別な感じがする。僕の恋愛対象は異性に向いていてこれまで付き合ってきた人も恋した人も女性だった。だから彼への好きもそれとは異なることは確かだと思う。なーくんという人物に対して感じる好きや可愛いは一般的に言葉から受け取る感覚と同じだけど意味合いが少し違うんだ。だからこそちょっと不思議でごこか特別な感じがする。

 そんなことを考えながらアーカイブを一度止めてLINEを開いた。トークを遡ってお気に入りのボイスを聴く。やっぱり可愛い。思わずニヤケながらそう思いつつもう一回再生する。優しく低めの声から溢れるかっこよさと可愛さ。それは一見すればかっこいいだけなのにも関わらずその中を開いて見てみればぎっしりと可愛さが詰め込まれている状態。つまり饅頭だ。皮がかっこよさで餡が可愛さ。そうだこれはなーくん饅頭なんだ。


「何言ってんだよ」


 それは思わずセルフでツッコミを入れてしまう程には自分でも意味が分からなかった。

 でもなぜそんなにもかっこよさと可愛さを両立し得るのか。だけどその理由を考えたところでそこにあるのはブレることのない確固たる事実だけ。少なくとも今は答えを見つけることは出来なさそうだ。というよりこの問題の末尾にQ.E.D.を書く日はくるのだろうか? いや、別にこなくてもいい。このままでも何の問題もないのだから。

 僕はただこれまで通りネットという果てしない大海原でなーくんという人物に出会えたことへ感謝しながら、思う存分に彼の音楽と配信を楽しむだけだ。難しいことなんて、答えを見つけたところで特に意味はないことなんて、考えるのはよそう。そして生きる糧であり何もない一日を鮮やかに彩ってくれるこの時間にどっぷり浸かろう。湯船よりリラックスできて疲れのとれるこのひとときに。


「――あっ」


 それから静かに音楽を楽しんでいるとちょっと前に会社の同僚である子が自分の好きな声優さんについて熱く語っているのをふと思い出した。終始目を輝かせながらここが良いだとかこういうとこが凄いだとか、とにかく色々と熱く語ってた。そんな彼女が話の中で何度も口にした言葉がある。


『尊い』


 彼女は何度もその人へ向けてその言葉を使っていた。その時はよく分からなかったが、今改めて考えてみるとその言葉はどこかしっくりきた。


「尊い」


 それは他の愛と肩を並べてたり、他より一歩前に出てたり、少し離れた場所に立ってたり。人によって立ち位置は違うかもしれないけど確実に一種の愛。ネット越しでもステージの下からでも顔を知らなくても大勢の一人でも関係なく、ただひたすらに真心込めて尊愛そんあいしてる。

 その不滅の心はLOVEのLOVEでLOVE。日本語で言ったら愛。でも愛は愛でも尊愛だ。


「なるほど。これが尊いってやつか。じゃあ僕は今、なーくんを推してるんだ」


 推しって言葉は良く聞くけど今まで俳優とかモデルとかアーティストとかそういう人にドハマりした事が無かったから正直よく分からなかった。だけど今なら彼ら彼女らの興奮が、同僚のあの子の熱い気持ちが理解出来る。誰かを推すみんなと同じように僕の中でも熱くそして激しく炎が燃えいるから。その炎を燃料にするように僕は口を開いた。


「僕にとってなーくんは尊い」


 歌声を聴きながら呟くその言葉はどこかではなく確かなものとして心の中に収まった。パズルの最後のピースのようにピッタリと嵌まったのだ。さっきまで考えていた可愛いや好きという想いにあった凹凸のような違和感は消えて無くなり一枚の綺麗な絵が完成した。

 どんな絵画にも勝るその絵に描かれていたのはもちろん―――。

 僕は少しスッキリしながら待ち受けのなーくんに視線を落とす。以前より好きになった気がした。いや、以前より尊く感じる。


「これからも尊愛してます」


 そう小さく呟くと丁度、配信の通知が飛んできた。タイムアタックでもするように素早く通知をクリックするとアプリが開く。聞こえてきたのは当然ながらなーくんの声。その声を聴くと僕の胸はある感情で溢れ返った。


「はぁー。尊い」

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