第2話 クマより怖い巨人は女の肉が好き
ずっと昔、まだ磐長サクヤが小学校に上がったばかりの頃。家族四人で北海道旅行へ行った。そこで、ちょっとした事件があった
当時泊まったロッジの裏には細い林道が伸びていて、サクヤは無性にその先が気になった。だが両親に言えば危ないからダメだと言われるに決まってる。そういう時、悪だくみの相手は決まっていた。
「ねえコノハ、あの先に何があるか気にならない? 一緒に見に行こうよ」
コノハはぶんぶんと首を振って否定する。一卵性双生児の見分けがつくようにコノハだけ伸ばしていた長い髪が、動きに合わせてダイナミックに振り回される。
「きっとくらいしこわいよ……それにぜったい怒られるよ……やめようよお姉ちゃん……」
「明るいうちならだいじょうぶ! ね、ね、パパとママには内緒だから! すぐに帰ってくればへいきだって!」
「でもぉ……」
内気な妹は、姉に強く押されると嫌とは言えなかった。
二人は密かにロッジを抜け出して林道を進んだ。たしかに日は出ていたが、傾いた太陽は林冠部を照らすだけで中は薄暗い。コノハはずっとびくびくしながら姉の手を握っていた。サクヤは全然平気な顔でどんどん進んでいく。
「やめようよお姉ちゃん……もう戻ろうよ……」
妹は泣き声混じりで訴え続けるが、姉には通じない。
「だいじょうぶ! いざとなったらお姉ちゃんがまもってあげる!」
「じゃ、じゃあ、クマが出てきても……?」
「えぇ!? ク、クマ!?」
予想外の仮定に素っ頓狂な声を出してしまう。クマは無理だ。サクヤは本能的に白旗を上げそうになる。が、
「クマは無理なの……!?」
いっそう怯えた声を出されてはしかたない。その小さな胸をいっぱいに張ってみせた。
「何が来てもだいじょうぶ! お姉ちゃんはぜったい負けないんだからっ!」
「そ、そうだよね……お姉ちゃんは強いもんね……!」
なんてことのない微笑ましい会話。サクヤとコノハはえへへと笑いあう。もちろんクマは無理なことくらいサクヤはわかっている。しかしクマなんて出てくるもんか。クマなんて動物園でしか見たことないし……。
その時彼女たちはすっかり忘れていた。そこが都会のど真ん中にある小さな林ではなく、試される大地北海道であることを。
出し抜けに、メキメキという破砕音が響いた。コノハの震える肩を抱き寄せつつ、サクヤは音の方を警戒する。
何かが来る。人? こんな林の茂みから?
「まさかだよね……」
そのまさかだった。茂みの中から黒い巨体がのそりと姿を現す。ハチミツが好きな黄色いやつ……とは程遠い荒々しい顔。ぴょこんと立った一対の耳。
「お、おおおお、おお、おね、お姉ちゃん……」
「だだ、だ、だいじょうぶ、だいじょうぶよコノハ……パパが言ってたんだから……クマは目を合わせてれば襲ってこないって……」
クマとの距離は十数メートルほど。コノハはかわいそうなくらいにガタガタ震えている。サクヤは父親の教えを守りつつ、ゆっくりと後退する。
もちろんサクヤだって怖かった。けれど妹を守らなければと思うと、不思議と勇気が湧いてきて、体の震えもすぐに治まった。いつだってそうなのだ。妹のためだと思うとどんなに恐ろしい相手にも震えずにいられる。
「ゆっくり……ゆっくりだよ……ゆっくりさがるの……」
「もしおそわれちゃったら!?」
「その時は私がおとりになるから、コノハはパパとママに伝えてきて」
「お姉ちゃんおいてくの!?」
「お姉ちゃんが負けたことあった? クマだってやっつけちゃうんだから」
流石にその言葉は、本物のクマを前にすると説得力がなさすぎた。盛り上がった肩。鋭い爪。獰猛そうな瞳。クマの大きな体は街で見るどんな凶暴な番犬よりも強そうだ。ただ幸いなことに襲ってくるような気配はない。じりじりと二人は後退するが、追ってくる様子もない。
やがてクマと姉妹との間には、もう互いが小さく見えるほどの距離ができていた。クマはその場を動かない。サクヤ達は知らぬことだが、このクマはまだ子熊であった。それに夏場は食べ物が豊富で、クマの方も無理に人を襲うことは少ないのだ。とはいえ危険なことには変わりないが。
「コノハ、ここからはいちにのさんで走るよ。いい?」
もう十分な距離は稼いだだろうと判断し、サクヤは逃走に転じることを決める。番犬を相手にするのと同じ。コノハは弱々しく頷く。
「いち……にの……」
ゆっくりと背を向けてもクマは追ってこない。もはやサクヤたちのことなど見えていないかもしれない。
「さん……!」
二人は弾かれたように駆け出す。追ってくる気配はない。手を繋ぐ相手の温もりだけを感じつつ、遮二無二になって道を進む。幸い、林道はそう長い道ではなかった。先の方に光が見えた。
戻ってきた! 歓びを胸に飛び出し、視界がひらけた。
「あれ……」
二人はようやく気がつく。自分たちはロッジのある方とは逆に来ていたことに。つまり林道を真っすぐ進んできたわけだ。そしてサクヤが見たいと思っていたその先には、見渡す限りの草原が広がっていた。青空と緑の地平線。
爽やかな風が吹き抜けると、呆然とする姉妹の前で、ごぅという音ともに緑の絨毯が薙ぎ払われた。
○
――あの時の草原みたい。
サクヤが最初に抱いたのはのんびりした感想。脳裏を駆け巡ったクマとの死闘の思い出。けれど今、開いた手の先に妹はいない。
「コノハ……」
アンニュイに瞳を細めて空を見上げる。青い青い空だ。雲ひとつなく太陽が眩しい。世界はこんなにも美しかったのか。
ああ、それにしても。
「ここはなんなのおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
叫び声が虚しく風にかき消される。当たり一面360度、見渡す限り世界にはなにもない。ひたすらに続く草原。一部小高い丘のようになっている場所もあるがそれだけだ。
「落ち着けよー私……深呼吸深呼吸……まずは状況を整理しよう。私はさっきまでコノハの部屋にいた。それで居なくなったコノハの手がかりを探してた。そこまではオーケー」
思考を声に出していくと昂ぶる気持ちが落ち着いた。どうせ聞かれる相手も居なかったから遠慮しない。
「それでコノハのパソコンを調べようとして……そうだ。画面を触ったら引っ張られた! それから画面の中に引きずり込まれて……引きずり込まれた……どこに……?」
画面の向こうはただの壁だ。引きずり込まれるもクソもない。しかしたしかに……。
それともう一つ気がつく。画面にずっと映っていた草原の映像。今サクヤの眼前に広がる景色とよく似ていた。冷や汗が額ににじむ。
「で、私は結局どうなった? はいサクヤさん早かった! 画面の中の世界に吸い込まれた! んなわけないじゃん、座布団全部持ってって!」
空元気が青空に吸い込まれていく。
「えーと、うそ……ですよね……? ていうか夢……?」
もちろん答えるものは誰もいない。風が吹き、ごぅと短い草花が薙ぎ払われる。しっかり立っていないと足をすくわれそうな強風だ。ばたばたと激しくはためくスカートの裾を押さえつつ、これはいよいよ現実の出来事だと理解し始める。
それからどれくらいぼぅっとしていただろう。サクヤは唐突に自分の頬をピシャリと叩いた。混乱が極まった時の癖。
「考えても無駄でしょこれ! 探偵は足で真実を探すんだってホームズも言ってる! あれポアロだっけ? ああもう! 磐長サクヤ、出ます!」
とにもかくにもじっとしていては解決しない。じきに日も暮れるだろう。せめて明るいうちに歩き回っておいたほうが得だ。サクヤは楽観的な性格だった。そうならなくては、悲観的な妹を守ることはできなかった。
そして鼻息も荒く第一歩を踏み出しかけた――その時のこと。
「あーーでーー?」
地の底から響いてくるような低い声に空気が震えた。ぎょっとして振り返った先は小高い丘、その先からだ。
ぞっと全身の体毛が逆立つ。本能が理解していた。今のは、人間の声じゃない。じゃあなんなのさと考えてもサクヤにわかるはずがない。
「ごごらに人間はいないんじゃながっだがあー? でもお、今の声っで人間だよなあー?」
おそらくとんでもない大声なのだろう。一言ごとに空気がビリビリと悲鳴を上げる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、なんかわかんないけど逃げないとまずいって……!
サクヤの本能が警鐘を鳴らす。クマに出会った時よりもずっと危険な予感。
「だよなあ。おがじいよなあ。女の子がなあ。女の子がいいなあ。女の子の肉は柔がいがらなあ!」
今や聞こえつつあった。声だけじゃない。どす、どす、という地響きめいた足音。それでもまだゆっくりと後退するに留める。相手がどんな存在であるかわからない以上は背を向けての逃走は危険。場合によっては応戦したほうがいい場合もある。サクヤはけして達人ではないが、地元の喧嘩で負けたことはない。ステゴロならまだ分が――
「どお~~~~~~~~~~~~~~~っじだあ!」
そして、声の主が丘の縁からゆっくりと姿を現した。もちろんクマではない。クマよりもずっと巨大な。まるでアドバルーンの巨大な人形が丘の向こうから姿を現したかのように、みるみるうちに膨れ上がるその影は、少なくとも人らしき形はしていた。が、そこまでだった。
「……は?」
少なくとも5メートル。あるいはもっとあるだろうかという巨大な二足歩行のそれが、ぎょろりと剥かれた一対の目でサクヤを見下ろしていた。全身と同じく青色の肩のところに、ちょこんと腰掛けた少女がなんともアンバランス。その少女が口を開くと、すきっ歯をむき出しにして巨人がニンマリと笑う。
「やっだあ~~~~~女の子だあ~~~~~~!」
その女の「ご」、サクヤはその時点で理解する。
これはダメだ。応戦なんて言ってる暇はない。逃げなきゃ死ぬ。
踵を返して全力で地を蹴る。そういえば靴を履いていない。素足のまま踏みしめた葉々が柔肌に細傷を残していくが気にしてる余裕はない。逃げろ逃げろと急かす本能の声に従い走る。
「ああ~~逃げぢゃだめだよお~~! 待っで~~!」
振り返らなくても追いかけてきているのがわかる。ドスドスという品のない足音。クマに相対しても跳ね上がらなかった心臓がバクバクと血を送る。だだっ広い草原だ。行けども行けども同じ光景が続くし、後ろからの足音は徐々に近づきつつあった。何とか逃げ込める場所は無いかと探すがすべては文字通り白日の下。
なんなのなんなのなんの!? なんでこんなことになってるの!? あいつなに!? 化け物!? 捕まったらどうなるの!? 肉が柔らかいって何!?
振り返って訪ねてみる気にはとてもなれない。どころか、サクヤの脳裏に嫌な考えがかすめる。
ひょっとしてコノハもこの世界に……? 臆病なあの子があの化け物に襲われたら……。
結果は考えるまでもない。
今はだめだ、今は考えるな。今は逃げ延びることだけ考えろ、考えろ、考え――
「あぁっ!?」
考えまいとすればするほど人の心を奪われていく。ましてコノハはサクヤにとってウィークポイント。恐怖に不安が重なり、パニックになった足が無残にもつれてずっこける。
草の匂いと鈍い痛み。地面に投げ出された全身へと直に伝わってくるドシドシという足音。
「あばあ追いづいだ! おいづいだ! あばばはあ! あばばばばはあ!」
慌てて身を起こそうとして、サクヤは見てしまう。自分を見下ろす巨人をもろに。だらだらと口元から零れ続けるよだれが地に落ちて跳ねる。
「い……」
頬についたそれを拭い取ると、気が飛びそうなほどの臭気がかおった。
ぞっと全身に鳥肌が立つのを堪えつつ、巨人の肩に乗った少女に助けを求める。プラチナブロンドの長い髪をゆらし、人形のようにうつろな表情の少女。よくよく見ると額にも目が開いていた。が、きっとタトゥーか何かだろうと気にしないことにする。
「ね、ねえ! この大きいのはあなたのお友達?」
反応なし。巨人が馬鹿にするように笑う。
「なんだあ、フリアエに話じでるのが? お前馬鹿だなあ。フリアエは魔女様の言うごどじが聞がないんだあ。あばばはあ! 俺より馬鹿だあ」
「あ、あんたは黙ってなさい! フリアエちゃんねえお願い!」
「うるざいなあ。フリアエ、どうずるんだあ? あ、俺が言っでも聞いでぐれないんだっだ」
少女はじっとサクヤを見つめている。瑠璃をはめ込んだかのような美しい、しかし生物らしからぬ瞳がわずかに細まりそして、
「見敵必殺。人間は全部――殺すの」
囁くような声。しかし確かにそう言った。
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