しめりけ
万年筆
序
ショートピースがはたりと、落ちた。
橙に明るさを放っている火と、黒色が混じった白とも青とも言い難い灰が散らばるのに意識が取られて、しばらく目を下に落としていた。それが指と指の間から落ちたことに気づくのには少しの沈黙があった。
その時の酩酊のせいか、オムレツを作ろうと不注意だったのか。あるいはその両方かそれ以上か、今となってはそれを知る方法もない。そのようなものはいくらでもある。少なくとも、浴びるように安い大量生産のブレンデッドスコッチをハイボールにして一人で酔いつぶれていた時のことであることには間違いはない。
乾いた唇を舌で拭い、唇からアルコール臭が放たれ、その湿りつつも乾いた悪習の香りが鼻孔へとスッと入っていくのを感じながら、三割ほど燃え、その冷めた灰が焦げ茶色の床にこぼれたのをしばらく見つめていた。「私が死ぬ時も、このようにタバコを落とすのだろう。大義のもとで殉死するのか、悪行を尽くしその罪のためについに殺される時か」そんな叶うはずのない未来に心を逃して、落とした煙草を3本の指で拾った。咥え口がアルコールと唾液によってやや湿り、刻み葉は横長の楕円に潰れて柔らかくなっていた。咥えると再び湿らせた唇に小さな葉の破片がくっついた。「どんな死に方をするのか」呆然と考えた夏の終わり頃であった。
その頃が初めてというわけでもない。本当に死を意識したのはその年の春一番の吹く前ごろか、衣替えを終えた頃だったはずだ。「夏までは生きようと思った」などと言葉を借りたのをよく記憶している。それが今の今まで生き永らえてしまった。これもまた心の弱さか。その前ごろから、また、日記をつけ始めていた。特に目的もなく、悪い習慣を断てられれば、という思いであった。そして、しばしば過去の記憶へと遡ることをしていた。後悔多き人生であったが、それらのどれも取り返すことはできない。それを悔いて自分に同情するようなことだけが理由ではなかったが、大きな理由もなく、ただ、漠然と、死を迎え入れるために、そうしていた。結婚式で思い出の写真を振り返るようなものであろう。そこまで考えて、こんなことをいつまで続けるのかと呆れて声を出して自分を嘲笑った。首に以前から作っていた縄をかけた。勢いよく床を蹴った。床には片付けられないままの灰が散らばったままだった。
一
彼はいたって健康な男だった。地方都市のはずれに育ち、その十代はにはスポーツに励み学業もそこそこの優良児だった。彼に影が落とされたのはその後だった。
思春期を迎えた頃から、これはどのような人間にもあることだろうが、彼はよく考えるようになった。正確には、悩み後悔するようになった。あのときああしていれば、という後悔の習慣が人一倍強かった。その指向によって、彼は自尊心を小さくしていった。数多の出来事や後悔が自分にとってなんであるのか、それをどう意味づけするのかといった第二次性徴期を迎えたばかりの時期特有ともいえる悩みが、彼の人生を呪い続けた。彼は大人になれず子供のままだったのだろうか。彼は人間であることを嫌い、そのような直線的な流れを嫌ったものの、人間の体を持つ以上そこから離れることはできなかった。仏教の教えを乞おうとか、いろいろなことを試しつつも結局人間であることからは離れられぬ……この憎い肉体から離れられない……そう考えているのもこの自分自身の肉体である……精神は肉体とは不可分である……彼は袋小路にあり、跳躍を選んだ。しかし彼の死を選んだのは悩みのためではなかった。
彼がこのようにして人間や肉体を嫌い始めたのは、古典的な心身二元論のためでも人嫌いのためでも悲観にくれたためでもない。彼ははじめから肉体を嫌ったのではない。彼が嫌ったのはしめりけだった。
彼は雨の日は嫌いではなかったが、肌がじっとりとするのを嫌った。梅雨の季節なんてものは最悪で、初めて東京の梅雨の洗礼を受けた時には常に部屋の湿度を下げようと四苦八苦を尽くした。幼い頃からその兆候はあった。海に行った際に、散々に塩水と戯れ身体中に幾千もの微生物がまとわりつく。その時は平気であっても、その後が耐えられなかった。足の指と指の間にひしめく無数の砂の粒。腰から大腿、ふくらはぎへと垂れる海水に、跳ねた砂が混じり泥となり乾くのを待たされる。そのような経験が永遠と彼の人生にピッタリとくっついていた。
肉体を持つからという理由だけで人嫌いになる、というわけではなかった。ある時までは恋人との接吻というものに嫌悪を覚えることもなかったし、肉体の美しさの極まり、最上の徳(いささか健全とは言い難い価値観であろうか)ともいえる身体中の筋肉をうねらせ引っ張ったあとに流す汗というものも愛していた。ではなぜか、ある日のことである。
彼が通りを歩いている時、女性がそばを通り過ぎた。女性が、女性に限ったことではないが、通り過ぎる時に残していく香りというものは、様々な感覚を引き起こしうる。通り過ぎる前から予測されうる厚い化粧の香り、雨に降られて額に髪が張り付いた人が残す整髪剤かシャンプーやリンスの香り、通り過ぎた後に思わず振り向く元恋人の香水の香り……。あるいは汗をシャツの中にこもらせながらもその上にやや厚めのジャケットを羽織った三十から四十ほどの男性の香りなど、挙げればいくらでも想像されよう。彼もその日はいつも通りのように、どのような香りがするのかと特に期待するわけでもなく、かといって全くに嗅覚を遮断するわけでもなく、ただ両方の足を互い違いに前へ後ろへと動かしていた。その時に、彼は新たな感覚を手に入れてしまった。ある女性が、通り過ぎた。その日、二十代の女性とすれ違ったのはそれが初めてだった。以前には全く感じたことのない臭さが鼻腔を刺激した。ものの臭さを表現する際に「鼻が曲がる」と言われるが、彼はそれが本当だと思った。なんて臭い女性なんだ、と笑い混じりで心に叫びながら同じように歩みを進めた。しかし他の女性とすれ違った時にも、その差こそあれ、同じ香りが脳を刺激した。あれが女性の匂いなのかと自室の寝床につきながら考えていた彼は半信半疑でその日を難なく終えた。そのようなことは信じたくもない彼の願いにも反して(女性にある種の幻想を抱いているわけではない。彼は女の多い血統の人間だ)、それ以来どの女性とすれ違うにも同じ匂いを感じた。彼は恐れながらも、恋人と別れた後であったことに心底安心した。同じ寝床につくと考えただけで、耐えられないほどの臭気が今度は本当に鼻を曲げるだろう。
その臭さは湿度の高い日に強くなった。かといって乾燥した晴れの日に匂いが減るとは限らず、汗の湿度によっても強くなることが判明して以来、これを避ける方法はないと諦めた。そのうち、男性に対しても似た嫌悪を覚えるようになっていった。人間は皆このような臭気を放っているのに、なぜこうも平気な顔をしていられるのか。彼にとっては、グローバル経済やら搾取の問題以上の急を要する世界的な問題であった。
彼は別に女性嫌いというわけでもなく、男性至上主義やその反動とに与したいわけではなかったが、その自身でさえも堪え難い臭気には、男性からも女性からも、離れる他に手段はなかった。程なくして、彼は性的不能者となった。
二
誰も気づかぬこの臭気、逃れるすべは孤独のみ。天罰なるや、仏罰なるや。
その始まりは誰ぞ知る、アダムとイブの頃からか。原罪なるや、人たる故か。
そのように半分可笑しく唄いながらも、彼はこの原因について頭を悩ませていた。
「臭いことは仕方がない、どうしようもないのだ。しかし、なぜここまでの匂いが放たれるのか。人は自分の匂いを感じないというが、私からも同じ匂いが放たれているのだろうか。間違いなくそうだろう。しかし何が原因なのか……」
様々な考えが彼の脳内を東奔西走、南船北馬と言わんばかりに縦横無尽して半月も経った頃、彼はとんでもない考えにたどり着いた。これは、いのちのにおいだ。なんという思い込み、なんという盲信であろうか。しかし妙に納得してしまった彼は、これでひと段落と日常へと戻っていった。もちろん、人を避けながらではあるが。
性機能が失われたことだし、元から友人も少ない人間であったから特に困ることはないだろうと日常をむしゃむしゃと食うように惰性で過ごしているうちに、事態は新たな局面へと移った。彼は、肉と魚が食べられなくなった。
彼は別に菜食主義者というわけでもなく、肉食をめぐる昨今の激しい討論に与したいわけではなかったが、彼の言う「いのちのにおい」に必要以上に意識してしまったがためについには食べられなくなってしまった。友人とラーメンを食べることが好きな彼にとっては、その誘いは地獄への片道切符のように感じられた。帰ってこれても鼻と脳だけは満身創痍であろうなどとおかしな言葉で、悩みを打ち明けた友人と笑っていた。しかしこの問題は、彼にとっては臭気の問題以上に逼迫していた。一人では生きられないとは言うが、臭気を我慢することはできる。しかし、好きな食事までも制限されては堪ったものではない。彼は日々の献立を見直した。魚と肉は卵に取って代わられた。
それでもなんとか人は生きていくことができるものである。そもそも日本人が肉食をするようになったのはここ百年程度の話だろう、菜食主義者だってゴマンといるのだ、なんの心配があろう。と彼は深刻さなぞ感じなかったがこの時期、「いのちのにおい」の呼称を改めざるを得ぬ事態がやってくる。これもまた、ある日のことである。
彼は弟と会っていた。半年ぶりの再会で、趣味の合う兄弟であったから、話は大いに弾んだ。(どうやら、身内だと匂いは少ないらしい)と思いながら、酒を飲みながら話していた二人だが、彼の弟が針を落とした途端に例の臭気に似た不快感が部屋を満たした。随分と酔っ払っていたせいか彼は嘔吐した。一通り酔い醒ましの儀式を終えて部屋に戻ったが同じ不快感はさらに増し、部屋そのものに嫌悪感を抱いた。
「しめりけだ」
即座に呟いた。考えがあったわけでもなく直観であった。気付けば、声帯を揺らし、歯の間、鼻、軟口蓋から言葉が抜けていった。弟はなんのことかと首を傾げながらビールを呷ったが、確固とした観念が彼に取り付いた。直接嗅覚に訴える人間や食べ物の「いのちのにおい」だけが私の嫌悪ではない。音楽や空気までもがその対象であるのは、その背後には共通してしめりけが佇んでいるのだ。その観念が今までのどんな判断基準をも蹴り落として彼の倫理に君臨してしまった。直後彼はビールを飲むことをやめた。何かが湿っているように感じられた。
それ以来、彼はしめりけからできるだけ遠ざかろうとあらゆることに力を入れた。米の水分の量を減らし、聴く音楽もどこか情けなさ、愚劣さのような弱者の感情が見え隠れするものを嫌った。醸造酒を飲めなくなり蒸留酒を飲むようになった。茶をやめ珈琲を飲むようになった。火こそはしめりけを消してくれると、煙草を吸うようになった。しめりけの啓蒙を受ける前のことを思い出してはいたが、その自身の姿にその嫌悪を覚えるので、そういった行為や習慣も控えるようになった。人への感覚をはじめ食事のみならずあらゆる感覚がすっかり変わったために、これをなにか啓示のような人知を超えたものとさえ感じ、悟りのようにも思っていた。霞を食って生きられると冗談半分に思っていた。しかし彼は、それにもそう思う自分にも吐き気を覚えつつ、人の温もりを恋しく思っていた。
三
しめりけが背後に立って現実世界のあらゆるものを操っているという観念に囚われ、彼の行動と感覚が翻った後、彼の人間嫌いが進行した。それは人間の感覚や思考のためにではなく、人間というモノのためにである。彼はこの日記に綴った
「人間がどんなに叡智を得ようとも所詮は生き物である。人間が動物であるとはよく言うが、だからこそ私は人間を嫌う。赤や黄色の肉、透明だったり赤だったりするあらゆる液体、大小様々の臓器が、薄い皮のみによって流出することを避けていられるのだ!針をひとつ刺しでもしたら、一瞬にして内蔵物があたり一面に吹き出しばらまかれてしまうのだ。なんと気持ち悪いことか。私はもう人間をかつてのようには見ることができない。肉と骨と皮、後は少しの臓器の集合体をいかにして愛せるというのか」
彼は友人を失くした。彼はもはや人間としての友人を愛することができなくなった。同じように自分の肉体にも嫌悪を覚えた。どんなに逃れようとも愚かにも生命維持を続ける自身の肉体が憎くて憎くてたまらなかった。自分がこのようなものとして生を受けたことを恨んだ。どうせなら裏に「作者:神」とでも書いて石にでもしてくれ、と願った。どんなに食を拒もうとも体は未だ動き続けている。感じる、憎き心臓が命を保つために全身に血液を送り出していることを!感じる、どんなに拒もうとも酸素が身体中をめぐり肺も細胞も呼吸を続けていることを!感じる、あらゆる機能の綜合が他ならぬ私の意志に反して私の肉体を維持どころか未だ拡大させようとしていることを!
程なくして彼は、卵を始めあらゆるものにしめりけからくる生臭さを感じて、拒食症を患った。
しかし飢えには耐えられぬものである。水こそ飲んでいたが、すぐに彼の体は不健康に陥り、精神も衰弱していった。吐き気を催しながらも暴食の限りを尽くすことが幾度かあった。何度目かの暴食と嘔吐の繰り返しに、ふと彼は生を諦めることを決めた。これ以上この私の肉体とは付き合っていられない。健全な魂は健全な肉体に宿ると言うが、私はこの魂のために肉体を追い詰めた。私は即身仏など望んじゃいない。などと様々の考えが栄養不足の脳内を駆け巡る。最後に酒でも飲もうかと、彼は宴の準備を始めた。一人での生前葬である。
最後に思い残すことは……とひとりごちて、すぐに過去の人間のことを思い出した。あの友情、愛情がとても恋しく思った。あの感覚を得なければ……いや、あの感覚を得てもなお以前のように暮らしていれば……。このような後悔は今に始まった事ではない。もはや満足に動くことすらできぬ彼の日課といえば過去を思い出すことであった。涙が彼の顔を濡らしていた。乾ききった心を最後は湿らせてやろうというように、肉体の働きによってか、精神の働きによってか。しばらく涙を流していたが、これではいけないと酒をいっきに呷って酔いが回り始めたのを確かめてから煙草に火を点けた。
彼は自室で首をつって死亡しているところを、悪臭を訴えた隣人の通報を受けた警察によって発見された。死後五日ほど経っていた。雨の続いた日であった。発見されたとき、体の組織は腐り始めていた。皮肉にも死体は身体の内蔵物によってか天候によってか水分の多い状態であった。彼の魂は肉体に敗北した。
しめりけ 万年筆 @mannenhitsu
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