判明した涙のワケ1
都内某所。37階建てのタワーマンション最上階。
前面に張り巡らされた窓からは、キラキラ輝く都内の夜景が一望出来る。
そんな煌びやかな世界とは対照的に、だだっ広い部屋には家具が一切なく、ソファーとガラスのテーブルのみ。物で溢れ返っている私の部屋とは大違いだ。
でも…生活感がまるでないこの部屋はなんだか落ち着かない。
「どうぞ」
緊張と居心地の悪さでソワソワしている私にコーヒーを差し出してくれている人物は、複雑そうな笑顔を浮かべている。目の腫れはすっかり引いたようだ。
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取り、私はまた夜景に視線を戻した。
ここは上川課長が住んでいるマンション。
なんで私が課長のマンションに居るのかと言うと、話は昼休みまで遡る――。
とりあえず土下座を止めさせて話を聞こうとしたんだけど、課長は午後から大事な商談があるって言うし、私も午前中で終わらなかった仕事が溜まっていたしで、その場はひとまず解散になった。(その時の課長はめっちゃ元気になっていた)
午後から凄く忙しくて、課長の『ペットになってくれ』発言も忘れかけていたんだけど、終業のチャイムが鳴った途端、お疲れさまもそこそこに課長に首根っこ掴まれてこのマンションに連れて来られた。
――で、今に至る訳なんだけど。
(……なんだけど、なんて切り出せば良いの!?)
横に立って夜景を眺めながらコーヒーを飲んでいる課長は、とてもじゃないけど部下に『ペットになって下さい』なんて発言をする様には見えない。やっぱり私の聞き間違いか何かじゃないのかと思えて来る。
グルグル考えていると、「中条?」と、いつの間にかソファーに腰を下ろしていた課長に呼ばれて振り向いた。
「は、はい!」
「そんな所に突っ立っていないで、こっちに座ったらどうだ?」
課長が自分の座っている横をポンポンと叩いた。
「あ、は、はい……」
促されるまま課長の横に座る。だからと言って何かを話す訳でもない。聞きにくいから課長から切り出してくれるのを待っているのに、課長も何にも言わないから二人で黙ってしまった。
静まり返った部屋に、秒針の音が妙に響く。
(ヤバい…めっちゃ緊張して来たんだけど!)
よくよく考えてみて、独身男性の部屋になんの躊躇もなく上がり込んだりして、少し軽率だっただろうか。
(いやでも、「男性」って言っても上司だし、仕事終わって断る間もなくここに連れて来られたし。変な事をされるって事は…ないよね!?)
瞬時に私の頭を過ったのは昼休みの課長。
『俺のペットになって下さい!』
課長の土下座は衝撃的過ぎて、多分一生忘れられないと思う。
(しかしペットって……)
そう思って、ハタと気が付いた。
ペットとはどう言う意味だろう?世間一般的に、人間に対して『ペット』などと言ったりしたらとてつもなくいかがわしく聞こえる。
もしかして、あーんな事(アハ~ン)や、こーんな事(ウフ~ン)されたり……?
(無理無理無理無理っ!)
私は頭に浮かんだエッチな想像を振り払う様に頭を振った。
(猫耳とか絶対無理っ!彼氏とだってそんなプレイした事ないのに、いきなりハードル高過ぎるって!!でもでも!本当にそんなお願いだったらどうしよう!?)
半ばパニック状態の私の前に、にゅっと課長の手が伸びて来た気配を感じて、咄嗟に叫んだ。
「わ~っ!せめて最初はメイドからにして下さいー!!」
身構えた私の頭上に落ちて来たのは、「……は?」と言う課長の気の抜けた声だった。
「……え?」
頭を押さえていた手をゆっくり下ろし、そーっと課長を見ると、顔を真っ赤にして必死で笑いを堪えていた。
「ごめん、違うんだ。くくっ……勘違い、ははっ」
笑ってる。課長がお腹を抱え、涙を流しながら笑っている。こんなに笑っている課長を見たのは久し振りで、なんだか私は少しうるっとしてしまった。
散々笑った課長は、「は~笑った」と言いながら目元をティッシュで押さえ、私に聞いて来た。
「この部屋。なーんにもなくて殺風景だとは思わないか?」
私は無言で頷く。それを見た課長は、今度は少し寂しそうに微笑んだ。
さっきまで大きな口を開けて笑っていたと言うのに、何がこんなに課長を悲しませているの?
(もしかして、別れた彼女の物がいっぱいあって、それを処分したらこんなになっちゃった、とか?あ、それか別れた彼女が家具を一切合切持って行ってしまった、とか?いやいやはたまた……)
色々考えを巡らせていた私は、
「だろ?でも本当はこの部屋、数か月前まで猫グッズで溢れ返っていたんだ」
と言う課長の言葉に、少々面食らってしまった。
「へ……?ね、猫?」
あ、もしかして、別れた彼女が無理やり連れて行った、とか?
「違う違う。そんなんじゃないって」
課長が苦笑いをしながら首を横に振っている。
「あ、え?」
あれ?私、口に出してた??
「俺の不調の原因、聞きたがっていただろ?あれ実は、『ペットロス』が原因なんだ」
「ペット、ロス?」
正しくは『ペットロス症候群』
『ペットロス症候群』とは、ペットとの死別、又は行方不明などが原因で精神や身体を病む、現代に増えつつある病気だ。
症状が酷くなると『うつ病』『不眠』『情緒不安定』『無気力』『食欲不振』などを発症し、結構大変な事態になる。確かに課長の症状を当てはめてみると、仕事中は上の空だったり、昼食も摂らないでぼーっと座ったままだったり、目の下にクマを作っていたり、以前よりも痩せたな、と感じたり、思い当たる節はかなりあった。
「病気で死んだんだ」
「えっ」
「叔母から譲り受けた猫でね。『ルイ』って言って、新雪みたいに真っ白でヤンチャで我が儘いっぱいの姫だったよ」
当時の事を思い出しているのか、課長の目尻は下がって本当に愛おしそうな顔をしている。でもそれも一瞬で、次の瞬間には眉間にシワを寄せうつむき加減にため息を吐いた。
「ルイがいなくなって、最初はちょっと食欲がなくなる程度だったんだ。そしたら今度は夜なかなか寝付けなくなって、睡眠不足で体は重いし頭は働かないしなんにもやる気が出ないし。なにか悪い病気かと思ったよ。……まぁ、病気だったんだけど」
ハハッと乾いた笑い声が、なんにもないこの部屋にやけに響いた。
「どの病院で診てもらっても健康状態は良好。血液検査も引っかからなかったし、レントゲンも撮ってもらったけどどこにも異常はない。俺は困り果てたね。そしたらある医者にこう聞かれたんだ。『最近周りで変わった事はないか。仕事で大きく失敗したとか、誰か大事な人が亡くなったとか』って。俺はハッとしたよ。ルイがいなくなった、って……」
言葉の最後の方は、課長の声が震えている。泣いているのかな?
私はそっと課長の肩に手を置こうとした。ら、課長が勢いよく立ち上がった為に私の手は弾かれてしまった。
「わっ!」
「でもそんな時!中条!君がいたんだっ!!」
課長は舞台さながら声を張り上げ、キラキラした目で私を見る。
「…………え?」
私は訳が分からず驚いた姿勢のまま固まった。課長は何をそんなにキラキラした目で私を見ているんだろう?『君がいたんだ』って、私は入社した時からいましたよ?
「あの、言っている意味がよく……」
首をかしげながら、苦笑いにもなっていないような笑顔を顔に張り付けなんとか笑う。
「その髪っ!」
「きゃっ!」
急に頭を掴まれ、ビックリして叫んだ。
「だから、なんなんですかさっきから!!」
頭に乗っている手を振り払い、キッ!と課長を睨んだ
課長は「やっぱり……」とかブツブツ言いながら自分の手を涙ぐんだ目で凝視して、体をプルプルと震わせている。
ちょっと気持ち悪い。
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