2021/05/09

「ありがとう、お母さん」

『お父さまやお母さまがいないなんて、寂しいこと言わないでよ。これからは決して、独りじゃないんだから』

 そう言った若かりし頃の君は、本当に幸せそうだった。




 ――母の日。

 幼い頃に捨てられ、母を知らなかった僕は、その日のことがあまり好きではなかった。

 街は「母」への贈り物で溢れていたけれど、僕が目を留めたのは、売れ残りのカーネーション。誰のためにもならなかった、行きどころの無い愛を具現化したようだった。

 どこかに愛があったからこそ生まれたはずなのに、捨てられて、行きどころを無くして。

 ……僕みたいだな、なんて思ってしまうから、つい売れ残りの花を一輪、買ってしまうのだけど。




 そんな母の日が変わったのは、君と出会ってからだった。




 君は僕の知らないものを、たくさん与えてくれた。

 優しい笑みにどきりとしたり。

 不満げな表情にちょっとだけ安心してしまったり。

 愛することはもちろん、恋さえも知らなかった僕は、何度も君を傷つけてしまったことだろう。

 けれど、君は僕を見捨てないでくれた。そして、ある日。

「ねえ。……私と、結婚してください」

 僕たちは恋人から、夫婦になった。


 君のご両親も、君にそっくりで優しい方だった。

 僕に親がいないと知ると、お二人はそっと、こう言ってくれたのだ。

『今日から、あなたはわたしたちの息子よ』

『もう、君は独りじゃないよ』

 自分の娘に向けるものと同じ愛情を込めた言葉に、つい。

 赤の他人であるはずの人の前で、僕は初めて、大声をあげて泣いた。




 それからというもの、母の日の意味がガラリと変わった。

「お母さん」「お義母かあさん」

「あらあら、まあ」

「いつもありがとう」「ありがとうございます」

 君と一緒に、君のお母さんのもとを訪ねて贈り物をすることは、なんだか、心が弾むことだった。

 恩をなにかで返したいというその気持ちも、その機会があるということも、大切な人へ贈る物を選ぶその時間も、なにもかもが愛おしくて。

 でも、やっぱり一日の終わりには、売れ残りのカーネーションを買ってしまう。

 誰にも求められないこと、いらないと捨てられてしまうであろうことが、より一層、寂しくて。

 ただ、買ってきた花を飾って君と眺めるその時間は、なんだか幸せだった。




 そんな楽しい母の日は、多分、今年で終わりだ。

 ――君が、いなくなったから。




 それは多分、誰のせいでもない悲しい事故だった。けれど、君が死んでしまったことだけは確かで。

 君との別れをうまく飲み込めないまま、迎えた母の日だった。

 君と一緒にプレゼントを選んでいるような気持ちになって、でも振り返っても、君はいなくて。

 君の死とともに、きっと君のご両親との縁も切れるから。今までのお礼に贈り物をして、これでさよならになる。

 そう、思っていた。




「……お義母かあさん」

「あらあら、まあ」

「今まで……ありがとうございました」

 そっと頭を下げた僕に、その人は「最後みたいなことを言うのね」と不思議そうに笑った。

「ありがとう、嬉しいわ。一人息子からの贈り物だもの」

 せっかくだからお茶でも、と誘われ、最後だからと頷いた。


「……ねえ」

 ことり、と目の前に緑茶を置きながら。

 そのひとは、そっと僕の目を覗き込む。

「縁が切れた、なんて思っていない?」

「……どうして」

「そんな雰囲気してるもの」

 ふふ、と笑いながら、そのひとは「でもね」と、語りかけるようにして、こう言った。

「覚えている? わたしが『あなたはわたしたちの息子』だと言ったこと」

「……はい」

「なにがあろうとね、その言葉を反故にするつもりはないのよ」


 はっとした。

 そのひとの言葉に、その笑みに込められた感情は、確かに今までとなんら変わりはなかったのだ。


「それにね、今更『あなたは息子じゃありません』なんて言ったら、あの子に怒られちゃうわ。『彼をひとりにしないで』って」


 隣にいるような気がする君に、心の中で問いかけてみた。

「僕にはもう、お義母さんもお義父さんもいないのかな」


『お父さまやお母さまがいないなんて、寂しいこと言わないでよ。これからは決して、独りじゃないんだから』


 すぐ返ってきた言葉は、かつての君が口にした言葉で。

 ――ああ、そうか。最初から、分かっていたんだ。

 このひとは、決して僕を捨てたりはしないと。




「ありがとう、お母さん」




 今日、僕は初めて、売れ残りのカーネーションを手に取らなかった。

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