第2話 盲目の獣人


 西暦二〇〇〇年 六月

 大日本帝国

 北海道 北見市


 北見駅から徒歩七分、北見市北三条西三丁目の市街地に位置する北見リアソンホテルは現在、外壁の改装工事中だった。

 業者が組んだ足場が東方面にある正面玄関側の壁に、客室の窓を塞ぐようにして設置されていた。足場には安全設備兼飛散防止用の白いシートが被せられ、改装工事が終わるまでの数日間、北見リアソンホテルは宿泊客に日当たりの悪さと日中の騒音について了承を得なければならなかった。そのため、工事期間中の宿泊料については割引を余儀なくされた。

 その日は朝から雨が降り続け、翌日まで晴れない予報だった。陽が沈むにつれて雨足は強まり、工事の業者はいつもよりも早くに撤退した。業者は現場に置いていく道具が濡れないようブルーシートをかけ、濡らせない道具については車に積み込まなくてはならなかったので、作業時間は三十分以上短縮する羽目になった。

 午後六時、雨雲に閉じられた空は暗く、雨に濡れた足場のシートは特有の不気味な佇まいで、時折風に揺らめいていた。外食から戻って来た宿泊客がエントランスに入る際、子供がシートをくぐって足場の階段を登ろうとし、母親に厳しく窘められた。我が子の手を引きシートから顔を出した母親は、この工事を請け負っている作業者に見咎められていないことを確かめ、ささやかな安堵の顔を浮かべてからもう一度子供に注意をし、夫とともにホテルに入って行った。

 それから十分後、北見アリソンホテルの正面に一台のバンが停まった。助手席から降りた黒人の男は、『信ずる者を救う会』の構成員、ジゼフだった。ジゼフは左右の歩道を見て、怪しい影がないことをさっと確認した。後ろ手に、彼はバンの方に合図した。

 後部ドアが開き、日本人の構成員と、それに続いて雲田刀子とイリスが降りた。雲田とイリスは深くフードを被り、雨というよりも人目から逃れるようにして、足早にエントランスに入った。その際、雲田は道路の左の方をちらっと見て行った。

『信ずる者を救う会』の首領カルロス・ベルサーニは全国指名手配されており、顔が一般人にも知られていたがその他の構成員は顔が割れている者はほとんど居なかった。雲田も釧路基地に囚われた際に顔の写真を撮られていたが、ひと月が経過した現在、雲田の顔はまだメディアに公表されていなかった。それでも念のため、雲田は極力人の目を避けた。もちろん、イリスにもそうさせた。

 チェックインはジゼフが済ませた。彼は顔のトライバルを化粧で隠していた。やたらと日本語が流暢な彼を、受付のホテルマンは教師か何かだと思っただろう。同伴する『信ずる者を救う会』の構成員は山賀という日本人だった。彼は元日本兵で、除隊後に『信ずる者を救う会』の一員となった男だった。

『信ずる者を救う会』には女性が居ない。だからといって男複数人と少女二人では不自然なので、山賀は女装していた。もともと細身で、かつらを被った姿は遠目に見れば男には見えなかった。声を発しさえしなければ、まず疑われることはない。

 チェックインは滞りなく済んだ。雲田たちはエレベーターを用い、部屋に向かった。

 同じ頃、人目を避けなくてはならないカルロスは、工事用の足場から目当ての階まで上がっていた。予め仲間が待機していた部屋のドアから、カルロスはホテルに身を潜めた。



 北見リアソンホテルから南南西に300メートルと離れていない、十階建ての賃貸アパートシーランドパレスの屋上から、ピーターは雲田たちがホテルに入って行く様子を捉えていた。

 ピーターは黒いカッパを着込み、双眼鏡を覗いていた。片膝を突く彼の足下には、いつでも使用できる状態のバレットM82がブルーシートに隠して置いてあった。雨も相まって凍えるような風の冷たさに首を縮こませながら、彼は獲物を待ち伏せるような眼差しで、いずれそこを訪れるとわかっていたジゼフたちを待っていた。

 最初に姿を現した黒人の男、あれがおそらくジゼフと呼ばれる『信ずる者を救う会』のナンバー2だろう。当然、カルロスの姿は無かった。彼らが乗っていたバンが去った後、通行人がさりげなく足場のシートの中に入って行くのが見えた。あまりに風景に溶け込むように動いていたので、ピーターでさえ見逃しそうになってしまった。あれはきっとカルロスに違いない。

 なんてことない監視のさなか、ピーターは一瞬だけ焦った。ジゼフの後に車から出て来た少女——獣人を釧路基地の日本兵から奪い去ったという正体不明の少女だろう——が、こちらを見たような気がしたのだ。

 馬鹿な、ありえない。偶然だろう。ここまで200メートル以上離れているし、ピーターは目立つような格好で監視などしていない。視線を感じた? そんなスピリチュアルなことがあるものか。

 しかし何故か、理性ではわかっていても、ピーターの本能は直感的な気味の悪さを覚えたのだった。寒気がしたのは、この雨のせいなのか、それともあの少女がこちらを見たからなのか。

 ピーターは喉の振動から直接音声をキャッチする咽喉マイクを用い、無線に言った。

「こちらドッグ1。ラビット1、ターゲットの到着を確認した。どうぞ」

 彼の上官である女の声が応じた。

「了解。監視を続けてドッグ1。もう少し待機よ」

「了解」

 通信を切ると、ピーターは辟易とするようにため息を吐いた。これから夜になると、気温はさらに下がるだろう。雨も次第に強くなるという予報だ。

「ファック」

 とんだ貧乏くじだな、と彼は愚痴った。



      ♢



 午後九時を回った頃、雲田たちは五階の503号室から、六階の605号室に向かった。これくらい遅い時間になると、ホテル内の人通りは少なかった。廊下では誰とも会わなかった。

 ジゼフが事前に取り決めたリズムで、605号室のドアをノックした。雲田はコートの中に忍ばせたブローニングハイパワーから手を離さなかった。室内に居る仲間が覗き窓からジゼフの顔を確認し、ドアを開けた。

 雲田とイリスとジゼフ、そして山賀が部屋に入った。入れ替わりに、白人の仲間が廊下に出て、人を待つふりをして見張りをした。

「ご苦労、ジゼフ」

 雲田たちが借りたのと同じ間取りの部屋には、カルロスと『信ずる者を救う会』の戦士が二人、日本人が二人、若い女性が一人居た。女性はベッドに腰かけ、男たちはそれぞれ椅子に座ったり、窓際に立って外を警戒したりしていた。カルロスは女性の正面に座っていた。

「そっちの二人は『獣兵解放軍』だな?」

 雲田は日本人二人を見て言った。雲田はイリスを窓から離した狙撃されにくい場所に座らせ、その隣に立った。

「私はフクロウだ。他の者から聞いているな?」

「聞いています」いかにも一般人といった風貌の、中年の男が答えた。「釧路では我々の同志がご迷惑をかけました」

 雲田はかぶりを振った。「仕方ないさ。レオたちに落ち度は無かった」と言えば嘘になるが、無駄な嘘ではなかった。「彼らを救えなかったのは私の責任だ」

 もう一人、若い男がイリスに視線をやって尋ねた。

「その子がイリスですか?」

「そうだ」

 雲田はベッドに座る若い女性に目を移した。黒い長髪を後ろで一本に束ねたその女性は、瞼を伏せてじっとしていた。雲田の視線を察し、カルロスが代わりに彼女を紹介した。

「フクロウ、彼女がリリアだ。札幌獣兵研究所からイリスとともに脱出した、獣人の一人だ」

 するとリリアと呼ばれた女がふと顔を上げて、室内をきょろきょろした。

「イリス? イリスが居るの?」彼女は言った。

 イリスが顔色を窺うように雲田を見た。雲田は無言で頷き、承諾した。イリスは椅子から立つと、リリアの前まで行った。

「わたしを知ってるの?」

 イリスが目の前に立つと、リリアは顔をイリスに向けて止まった。にっこりして、リリアはイリスに手を伸ばした。虚空を彷徨っていた手は、程なくしてイリスの手を探り当てた。

「シンシアから聞いていたの、あなたの話を」

 優しく微笑むリリアの両目は、決して開くことはなかった。イリスは程なく、リリアに視力が無いことを理解した。

 リリアはイリスの肩や頭に触れて、慈しむように優しい笑みを浮かべた。

「思ったより小さいんだね、イリス」リリアはイリスの胸に耳を当て、抱きしめた。「でも、鼓動はとても強い」

 中年の『獣兵解放軍』兵士に近づき、雲田は小声で訊いた。

「イリスは彼女と面識が無いのか?」

「研究所から逃れた後、すぐに夕張で別れてしまったので……脱出後も、獣人は皆行動を共にしていたわけではないんです」

「……なるほど」

 イリスが今まで出会ってきた人間とは、限られた研究員のみだった。おそらく、イリスは初めて同じ境遇にある獣人と対面していた。

 雲田が歩み寄ると、足音を頼りにリリアが振り向いた。リリアには獣人らしき外見的特徴はほとんど見受けられなかった。しかし口を開くと、まるでイラストで描かれるヴァンパイアのように、犬歯が鋭く長かった。

「あなたは?」リリアは言った。

「私はフクロウだ」

 雲田はリリアが伸ばした手を取った。リリアはその人となりを調べるように、雲田の手をさすった。リリアは雲田の手のひらに、自分を研究所から連れ出した『獣兵解放軍』の者たちの手と同じ感触を覚えた。その男どもより遥かに華奢な手が、銃器を握る手であることをリリアは悟ったのだった。

「そう」リリアは雲田の手を両手で握った。「イリスを、護っていてくれたのね」

「……」

 リリアはコウモリ型獣人兵だった。見た目にはほとんどわからないが、彼女の肉体にはコウモリの遺伝子が含まれている。彼女のコウモリの遺伝子は、イリスのように表面にではなく、器官の構造に現れていた。

 彼女は人並外れて発達した聴覚と、超音波を発する発声器官を有していた。洞窟の中などの暗闇で過ごすコウモリが行うエコーロケーションを、リリアは完全に再現することができた。

 目こそ見えていないものの、彼女は自ら発した超音波の反響を鋭敏な聴覚で感じ取り、室内の様子を完璧に掌握していた。人の数から、それぞれの背丈、壁や床の材質まで彼女は視力に頼らずして正確に言い当てることができたのだ。

 雲田はもう一方の手をリリアの手に置き、握り返した。

「君こそ無事で何より」

 リリアの固く閉ざされた瞼を、雲田は注視した。彼女の目は、エコーロケーションの精度を上げる実験のために潰されていたのだ。『獣兵解放軍』に協力した獣兵研究員のシンシア・コヴァルチックは、解放する獣人たちのことを詳しく彼らに伝えていた。雲田もイリスを含めて、個々の獣人の詳細は把握していた。リリアは今年で二十歳になる。彼女が光を奪われたのは、十二歳の時だった。イリスと同じ年の頃だ。

「少し話がしたいな」

 リリアはカルロスを振り仰ぎ、他の者たちにも同意を求めるように見えない目を向けた。

「隣の部屋に行ってもいい? イリスたちと」

 リリアを匿っていた『獣兵解放軍』の二人と、護衛を務めていた『信ずる者を救う会』の戦士がこのホテルにチェックインしたのはつい二日前だった。雲田たちは互いに潜伏場所を変えて日本軍の追跡を逃れながら、一か月かけてこの場所に合流したのだ。その際、彼らは部屋を二つ借りていた。雲田とジゼフも、五階に部屋を二つ借りている。

「難しい話をこれからするんでしょう? 私たちが聞いていても難しくてわからないから、終わるまでお話していたいんだけど」

 雲田はカルロスとジゼフと、視線を交わした。カルロスたちは今後のプランを話し合わなければならなかったが、そこに雲田も混ざりたかった。が、雲田はイリスから離れるわけにはいかなかった。暫し逡巡し、カルロスが雲田に提案した。

「君には後で伝えるよ、フクロウ」

 雲田も妥協するしかなかった。「わかった。そっちは任せる」

 立ち上がりかけるリリアを、カルロスが制した。

「私たちが移動するよ。君たちには、できるだけ人目について欲しくないからね」

 リリアは微笑んで礼を言った。「ありがとう、カルロス」

 男たちは腰を上げ、出口に向かった。山賀だけは護衛のために残るようだった。

 イリスがリリアの隣に座る。リリアに促されて、少し迷ってから雲田も隣に座った。

 ジゼフは廊下で見張りをする仲間に、ドアをノックして出ることを報せた。彼らは隣室へ移った。

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