骨壺のはなし

koto

骨壺のはなし

 その袋は、何気ない忘れ物のように置かれていた。

 普段なら人の置き忘れたものになんて興味を示さないのに、その時だけは妙に気を引かれて近づいてしまったのが運の尽き。

 わたしは、「それ」を拾った。


「うそでしょ、また声が出なかった」

 一昨日は駅、昨日は交番、今日は警察署。

「他の人の忘れ物を間違えて持って帰ってしまいました。どうしたらいいでしょうか」

 そう届け出るはずだったのに、駅の窓口の傍まで行くと何故か足が止まり、声が出なくなる。警察には近づくことすらできなかった。

 人のものを勝手に持って帰ろうとした罪悪感からそんなことになったのだろうか。不安が募って動けなくなったのだろうか。それとも。

「祟り? まさかね」

 口にしてこみ上げる不安を払いのけようとしたけれど、余計に恐怖と不安は募るばかりだった。

 なぜならわたしが今手にしている紙袋の中身は、誰のものとも知れない骨壺だったのだから。


 平日の昼下がり。首都圏から近郊へ向けて走るその電車の中は、終点が近いためなのか人の姿がまばらだった。わたしの乗った車両には、わたしの他には一組の男女と高齢の女性一人だけしかおらず、うららかな日和に相応しいのどかな時間が流れていた。電車のリズミカルな振動が眠気を誘う。

 うとうとしていたわたしは車内アナウンスで目を覚ました。

(ちょっと疲れた。結構な遠出だったな)

 久々に都心まで出て、高校時代の友人と会った。午後から仕事だというので彼女とは昼食を一緒に食べて別れたが、会わなかった時間を感じさせないほどの楽しいやりとりに名残が尽きなかった。

 車窓の景色が見慣れたものに変わった。降車駅が近い。

 立ち上がって扉のほうへ行こうとして、ふと網棚を見たわたしは「それ」に気づいた。

 自分のいた席から1mほど離れたところに、都心の老舗デパートの紙袋がひとつ。真新しい「それ」はそこそこ大きい。二枚重ねになっていて、重いものを入れられるように気遣いがされているようだ。

 誰かの忘れ物だろうか。今日買ったばかりの良いものを忘れていくなんてもったいない。

 生きるので精いっぱいの暮らしの中、都心まで出る交通費と食事代を捻出した今月は、ちょっと食事を控え目にしなければならないだろうかと考えていた。そのわたしの目の前にはデパートの新しい紙袋。周囲には誰もいない。他の乗客は自分のいるところからは随分遠かった。

(自分のもののふりをして、もっていっちゃおうかな。要らない物ならどっかに捨てればいいし)

 今考えると全力で自分を止めたいが、そんなことがかなうはずもなく、魔がさしたとしか言いようのない衝動に駆られてわたしはその袋に手を伸ばした。周囲にそれとなく目を配りつつ、ずっしりと重い紙袋を手に取ると、ちょうど電車がホームに滑り込むところだった。紙袋の中身は結構大きな箱のような感じがした。安っぽい化繊の風呂敷のようなもので包んである。

(果物かな、それともお菓子? 食べて大丈夫かな?)

 罪悪感と期待感でおぼつかない足取りのまま、わたしは駅を出て家路を急いだ。誰も追ってこないことに心から安堵しながら。


 意味もなく周囲を見回してからアパートの扉を開けて即座に閉める。狭い部屋に荷物を持ち込むと、着替えもそこそこに紙袋を開けることにした。

 出てきたのは紫の風呂敷包み。ずっしりと重く、円筒形のものを包んであるようだった。

「何だろ、陶器?」

 だとしたら期待はずれだ。さっさとごみの回収日に捨ててしまおう。でも分別のためにも一応確認はしておきたい。仕方なく包みを解くと見慣れない円筒形の器が出てきた。上に蓋が載っていて、模様も何もない青白い簡素な器だったが、横に何かを削ったような跡があった。

「文字……? 書いたものを削ったのかな?」

 だとしたらこれは買ったものではない。ますます期待外れだが、開けるだけ開けてみようと蓋を手に取って持ち上げた瞬間、悲鳴が勝手に漏れた。どう見ても人の頭蓋骨らしきものが収まっていたからだ。

 蓋を取り落としそうになった瞬間、壁が大きく叩かれる。どうやら隣人に聞こえてしまったらしい。

 震えながらかみ合わない歯を食いしばって悲鳴をこらえる。幸いなことに、骨、という単語はショックのあまりに出せなかった。壁の薄い部屋のことだ、隣人に即通報されてしまいかねないことを考えると、不幸中の幸いと言えた。

「うそでしょ。これ、骨壺なの?」

 初めて見た骨壺は、縁もゆかりもない誰かのものだった。


 そこからのわたしは必死だった。震える手で蓋を閉め風呂敷で包み直し、紙袋に元通り収めると、駅まで駆け戻った。間違えて持ってきてしまったと言って届けるつもりだった。

 なのに、駅が近づくにつれて足が動かなくなる。泥の中を泳いでいるような、ねっとりした抵抗が一歩ごとに強くなり、結局窓口までたどり着くことができなかった。

 あまりのことに助けを求めたくて口を開けたが、吐息だけがひゅうひゅうと漏れるばかりで、声にならない。好奇の視線を受けながら駅のコンコースに立ち尽くした後、結局引き返す羽目になった。

 半ば予想していたが、駅から一歩遠ざかるごとに足が軽くなる。それならと引き返そうとするとまたねっとりとした何かに絡めとられる。どうやらわたしが駅の窓口に辿り着くのを何かが妨害しているようだった。


 一晩寝れば落ち着くだろうかと、骨壺を玄関に置いて目に入らないようにして眠った。疲れていたからか、こんなことがあったというのに気絶するように眠ったので目覚めは悪くなかったが、朝から骨壺の入った袋を見かけただけで気分が悪くなる。仕方なく朝一番で駅へ向かった。

 しかし相変わらず駅に近づくことが難しい。窓口は視線の先にあるのに、そこまでたどり着くことができないのが歯がゆかった。

 ならば、と今度は交番へと向かった。公園で見つけた落とし物だと言って届けるつもりだった。しかしここでも同じことが起きた。交番に近づくこともままならないまま引き返す羽目になったのだ。

 朝一番で出たとはいえ、出勤の時間が迫っていた。

 仕方なくコインロッカーに置いて行ってしまえと試せば扉を開けることもできず、公園に寄って本当に落とし物にしてしまえと物陰に置くことを試みても、今度は手から袋が離れない。進退窮まってしまい、仕方なく家に戻って骨壺を置き、仕事に向かった。

 駅に向かうことができないと仕事にも行けない。どうしたものかと不安だったが、今度はあっさり駅の構内へ入ることができた。それどころか何も抵抗を感じない。

(これは、心理的なものなのかな)

 気持ちの悪い現象を、こころのせいだと決めつけて、わたしはその日の仕事を必死でこなした。


 とうとう今日になって、わたしは警察署へ行こうとした。こころのせいだというなら、罪を自白して捕まってしまえと覚悟を決めたのだ。もうどうにでもなれ、と自棄になったともいう。

 結果はお察しの通りだった。警察署に近づくことも声を出すこともできないまま引き返したのだ。へとへとに疲れながらも考え得るすべての手段を試みたが結局徒労に終わった。


 恐怖と不安におびやかされながら、わたしは仕事を終えて骨壺の待つ部屋へと戻った。夜8時、意外と早く帰れてほっとしたのに、帰った先にあるのは骨壺。少しも気が休まらない。

 簡素な食事をとり、水を飲んで布団に横たわろうとしたとき、スマホに着信があった。見覚えのない市外局番に、首を傾げながら応答する。

「え、母が……?」

 遠い場所に置いてきたはずの、母親が危篤だという、病院からの知らせだった。


 結局火葬だけして、葬式らしいものはせずに帰ってきた。母一人子一人、親戚らしい親戚もいない。墓もない。借りていた部屋の解約手続きやら公的な手配を終えると忌引きの日数を使い切っていた。明日からは仕事だ。

 自分の部屋のある街へと帰る途中、網棚に荷物を載せていた。母の骨壺もそこにあった。抱える気になれなくて、いっそ電車の振動で揺れておちてバラバラになってしまえとばかりに置いたが、結局最寄り駅までそんなことにはならなかった。

(ああそうか。きっとわたしみたいにどうしようもなくなって、骨壺を置き去りにしたんだな)

 今更ながらに思い至る。納める墓のない者にとって、遺骨は悩みの種なのだろう。実際今自分もそうだ。だから周到に、骨壺に書かれた氏名を削って、埋葬許可証も取り除いて、骨壺だけ包んで置き去りにしたのだろう、と。

(参ったな)

 ひどく重い荷物を抱えて、自室へと戻る。足取りが重くても戻らなければならない。明日は仕事だ、少しでも休まねばならない。

 わたしの部屋にある骨壺は、ふたつになった。


 週末、わたしは骨壺と部屋で過ごすのが辛くなって部屋を出た。

 あてどなくさ迷い歩く。

(なんだちゃんと歩けるじゃない)などと思いながらぼんやりと足を動かしていると、緑の深い一角に出た。公園なら一休みしたいと思って近づくと、そこは小さなお寺だった。清潔な、清浄というのだろうか、薄暗い印象とは無縁の佇まいに惹かれて、なんとなく境内へと踏み入る。

 優しい花の香り、深い緑。石畳を踏みしめて本堂らしき建物へと近づくと、法衣姿の男性が雑巾を片手に出てきた。会釈するとにこやかに声をかけてくる。

「こんにちは、お参りですか? 今お清めが終わったところですので良かったらどうぞ」

 このお寺のご住職だろうか、目じりの笑いじわのせいで人懐っこく見える壮年の男性の雰囲気にほっとして、不思議と今まで出づらかった声が出た。

「あの、すみません、骨壺のことで困っていて」

 男性は、目を丸くした。


 男性はやはりご住職だった。立ち話もなんですから、と庫裏に案内してくださり、手づからお茶をいれてくださった。

「そうですか……そんなことが。お辛かったですね」

 自分の犯した罪を含めて正直に吐き出すと、静かにご住職は頷いてくれた。責めることもなく、ただ聞いてくれることがどんなにありがたいのか、その時改めて実感した。

「母はわたしを育てることを放棄しましたから、母の墓を持つ気はありません。今後一切母と呼ぶ気もなかったんです。でも連絡が来てしまった。行きたくないのに行ってしまった。結果、骨壺が増えました」

「では、二つの骨壺とずっと暮らしますか?」

 冗談ではなかった。精神がすり減って息苦しくて、無理だと思った。

「嫌です。そんなことになるくらいなら、わたしももう骨壺の中に納まってしまって、何も見たくないくらいです」

 ご住職はわたしをしばらく見つめ、何事か考えていたが

「とりあえず、そのお骨をこちらに持ってこられそうなら持っていらっしゃい」

 そういってくださった。

「それからのことは、改めて話しましょう」


 次の週末、わたしはふたつの骨壺を抱えて例のお寺へと足を運んだ。

 ……そう、あの骨壺を持っていたのに、今回は目的地へと来ることができたのだ。

 ご住職はわたしを迎え入れ「お二方分は重かったでしょう」と労ってくれた。

「さて、ではご相談なのですが」

 彼はおもむろにそう言って一つ目の骨壺を掌で示し

「ここに、身元不明の骨壺があります。どうやら、寺に置き忘れた方がいらっしゃるようです。貴方はそれを見つけて届けてくださいました。これから警察に遺失物として届けようと思います。それでよろしいですかね?」

 意外な申し出だった。

「え……あの、わたしを警察に突き出さないんですか?」

 ご住職は笑いじわを深くして

「届け物をしに来たかたをそんな風に扱ったら仏罰が当たります」

 視界が滲むのが判った。穏やかな優しさと寛容、配慮が身に染みた。

「…………有難うございます」

「場所が場所ですし、御縁ということで、半年後にはこちらで供養することになろうかと思います。異存はありませんか」

 わたしは大きく頷いた。

「それとですね、もう一つのご縁のお話もいたしましょう。こちらの寺では永代供養を受けつけておりまして。お参りに来ることができない方や、家の絶えた方のご供養の手配もしております。あなたのご縁者のことも、そういったご相談に乗れるかと思うのですがいかがでしょうか」

 ご住職はあのひとのことを「母」と呼ばなかった。それだけで救われた心地がした。

「そうですね、縁者、のことは……頑張ってお支払いしますので。お任せしてよろしいでしょうか」


 その後いくつかの話をして、わたしは寺を後にした。本来ならば四十九日を過ぎるまで手元でお祀りするべきではありますが、と言い添えたうえでご住職は母の遺骨も引き取ってくれた。

「悪縁も縁です。でもこうしてあなたとお会いできたのもご縁ですから、これからも遠慮なくお越しください」

 こうして、わたしは遺骨に翻弄された日々を終えることができたのだった。


 半年ほど後、ご住職から身元不明の遺骨が警察から戻ってきたのでご供養のうえ合祀すると連絡があり、わたしはお寺へと足を運んだ。紅葉の美しい時期で、お寺は相変わらず厳かながら優しく清浄な雰囲気に包まれていた。

「結局遺失物の預かり期限切れとして処理されましたが、これで良かったと思いますよ」

「はい、その節は本当にありがとうございました」

 犯罪者にならずに済んだし、母の遺骨も引き取ってもらえた。永代供養の費用も思ったより安く、わたしの稼ぎでも数か月かけて何とか払うことができた。

「それにしてもね……」

 ご住職は笑いじわを深くして、わたしを見つめた。

「この方とのご縁は、もともと深かったんじゃないかと思いますよ」

 その言葉の意味がなんとなく分かったのは、その夜の事だった。


 部屋で早々に眠りについた私は、夢を見た。懐かしい人の夢だった。

 母から育児放棄されていたころ、食事も満足に摂れずにいた私を何かと気にかけて食べ物をくれる人がいた。その人の名前も覚えていないというのに、夢に出てきたのは彼女だと、すぐに分かった。

 彼女は引っ越してしまったが、引っ越しの日も振り返り振り返り、自分に手を振ってくれた。

「おばさん?どうして……」

 小さい頃のように彼女を呼ぶと、おばさんは困ったように笑って答えた。

「会いたかったわ。お母さんとの縁を切ってあげたかったけどどうしていいかわからなくて。気がかりだったのよ……気づいたらここにいた。迷惑をかけてしまってごめんね。そしてありがとう」

「え、何のこと?」

「お母さんは連れて行くから、安心してね。それじゃあ、本当にありがとう」


 名前も覚えていない。連絡先なんてもとよりわからない。

 それでもあの手のあたたかさは忘れたことがなかった。握られた手を離したくなかった。離れたくなかった。

「おばさん……」

 それが、ただの夢であっても。

 結んだえにしの先、すこしだけその恩を返すことができたのかもしれない、そう思って泣いた。

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骨壺のはなし koto @ktosawa

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