第88話 デート③

 猫はいい。

 大昔から猫と人間は共存してきた。古代エジプトでは、猫は神の遣いとされていたほどである。

 現代日本においても、猫だらけの島があり、そこには観光客が絶えないということから猫が愛されていることがよく分かる。

 人間は長い間、猫を愛でてきた。


 何故か?


 その答えは実にシンプルだ。


 ――可愛いから。


***


 個室の中にあるソファーに腰かけつつ、俺はイリス様の頭を撫でていた。


「……うぅ。恥ずかしい……」


 顔を真っ赤にしながらも、イリス様は俺の膝の上で大人しくしている。


 可愛い。

 こんなことがあってもいいのだろうか?

 あまりの幸せに死んでしまいそうだ。


「お客様。是非是非、キャンディーを!!」


 傍にいた店員が、興奮した様子でキャンディーをイリス様に咥えさせるように勧めてくる。


 そういえばイリス様は甘いものが好きだったし、丁度いいかもしれない。そう思いながら、キャンディーを取り出す。


「イ、イリス様! 良かったら、これどうぞ!」


 俺の膝の上に乗っていたイリス様を隣に移動させて、イリス様の口元にキャンディーを差し出す。

 イリス様はキャンディーと俺の顔を交互に見た後、意を決した表情で目の前のキャンディーを咥えた。


「んっ……美味しい……にゃん」


 あ……。

 ダメだこれ。

 このままでは、俺の理性が保たないと思い、咄嗟にキャンディーをイリス様の口から抜く。


「……あ」


 口からキャンディーが抜かれた瞬間に、寂しそうに指を唇に当てるイリス様。


「こ、こっちで遊びましょう!」


 イリス様の表情にほんの少し罪悪感を感じるが、直ぐに切り替えて猫じゃらしを取り出す。

 そして、それでイリス様と戯れようとしたその時だった。


「な、なによこれ……!」


 突然、ソファからベルトのようなものが飛び出て、イリス様の身体を拘束する。


「は、放して……!」


 イリス様が身体を動かそうとするが、イリス様の拘束は一切解ける気配が無かった。


「ふふふ。お客様、今の彼女は無防備。何をしても抵抗は出来ませんよ?」


 俺の耳元で囁くのは、さっきまで影を薄くしていた女店員だった。


「ま、まさかお前がこれを!?」


「その通り。さあ、猫じゃらしで彼女の首や二の腕、足を存分にくすぐってあげてください。そうすれば、彼女はきっとくすぐったさに耐え切れず、素敵な表情を見してくれますよ!」


 ニタニタと笑いながら女店員が俺の手に猫じゃらしを握らせる。


 この猫じゃらしでイリス様の綺麗な肌をくすぐる。想像するだけで楽しいことに違いは無い。

 きっとイリス様は艶やかな声を出しながら、良い表情を見せてくれるだろう。

 そんなイリス様を、俺は、俺は――。


 イリス様に少し詰め寄り、猫じゃらしをイリス様の首に当てる。


「……ひゃう」


 イリス様の口から可愛らしい悲鳴が漏れる。


「ああああ!! そうです! そのまま己の本能に身を任せるのです! そうすれば、素晴らしい世界が待っていますよぉ!」


 耳元で女店員が叫ぶ。


 そ、そうだ。これは、イリス様の可愛らしい一面を見るため。

 新たな世界の開拓のためにはいつだって犠牲が必要なんだ……。


 生唾を飲み込み、震える手でイリス様の首元の猫じゃらしを動かそうとしたその時だった。


「……いや」


 その声が聞こえた瞬間に、俺の中で消えかけていた大切な思いが蘇る。


 ――ああ、そうだ。イリス様が嫌がることをしてまで、俺は自らの欲望を満たそうとは思わない!!


「な、何をしているんですか! 理想郷はもう目の前ですよ!」


 猫じゃらしから手を放した俺を見て、女店員が動揺を露わにする。


「気付いたんだ。俺にとって一番大事なことに」


「な……!? まさか、この状況下でもあなたは己の信念を貫くことが出来たと言うのですか!?」


 女店員の言葉に静かに頷く。

 それを見た女店員は悔しそうに歯ぎしりをしてから、落ちていた猫じゃらしを拾う。


「……もういいです。なら、私が直接手を下すだけ!」


「くっ! させるか――な、なに!?」


 女店員を止めようとするが、ソファから現れたベルトのようなもので俺の身体が拘束される。


「ふふふ。この部屋に入った時点で貴方たちは私の手のひらの上だったんですよ。さあ、そこで可愛い彼女がくすぐられて恥ずかしがる様子をしかとその目に焼き付けなさい!!」


「や、やめろおおおお!!」


「やめない!!」


 女店員の猫じゃらしがイリス様の素肌に近づいて行く。

 もうダメだ。

 そう思った、その時。


「何しているんだ!」


 個室の中に一人の男性が入って来る。


「て、店長!?」


 その男性を見た途端に、あからさまに女店員の様子が変わった。


 店長……?

 まさか、この人がこの店の店長だと言うのか?


「全然戻ってこないから何してるのかと思えば……! 全く、以前にも同じことをしてお客様からクレームを頂いたと言うのに、君という奴は……」


 ため息をつきながら女店員の後ろ襟を掴む店長。


「て、店長! これは違います! マッサージ! そう、マッサージです! ですよね、お客様?」


「ほう……。この子はこう言っているが、実際はどうなんだい?」


 店長が俺とイリス様に問いかける。そして、女店員は泣きそうな目でこちらを見る。


「嘘です。連れて行って下さい」


「そ、そんな! くっ! あなた泣き顔より笑顔が好きって言ってたでしょ! 私が泣くことになってもいいのかしら?」


「たまには、泣き顔もいいと思うんだ。俺」


「こ、この裏切者ーっ!!」


 女店員はそのまま店長に引きずられて個室から出て行った。

 女店員と店長がいなくなって少ししてから、俺とイリス様の拘束が取れる。


「……悪道。少し、楽しんでたでしょ?」


 イリス様がジト目を向けてくる。


「……ほんの少しだけです」


「……変態」


 ぐはっ。

 可愛すぎる……!!


「まあいいわ。それより、そろそろ出ましょうか」


「え? もうですか? まだイリス様は猫と戯れてませんよね?」


「そうだけど、今日はあなたに今までのお礼をするためだからいいのよ」


 そう言ったイリス様の顔は笑顔だったが、少しだけ残念そうに見えた。


 どうやらイリス様は俺の一番の幸せをまだ理解していないようだ。

 なら、ちゃんとその身に教え込まないと。


「あ、悪道? 何してるのよ」


 イリス様が突然床に仰向けで寝転がる俺を見て、呆気に取られている。

 そのイリス様に見せつけるように、俺は両手足を動かす。


「やだやだやだ! もっと猫と遊びたい! 猫と戯れて微笑むイリス様が見たい!!」


 これぞ、俺の最終手段『駄々っ子』である。

 イリス様は子供好き。つまり、少なからずその身に母性を宿している。

 そんなイリス様がこんな『駄々っ子』を前にしたらどうなるか。


「な、何言ってるの! 駄々こねないで、早く行くわよ」


 少し困った顔を浮かべながら、俺を立たせようとするイリス様。


「嫌だもん! イリス様が猫と戯れて幸せそうにしている姿が見たいもん!!」


 そのイリス様を更に困らせる俺。


「仕方ないわね……」


 折れたのはイリス様だった。


「そんなに言うなら、もう少し遊んでいきましょうか」


 そう言うとイリス様は俺の横に腰かけ、猫たちと戯れ始めた。

 心底楽しそうに猫たちと遊ぶイリス様は、その場にいる何よりも可愛かった。


 やっぱりイリス様は、笑顔が一番だぜ!!

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