誰が袖

koto

誰が袖

 今だけ、私の前にあなたがいない今だけ、わがままをいわせて。

 あなたと今一緒にいる人に嫉妬している私を許して。

 その人のことを大切にしているあなたに、腹を立てている私を笑って。

 袖に香りがうつるくらい、そばにいて。

 ……そんなこと、言えるわけもないから、今だけ。


 彼と出会ったのは桜吹雪の中だった。

 今年の桜はピンク色が濃い目だなと思いながら掌に花びらを受けていたら、舞い散っていた花びらのひとかたまりが急にこちらに向かって飛び上がってきた。驚いて良く見ると、それはモンシロチョウで、羽根の白と黒い紋様が舞い散る花びらの中で際立っていた。思わず両手を伸ばしたら、蝶の割にのんびり屋だったのかあっさり手の中に納まってしまう。

 もぞもぞと手の中で動く蝶に申し訳ないような気がしてそっと手を開こうとしたその瞬間。

「その蝶、俺にくれませんか?」

 そう声をかけてきたのが彼だった。

 驚いたし蝶を捕まえたところを見られてなんとなく恥ずかしかったけれど、素直に頷いた。すると彼はバッグからポリ袋を取り出して私の手の上にかぶせる。

「この中で手を開いて」

 言われるままに手を開けば、ぱたぱたと動く蝶が袋の中に飛びだした。彼は袋を私の手から引き抜いて口を結び、蝶を閉じ込める。蝶は鱗粉を散らしながらぱたぱたと慌てたように動き回っていた。彼は満足そうに袋を手に持って眺めてから、軽く会釈してきた。

「妹が入院してて外に出られないから、見せてあげようかと思って。ありがとう、いいおみやげになりました」

「えっ、病院にちょうちょを持ち込んで大丈夫ですか?」

 的外れな反応だったかもしれないけれど心配になって聞くと、しばし考えこむようにして

「そうだな……正直考えてなかったけれど、怒られたらあいつがかわいそうだし」

 本当に考えていなかったようなので笑ってしまった。

「それなら蝶は逃がして、代わりに桜の花びらをその袋に入れて見せてあげるというのは?」

 生ものがだめな病状だったらどちらもだめだけれど、どうやら妹さんの病室は大丈夫だったようだ。

「そうだね、そうします」

 彼が名残惜し気に袋を開封すると、蝶は急いで桜吹雪の中に飛びだしていった。

 それから彼は袋を振り回しては花びらを何枚も捕まえた。私も乗り掛かった舟とばかりに掌で花びらを受けては彼に差し出した。傍から見れば変な二人だったと思う。でも花見の客なんてみんなどこか浮かれておかしいし、春にありがちな光景だったのかもしれない。

「ああ、何だか久しぶりに体を動かした気がする。協力ありがとう。楽しかったです」

 そこそこの量の花びらを袋に収めた彼は、そう言って桜並木を後にした。

 彼を見送った私は、傾いた日の光を受けて輝く花びらの中に取り残されたのだった。

 次に彼に出会ったのは大学の教室だった。互いに目を瞠って再会を驚き、今更ながらに名乗り合った。

 一学年下の彼と私はいくつか同じ講義を取っていて、それから時々顔を合わせることになる。

 最初はあいさつ程度の仲だったのに、次第に近くに座るようになり、いつの間にかしばしば一緒に昼食を食べるようになって。

 夏の気配が濃くなったころには気心知れた間柄になっていた。


「妹さん、リハビリ頑張ってるんでしょ? 夏休みには自由に歩けるようになるかな」

「どうだろ、割と痛みが出てるみたいだから元通りってわけにはいかないかも」

 夏休みの予定を話していて、そんなことばを交わした。彼の住まいは私の家の隣県だ。多少の距離があるので、約束をしない限りは長期休みに会うことはない。でもこちらとしては多少遠くとも講義のない日にも会いたいと思う程度には、既に気持ちが膨らんでいた。

 もともと講義自体がリモートと半々だったりして、演習タイプの科目でないと学校に通う日も少ない。その中で会える機会を逃したくなくて何かと口実を作っては会っていたのに、彼のほうは夏休みに私と会う気は特にないように思われた。

 このご時世、よほどの用事でもない限り、多少仲のいい友人同士程度では気軽に会うというのも憚られる。私と彼は友人の域を出ていない。会える道理もなかった。

「俺は妹のリハビリに付き合ってたら終わりそうだけど、涼音さんは夏休みどうするの?」

「ろくにバイトもできないだろうし、家でレポート書きして終わりかも。あとは企業研究」 

「大学生の夏休みってもっとろくでもない過ごし方をイメージしてたんだけど、そんなわけにはいかないみたいだなー」

 ああやはり、私は眼中にないのか。改めて突き付けられて、気が滅入ってしまった。

「蓮くんは真面目だねえ」

「涼音さんこそ」

 それでも他愛もないそのやりとりの内容がひどく愛しくて、胸が苦しい。

「8月の誕生日くらいは楽しみたいけど当面は自粛しないとだめだし、寂しい二十歳になりそう」

 わざとらしくため息をついてみせても、彼は笑うばかりだった。

 脈があるのか、どうなのか。親しい空気はある。ただ、むこうに恋愛感情はないかもしれない。特に今は、怪我をした妹さんが大切で、そばにいて力を尽くしたいのが伝わってくる。

 会ったこともない妹さんに嫉妬している自分が嫌になる。もう少しのんびり二人で過ごしたいのに、妹さんを迎えに行くからと早々と帰ってしまう彼に腹が立つ。それなのにもう一歩を踏み込めない空気を流行り病のせいにしているのは自分がずるいのかもしれないと思った。

 彼の腕にしがみついて、袖に香りが移るほどに触れたいなんて、今は夢のまた夢なんだろうか。

 もしかしたら、これからも。


 大学生活もままならないまま訪れた夏休みは、灼熱の日差しとはうらはらに淡々と過ぎていった。

 予想通りの過ごし方をして、単調なリズムを繰り返すだけの味気ない日々。つつがなく生きられているだけで十分だとわかっているけれど、それでも欲しいものはあった。誕生日のプレゼントには特別なものが。

 誕生日を特別な日だと思える程度には幸せな人生を生きてきた。その上成人年齢が引き下げられるとはいえ20歳は一応節目だ。少しだけのわがままを言っても罰は当たらないのではないか、なんて思う。

 今の私の望みはただ一つ。誕生日くらいは、彼の声が聴きたい。時折交わされる何気ないメッセージだけじゃなくて、声が聴きたかった。

 カーテンを開けて外を眺めれば、眩しいほど青い空にたなびく白い雲。向かいの家の玄関先では朝顔がしおれかけていた。その萎んだ青を遠く眺めながら、私は意を決した。

 メッセージだけを交わしてきたアプリにあいさつと「今話せる?」と入力して彼に送信する。

 ほどなくして返ってきた「OK!」のスタンプを見て震える指で通話ボタンを押す。すぐにつながって彼の声が耳に飛び込んできた。

「久しぶり。どうしたの? なんかあった?」

 緊張で声まで震えそうになるのを深呼吸でごまかす。

「ええと、私は今日が二十歳の誕生日です。祝って?」

 笑いながらそうだよね、おめでとう、という彼の言葉を一瞬噛みしめてから、私は踏み出す。

「あのね。私、蓮くんが好きです。私と付き合ってくれると嬉しい」

 一気に言い切って、彼の反応に耳を澄ませる。え、とか、あ、とか何やら狼狽している声が聞こえた。そしてしばらくの沈黙。

「迷惑だった?」

 そう絞り出すのが限界で、視界が滲む。すると彼は慌てたように唸ってから答えた。

「ありがとう。でも今すぐに返事できないや。ごめん」

 ある意味終わった、と思った。彼は優しいから、言葉を選びたいのだろう、と。

「返事はいつでもいいよ、はっきり言ってくれて構わないから。じゃ、それだけ。またね」

 通話を切ってベッドに倒れこむと、泣きたくもないのにたらたらと涙が流れて、悔しくなる。まだ結論を言い渡されていないのに、この敗北感と喪失感はなんなのだろう。

「最悪」

 何が悲しくて誕生日に泣かなければいけないのだろう。

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、覚悟して告げたことなのだから仕方ないか、とベッドに座り直す。喪うものは意外と少ない。大学生活は流行り病のせいで淡白なものだったし、さほどのダメージはないかもと思う。


 ただ、彼との関係が消え去るだけだ。

 それが一番辛いのだと、判っているけれど。


 伸びをして、こわばった身体に酸素を取り入れる。涙を拭いて麦茶でも飲もうかと思った時、メッセージアプリの着信音がベッドの上で賑やかに自己主張した。画面に表示された名前にフリーズする指先。

「え、蓮くん?」

 ああ、本当に終わるんだ、と思うと着信音が流れるままになかなかボタンを押せなかった。

 着信音は意外なほど長く続いた。心理的なものだったのかもしれないけれど、ずっとずっと私が出るまで続く気がした。

 仕方なくボタンを押して応答する。

「よかった、出てくれた」

 第一声がそれで、面食らう。短く返答すると、ふっと息を呑んだ気配がした。躊躇うような声が響く。

「あー……もしかして、その、泣いてた? あの、ごめん、すぐに返事できなくて」

「泣いてませんよ?」

「えー、ああ……うん、まあいいや。その、返事なんだけれどさ、顔見て言いたかったのと、すぐそばに妹がいたから言えなくて」

 また妹か、などと毒づきそうになった。妹さんは何も悪くないのに。

「で、妹に怒られた。バカじゃないの? って。内容がこっちまで聞こえてるし、好きな人との通話だったら別の部屋に行くとかしてよ、私は今歩くの面倒なんだからねバカ、って」

 聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。胸が高鳴るのを抑えられない。

「こんなバカだし気づくのが遅かったけど、ほぼ一目惚れだったので、良かったら付き合ってください」

 今度はこちらが息を呑む番だった。こみ上げるものを抑え込みながら、答える。

「ずるい。ずっとこっちばっかり好きなんだと思ってたのに」

 蓮くんは困ったような声音でぽつりぽつりと口にする。

「涼音さんは優しいから、出会った時から俺の頼みを聞いてくれたでしょ? 好きだなんて言ったら悩ませてしまって、不本意でも付き合ってくれそうな気がして、それは嫌だったんだ」

 人を何だと思っているのだろう。そこまで優柔不断ではない。

「好きじゃなきゃ、一緒にいようなんて思わないよ。休み時間に捕まえたり、一緒にごはん食べたりなんて、しなかったよ。鈍いよ」

 そこまで話したところで、気になっていたことを口にした。

「それはそうと、もしかして私のことを妹さんに相談してたの?」

 乾いた笑いがスピーカーから漏れ届いた。

「それなんだけどさ、俺の気持ちに先に気づいたの、妹なんだよね。モンシロチョウと桜の花びらの話から始まって、大学で再会した話をして、気づいたら妹の前で涼音さんの話ばっかりしてたらしくて。ある日まだ気づいてないの? いい加減気付け、って言われた」

 吐息ともつかない間抜けな声を出してしまった。なんだそれは。

「早いとこ腕掴んで捕まえとけ、そんな気のいいひとはあっという間にかっさらわれるよ、って言われてたんだけどなかなか告白できずに先に告白されたっていう」

 もはや声も出ない状況だった。

「本当は夏休みに入る前に告白したかったんだけれど、今はなかなか会えない状況だし、大学が再開したら言おうと思ってた。ささやかだけど誕生日のプレゼントも用意してあるから、どこかで近々会えないかな」

「うん、あまり予定が入ってないからいつでもいいよ」

 どこか夢見心地で問いかける。

「……捕まえて、くれるの?」

「蝶は逃がしたけど、涼音さんは捕まえたら逃がす気ないよ?」

 彼は、そう言って笑った。このやりとりを対面でしていたら、きっと心臓が止まっていたんじゃないかと思わせるような声音だった。

 結局、袖どころか腕と心を掴まれてしまったのは私の方だったと気づいた、二十歳の誕生日。携帯端末のあちらとこちらで、蝉の声が響く昼下がりだった。

 画面越し、機械越しに会うことの方が多いけれど、どうやら私たちはお互いを捕まえたらしい。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰が袖 koto @ktosawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る