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 それからまずみそらがやったのは、葉子ようこに連絡をすることだった。ちょうど「子供の情景」をやっているとはいえ、それがからに変わるのだ。連絡は必須だったし、できれば終曲があれば、という三谷みたにの言葉もあって、つぎに練習する曲をそれにするかを話し合うなど、急ピッチで話が進む。

 とはいえ、こういうのもなんだか慣れたなあ、とも思う。内容に慣れるというより、突発的な案件に対応しなければならないことに慣れる、のほうに。緊張には慣れないけど、緊張することには慣れている、に近いかもしれない。

 三谷のアドバイスも的確だった。教え方や間のとり方、和声感のつくり方などは、やはり葉子と通じるものもある。それもそうか、と思う一方で、もし自分が教えるとしたら木村先生のやり方に似るのだろうか、なんて考えたりもした。葉子の友人の声楽の先生のレッスン見学などもたまに行っているのでなんとなくやり方は理解し始めてはいるももの、実際にやるとどうなるんだろう、ということもまた考えながら「子供の情景」の練習を進めていく。――引き受けたのは結局、自分の将来の糧になるかどうかと、自分が興味をもてるかどうかだった。それを三谷はやっぱりよくよくわかっていた。

 一週間もすれば曲と詩も決まった。その間に喜美子きみこさんと実際に合わせ――便宜上、いつもどおりの言い方をすることにした――たのはまだ一度きりだけれど、率直にやはり難しかった。あくまで「子供の情景」はソロだ。通常の伴奏のように、歌詞やメロディに合わせたバックグラウンドになっているわけではない。そこをどう突き詰めていくか――合わせの状態に落とし込んでいくかが最大の課題だと思えた。

 考えあぐねているみそらに三谷が言ったのが、「まずは自分のソロをきちんと弾けるようになること」だった。「合わせるって言っても、結局もともとはソロ曲だから、それが完成してないとアドリブのしようがないんだよ」という、それこそ自分が一番信頼している伴奏者であり、好きな独奏者ソリストでもある人物に言われてしまえば、まさにそのとおりだと納得するしかない。

 なので、九月いっぱいは葉子とも相談して、使用する曲を優先的にレッスンでも見てもらうようにした。おかげで曲自体はほとんど形になっている。その日もまたみそらの演奏を聞いた三谷は、マグを持ったまま「いいと思うよ」とうなずいた。

「あとは……慣れだと思う」

「慣れ?」

 みそらが譜面台ごしに首をかしげると、三谷はまた「うん」と軽くうなずいた。

「ピアノソロを人前ひとまえで弾く機会、歌に比べたら雲泥の差だろ?」

 みそらはうなずいた。

「やっぱりそこだよね……」

 週に一回のピアノのレッスンはあるとはいえ、ピアノの試験は前期・後期に一回ずつ。みそらにとって人前でピアノを弾く機会はその二つにほどんど限られてしまう。そこをどうクリアするかが、ここからの課題だ。

「……美咲みさきとかに、練習室で弾くのを聞いてもらうとか」

「ああ、相田あいださん――ピアノ経験者だったっけ」

「うん。あとはしらちゃんとか清川きよかわさんとか。時間があればだけど」

「相談はありだと思う。とくに白尾しらおとか喜びそうだし。あとはいっそ伴奏法で弾いてみるとか」

「えー! それこそ無理だよ! 学年が下とはいえ、ぜったい本職のほうがうまいじゃん!」

「本職って」と笑ってから、三谷は続けた。

「ソロだけど伴奏の色もあるから、ばあちゃんの企画の趣旨を説明して協力を仰ぐ――ってやり方だといけそうな気がするんだけど」

「そうかもしれないけど、……なんかだいぶ伴奏法を私物化しすぎなんじゃないかという気も」

 みそらが考え考え言うと、三谷は「それもそうか」とうなずいた。

「ブレストとしてはありがたい案だと思います」

 すぐにみそらがフォローを入れると、「たしかに」と三谷がまた笑う。そのようすを見て、ふと思う。

「――やっぱり、三谷といっしょにいてよかったな」

「うん?」

「三谷が伴奏してくれなかったら、喜美子さんとも出会えなかったから、こういう機会もなかったし。考え方とかも違うしね」

「……なんか昔、そういう話したような記憶が」

「うん、ある」

 指摘についみそらが笑うと、「けっこう前だよね」と三谷も笑った。それから――たぶん二年くらい。進路もまさかこういう形になるとは思わなかった。お互いに。

「とりあえず曲の完成度もだけど、人前で弾くことは絶対にやってみて。葉子先生に相談してもいいと思うし」

「うん」

 三谷に見てもらう時間の、終わりの合図になる言葉だった。時計を見ると時刻は二十二時の二十分ほど前。みそらがピアノ椅子から立ち上がると、三谷はテーブルにマグを置いていた。場所を交代して、ソファに腰を落ち着けたみそらはスマホを取り出した。

 しらちゃん、美咲、清川さん、葉子ちゃん……チャットの履歴を見るとそれらの名前が並ぶ。三谷が挙げたのはいずれも信頼できる人物ばかりだった。ただまだ、どういう形でお願いすればいいのかがみそらの中ではっきり決まらず、みそらは一度スマホを横に置いた。

 三谷がピアノを弾いている。さっきまでやっていたショパンのバラード四番――卒業試験の曲だ。この曲に決めてまだ日が浅いけれど、それでもからか、やはり音の深みは増してきているような気がする。


 ――雨……雨……雨……

   雨は銀座に新らしく

   しみじみとふる、さくさくと、

   かたい林檎の香のごとく、

   鋪石しきいしの上、雪の上。


 みそらはそれを聞きながら、北原白秋はくしゅうの詩の文庫本を開いた。喜美子さんが使っていたそれは、使い込まれていろんなところに折り目などがある。――ふいに雪の景色が見えた気がした。それは地元の記憶かもしれないし、白秋の詩のイメージかもしれないし――

 表情は見えないながら、みそらはピアノを弾いている――その曲に向き合っている人物のほうを見た。

 音のうつくしさは変わらない。前からそうだった。でも、もしかしたら――もしかしたら。

 三谷夕季ゆうきの生まれ育ったものの中にはそもそもなかったであろうものが、芽生えかけているのかもしれない。――そんな気がするのは、自分がきっと三谷と違う場所で生まれたからだと、その不思議さをみそらは思った。



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