7-1
週が二つ進み、つぎの、そのつぎの伴奏法の日になった。講義がはじまる時間に
先週からいた
「今日はちょっとカンフル剤というか、前半は声楽の実際の伴奏のようすを見てもらうことにしました。勉強する伴奏ではなく、まずは鑑賞する伴奏から入ったほうが、みんなもイメージがつきやすいでしょう」
と出欠を取ったあとに葉子が説明を始めると、比較的ポジティブな反応が返ってきた。葉子が説明している間に、みそらは一列目の生徒にプリントを渡していく。ばらばらに座っているので目分量で適当に渡すが、あとは大学生なんだからどうにかしてくれるだろう。
プリントには曲名と歌手、伴奏者が記載してあり、それぞれに歌詞と対訳もついている。全員に行き渡ったころ、美咲が一歩前に出て話し始めた。
「そこに書いてあるとおり、三曲を歌います。伴奏はすべて三谷くんで、歌は私と山岡さん。一曲目は先々週にもやったって聞いてる『
そこまでよどみなく喋ってから、にっこりと美咲は笑った。
「対訳もついているのでわかんないことはそんなにないと思うけど。どうしても内容がつまんないって人は出ていってもらって結構です。今どうぞ。はい遠慮なく」
美咲のよく通る声が響くと、しばらくお互いを探るような空気が流れる。しかし数秒経っても誰も立ち上がらなかった。ピン・ポン・パンの三人組もだ。それを見て美咲はまた笑みを崩さずに続ける。
「途中でつまんなくなって出て行きたくなったときは、もうこれくらいわかっていると思うけれど、曲間でお願いします。マナーですからね、マナー」
こわいこわい、とみそらは心の中で繰り返した。ソプラノ、オペラ、歌曲、そういうことにプライドを持って毎日を過ごしている生徒の圧というものはきっとそうそう浴びたことはないだろう。ふと見やると、
「あ、伴奏については、いま言ったことにすべて対応できる技術、洞察力など、ぜんぶ参考にしてください。うまいんで」
伴奏の説明雑すぎ、というちいさな三谷のぼやきが聞こえてみそらは笑いを噛み殺した。葉子は生徒側の座席に座って、こちらもにこにこと三人を見ている。葉子はこの件に関しては自分たちに一任してくれた。つまり、助け舟も出さないということだ。その判断――懐の広さに、みそらは改めて感謝した。
*****
美咲から連絡があったのは、水曜日、夕飯の親子丼を無事食べ終わったころだった。
「伴奏法にくる?」
「そう。勧誘じゃないけど、実際に歌ってるところ見てもらったほうがイメージがつきやすいんじゃないかと思って」
耳元ではきはきと聞こえる美咲の言葉に、たしかに、とみそらは思った。仕事ふうに言えば、今回のイシューは「永本さんを伴奏に戻す」ではない。だとしたら、興味を持ってもらえる状況、加えて幅広く声をかけれる状況を作るほうが、犬の道にならずに済むということだろう。音楽をやっていても企業でやることとの結び付けられるものは大いにある、と実感するのはこういうときだ。
「いいね、べつに永本さんがターゲットじゃないし。でもまずは葉子ちゃんに確認だね。ただどんな曲をやるかとかを先に決めないと……じゃないと葉子ちゃん、話聞いてくれないと思うから」
「ああ、
楽しそうな反応が返ってくる。美咲はスマホの向こうですこし黙考したようだった。かすかにドアの向こうから三谷のピアノの音がする。水滴みたいだな、と思う。三谷の音はいつも絵を描くようだった。水のひと
「まずはさ、『O mio』を私がやってみてもいいと思うんだよね。伴奏を三谷で」
「え、三谷で?」
「コマあいてるって言ってたじゃん。それに、そもそもうまい伴奏者がいないとこれ、話進まないよ」
たしかにそうだ。みそらはぐっと息をつめ、それから言った。
「待ってて、今から確認してくる。やるならやるで早めに言わないとだし、そもそも許可が一番厳しいの、葉子ちゃんよりきっとあの人だよ」
「わかったわかった。ごめんね、
「いやそれは……わたしも実際おもしろそうだと思ったし。――とりあえず、一回切るね」
「おっけ」
スマホの通話を終えて、みそらはそっとドアを開けた。どうやら今は同じところを繰り返しさらっていたようだ。ドアのところで止まっているみそらに気づいたのか、三谷が振り返る。と同時にきらきらと粒が転がっているような音が止まった。
「――なんかあった?」
「うん、ちょっと相談」
「相談? 急ぎ? ――だよな、いま言うってことは」
「です」
そこで手早く先ほどの美咲との会話を説明する。三谷はなるほどと言って「じゃあ今から話す?」と続けた。みそらは顔の前で手を合わせて「ありがと!」と言うとスマホをもう一度取り出した。美咲を呼び出しながらスピーカーにする。すぐに「はーい」という声が聞こえた。
(7-2に続く)
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