6
午後の授業を終えて買い物をし、帰宅するともう日はさすがに夜の向こうに落ちていた。ドアを開けて中に入り、靴を脱ぎながら荷物を廊下に下ろす。
学食にももうちょっと雑穀米のメニューがあればいいのに、と昼のことを思い出しながら手を洗い、うがいをして髪をひとつにまとめ、荷物を廊下のすみに追いやってそのまま調理に取り掛かる。
雑穀米を炊飯器にセットしながら、これも全部、中心にあるのは音楽だな、と思う。生活から音楽はもう切り離せない。すくなくともみそらはそうだ。企業への就職が実感を伴ってきた今、葉子の依頼に対する準備も本格的に考えられるようになってきた。授業を受ける際にも、受講する立場と教える立場、両方を考えるようになってきた自分にも気づく。
ふと空気が軽くなった気がした。と同時に部屋のドアが開く。すこし暗めの廊下兼キッチンに、部屋の明るい電灯の光が届くと、ドアの横から三谷が顔を出した。ちょうど練習に一区切りがついたのだろう。
「あ、やっぱり帰ってきてた。おかえり」
「ただいま。今日は親子丼です」
「丼もの? めずらしいね」
「美咲が昼に食べてて、ちょっとつられた」
そうなんだ、と笑って、三谷はキッチンのようすを見た。
「あと何? 手伝おうか」
「大丈夫。冷凍のブロッコリーといんげんを炒めるだけだから。もうちょっと弾いてていいよ」
みそらは今日、重唱、オペラ演習と続いていたので、家ではもう声は出せない。これも三谷が練習するにはちょうどよかった。自分の時間は曲の解釈か、もしくはインターンで気になった点の復習なんかにあてるつもりだ。
「ベーコン残ってるから、それも使っていいかも」
「――あ、そうだったね」
三谷の言葉に、じゃあ野菜炒めに入れるか、と考える。親子丼も炒めものもどちらも結局手抜き料理だと言われそうだけれど、それでもいっしょに食べるという付加価値はあるのだと思う。
――そうすると三谷がお餅をごろごろ焼くことになるよね。ふいに美咲の言葉が蘇ってくる。みそらがついじっと三谷を見ると、練習で喉が渇いたのかお茶を飲んでいた三谷が「なんかあった?」と聞いてきた。
「わたしがクリスティーヌをやったらどう思う?」
「『オペラ座』の?」
「そう」
「おもしろいと思うよ。デュエットも多いし、木村先生のファントムで、とかなら見たい」
「……そっか」
ちょっと美咲、ぜんぜんごろごろされてないんですけど、と軽い文句を心で言いながら冷蔵庫からベーコンを取り出す。日付を見ればたしかに今日使ったほうがよさそうな消費期限だった。それをまな板の横に置くと、「歌だったら大丈夫だから」という声が聞こえ、みそらは顔を上げた。
「歌?」
「歌じゃないか、演技なら大丈夫、が正しいかな。木村先生ならなおさらだし。木村先生のファントムって純粋にかっこよさそう」
と言って、三谷はからになったグラスを調理の邪魔にならなそうなところに置いた。
「俺が嫌なのは山岡がひとりで歌うときにそばにいるのが自分以外だったら、ってやつだから。もちろんオケがいるとかなら別だけど。一対一の伴奏はだめ」
みそらはびっくりして三谷夕季を見上げた。これは――これはやっぱり、おとといとおなじパターン? え、これ、無自覚? それともわかって言ってる?
みそらが言葉を失っていると、ちょっとだけ三谷は笑った。あ、これはわかってて言ってる……のか?
表情が絶妙なのでみそらではどちらだと言い切れない。これは突っ込んだほうがいいのか、とみそらが数秒迷っているうちに、三谷は「じゃあ、続きやってくる」と言ってしれっと部屋に戻っていった。
ドアが閉まるとまた廊下が薄暗くなる。一気に胸から息が出た。肺がいくらかしぼんだ気さえする。
いや、まって、なにあれ。びっくりする。なんだこれ。漫画か? もう一度美咲の「お餅をごろごろ」が頭をよぎる。――そして同時に、きっと、とも思う。
きっと大人から見ても、同級生から見ても、こんなのただの子どもの恋愛ごっこに見えるんだろう。だからみんな聞いてくるのだ、仲違いしないのかを。でもそういうことじゃない。たまにちらつくのだ、――クリスティーヌのことが。架空の歌姫のことが。
ラウルに手を引かれてファントムを振り返った顔が、いまだにちらつくことがある。あのときたしかにファントムにキスをしたのに、それでも地下から抜け出していったクリスティーヌ。彼女はあのとき、何を選んだのか――音楽なのか、恋なのか、日常なのか。あれほどまでに狂おしい歌を――『The Point of No Return』を二人で歌っておいて、その上で最後に何を手に取ったのか――
みそらはぎゅっと指を握り込んだ。外しそこねていた左の指輪は、まだみそらの熱に染まっている。
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