5-1

「あちゃー、そうなったか」

 翌日の二限にあるレッスンで昨日聞いたばかりの情報を伝えると、葉子ようこはそう言った。あちゃーとは言うものの、まさか、という反応ではないのでいくらか予想はしていたのだろう。

「おとといのことだし、なんかちょっと気になってきちゃったよ」

「みそらが気にすることはないでしょ。あの子、前からあんな感じだったし、時間の問題だったってだけでしょう」

 ばっさりと言い切って、先生用のピアノの前に座った葉子は脚を組んだ。今日も品のいい、でも夏の涼しさを連想させる柄のロングスカートだ。

「葉子ちゃんのところ、代わりに入れそうな子っている?」

「うーん、うちの二年はもうだいたい上限まで持ってるから、ちょっと難しいかもなあ」

「伴奏、嫌な子とかいないんだ?」

「幸いね。二年生全体ではあまり興味なさそうな雰囲気ではあるけど、うちの門下にはみっちゃんがいるから。案外憧れてる子もいるのよ、ありがたいことに」

「へえ、なるほど」

 素直に感心したみそらに、頬杖をついた葉子はかすかに眉をしかめた。

「みそら、自分のこと除外してない?」

「なにが?」

「みっちゃんの伴奏。無意識に颯太そうただけだと思ってるでしょ」

 みそらはちょっと考えた。

「……そうかも」

「なわけないでしょうが。おとといの写真のこと、忘れたの?」

 はっとすると葉子が「忘れてたわね」とすこしおかしそうに言った。たしかにすっかり忘れていた。

「あれはうちの門下じゃないけどね。言い換えれば外の門下にも広まってるってこと」

 葉子の「広まる」という言葉を反芻する。それってやっぱり四年生になったということも大きいのだろうか。――二年生にしてみれば、自分は四年生。たとえると、みそらとはやし香織かおりとの年齢差だ。

「とりあえず、ほかの先生にも聞いてみるわ。これは小野先生じゃ無理だし」

「……そう考えると、三谷みたに藤村ふじむら先輩のあとを継いだのって、けっこうレアケース?」

「というわけでもないけど」

 一度葉子は言葉を切って、うーんと考えた。

「藤村は小野先生の生徒だったし、そこは小野先生だって責任をいっしょに背負うのは変わらないってことでしょう。そもそも小野先生こそ、みっちゃんを取ろうとしてたんだし」

 さらりと言うなあ、とついみそらは心の中でつっこんだ。でも、――そうやって言っていいくらいの話題なのだ。時効のようなものだろうか。

 しかしそう考えると、よけいに三谷が自分の伴奏をもてるようになったのは、それこそ小野先生が「担当できなかったから」という妙なねじれのおかげなのだ、ということにあらためて思考が還ってきてしまう。

「このあと授業あるんだっけ」

「うん。あ、だから美咲みさきにも会うよ。なんか聞いておいたほうがいいことある?」

「そうね、――あ、すっかり忘れてたけど、どのコマがいいか。いくつか候補があったほうが、伴奏者が見つかった場合にも調整しやすいし」

 そうだった。いくら候補に手を上げてくれる人がいたとしても、授業の取り方で都合がつかなくなる場合もある。みそらはい、通常通りのレッスンを終わらせた。もちろん今日のレッスンも非常に楽しかった。楽器の違いという難しさはいつになっても痛感するものの、葉子との時間は、いつもあっという間に過ぎていってしまう。

 レッスンが終わると昼休みだ。今日は美咲と食堂で落ち合う約束をしていた。午後からの重唱研究とオペラ演習は美咲もおなじだ。

 ざわめきに満ちた食堂の手前、券売機の前でどれにするか考える。昨日がパスタ。午後は体力を使うコマばかりだしお米がいいけれど、丼ものだと重い。となると定食――サバだ。ハズレがないし。

 食費は三谷といっしょに過ごすようになってすこし抑えられるようになった。同時に手を抜くことも減った。一人だとどうしても量が作れないし、そもそも調理自体めんどうだと思うこともあったけれど、二人いれば使い残しも減らせるし、体調管理に対するモチベーションにもなる。互いに好き嫌いをけっこう把握しているのもスムーズにやっていける大きな要因かもしれない。

「おっすーおつかれー」

 先に来ていて座席を確保してくれていた美咲が、トレイをもったみそらを見つけて手を振る。おっすおつかれ、なんて口調だけれど、容姿はびっくりするくらいの美人だ。わかりやすく言うと、――悪役が映える美人。もちろん褒め言葉だ。ディズニー映画の悪役の目元が非常に表情豊かなのとおなじで、長い黒髪と同色のまっすぐな眉、そして黒い瞳が印象的な美咲の演技も、そういった独特の華やかさがあった。声域はソプラノだけれど、カルメンなんかがハマりそうな独特の色香がある。

「ありがと、席」

「どーいたしまして。――羽田はねだ先生、なんだって?」

 みそらが向かいの席にトレイを置いて腰を下ろすと、美咲は身を乗り出して聞いてきた。その彼女の前にあるのは、みそらが却下したばかりの黄色いカツ丼だ。この見た目でカツ丼。やっぱりおもしろすぎる。

「まず希望のコマ、教えてほしいって」

「そりゃそうか、忘れてた。空いてないと意味ないもんね」

「あとは、その人のタイプとかもあると助かるって言ってた」

「あ、そうだね」

 ソリストが完全に主導権を握りたいのか、伴奏にある程度おまかせしたいのか、など、タイプもさまざまだ。相性のいい人に当たってくれるほうが、双方潰れずに済む。

「まあ私が見た感じでは、そこまでトップダウン、って感じじゃないかな。でもある程度解釈は固めてくるから、そこまで押しの強い伴奏じゃないほうがいいかも」

 頭の中にメモしながら、みそらは手を合わせ、ちいさく「いただきます」と言った。それから箸を取り、まず味噌汁に手をつける。

「前の――永本ながもとさんとはうまくいってなかったの?」

「そういうわけでもなかったと思ってたんだけどね。だからたんに伴奏の子が時間なくなったってことなんじゃないかな」

 美咲もカツ丼を食べる手を再開させて会話を続ける。

「でもまあ、まさかついおとといに接触してるとは思わなかったよ」

 門下は違えど美咲とは一年のころから仲がいい。月曜の伴奏法ばんそうほうでのことも、昨日の夜のうちに雑談の中で話していた。

「どういう感じだった? 具体的に」

「具体的って……昨日送った以上のことはないけど。でもまあほんと、トゥーランドット姫って感じ」

「でもあれ、最後はカラフに懐柔されるじゃない? 経過はかなり雑だけど」

「それはやっぱり真のヒロインがリューだったからっていうプッチーニの性癖……じゃない、話逸れちゃった」

 いったん味噌汁でサバを流し込み、喉を潤す。

「三谷が言ってたのが、小野先生はあまり伴奏には前向きじゃないって」

「あーあ、そうね、たしかにうちらの学年もそうだ。べつに伴奏者が悪いわけじゃないけど」

「うん。だからまあ、外野ながらも傷口が浅いうちでよかったとかちょっと思っちゃって」

「あーうん、みそらはぐっだぐだだったもんね。三谷が来てくれなかったら私がやめさせてたよ、諸田もろたさん」

 美咲のストレートな言葉に、みそらはつい苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。

「あれは心配かけて申し訳なかったと思ってる」

「いーのいーの。でもまあほんとに三谷がくるのが早くてよかったよ。江藤えとう先輩がいる間は難しいんじゃないかと思ってたし」

「そうなんだよね。ふしぎなこともあるもので」

「ふしぎっていうかさあ……」

 美咲は言いながら大きな一口を口に含み、それからしばらく咀嚼し飲み込んだ。

「てか、インターン、どう?」

「まあ順調といえば順調かな。試験前はさすがに行けなそうだけど」

「そか」

 そうしてまた美咲は口に食べ物を運んだ。待っていてくれた分、冷えてきているのかもしれない。それに、次の時間の前に歯磨き、最低でもうがいはしておきたい。みそらもまずは昼食を食べすすめることを優先した。


(5-2に続く)

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