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みそらの終業は、ほかの社員さんたちよりおおよそ一時間ほど早い十八時がめどだ。今日も予定どおりに仕事を進め、業務内容をチャットや口頭で共有し、十八時過ぎにはオフィスを出た。と同時にスマホを確認すると、
日が長くなってきたおかげで、この時間でもまだ空は薄明るい。日の入りまであと三十分ほどのはずだが、仕事が終わったあとに見上げる空がまだ昼の色を残していると、なんだか自由時間が増えたような気さえしてくる。
夕飯に使えそうな食材、何が残ってたっけ。そんなことを考えながら、帰路につく人々に混じって駅に向かう。この時間はやはり人が多く、学校の最寄り駅よりももっと「ごった返す」という印象だ。順調にいけば来年もこの景色を見ることになるし、自分がその景色の一部になるのだ、と思うと、それはなんだかとても妙な心地になった。
ICカードを入れたパスケースを取り出す。列の多い黄緑色の改札を抜けて視線を左右にめぐらすと、すぐに三谷の姿は見つかった。これは何度やってもそうで、よく見つかるものだと自分でも感心してしまう。三谷もみそらに気づいたようで、壁ぎわで軽く手を挙げた。
「おつかれ」
「おつかれ。ごめんね、こっちまで来てもらって」
三谷のインターン先の最寄り駅からだと、こちらの駅まではひと駅余分に移動してもらうことになる。とはいえひと駅なので大したことない、というのが三谷の言い分だった。並んでホームへ向かうと、つい言葉がこぼれた。
「やっぱレッスンのあとってなかなかきっつい」
頭の使い方、体の使い方が別々なのに、どちらも身を削られる。始めたのが春休み中でよかった、と、四月に入ってからこちら思ってばかりだった。
「何食べる?」
「なんだろう……パスタ?」
みそらの返事に三谷は軽く笑った。
「糖分ってかんじ。でもいいんじゃない、昨日の残りもあるし」
「キャベツ……と、さやいんげんがあったっけ」
「うん。……それでできるか」
三谷のつぶやきにみそらもうなずいて、頭の中でメニューを組み立てていく。あしたも体力を使うコマが多いので、体重は気になるところだけれど体力は戻しておきたい。
帰宅ラッシュの時間だ。よくこんなに人が集まったものだと毎回感心してしまうくらいに人が多い。この路線を使う人が多い上にターミナル駅にもなっているから当然だけれど、――もしちゃんと就職が決まれば、ある程度はこっち側に引っ越さないといけないんだろうな、とも思う。
電車をひとつやり過ごす。ぎゅうぎゅうの車内にあえて突っ込んでいく気はみそらにも三谷にもなかった。つぎの電車はほんの一、二分後にやってきて、今度はなんとか乗り込めた。体の前に移動させていたバックパックはそのままにして、ひとつ隣の駅でまた乗り換える。本来ならもうひとつ先で乗り換えたほうが移動が早い路線に乗れるのだけど、そっちはそっちでまた人がごった返している。多少とはいえ乗り換えのしやすい路線を選んだのも、もう早い段階でのことだった。
三谷と肩がふれる距離にいると、ふいに江口さんとの会話を思い出す。「ケンカしないの? 彼氏さんと」――ケンカはしない、喧嘩ならする。この微妙なニュアンスの違いを、まだみそらはうまく他人に伝えられる気がしなかった。友だちとかからも一時期言われたことがあったけれど、ケンカにならないのだ、本当に。
ただ、それはもしかしたら――自分がいまだにずっとファンだからなのではないか、と思うこともある。
――あの日、
それはピアノの音だけではなくて、たとえば話す声もそうだし、本を読んでいたときの紙をめくる音だってそうだ。スマホをタップする音だってそうだし、かすかな呼吸の音だってそう。いつの間にこんなに好きになったんだろう、と思うけれど、やっぱりそれはいっしょに過ごすうちにゆっくりと自分と同化していったのだと思う。仲違いをしないように見えているのはそのせいかもしれない。
と同時に、これってファン心理だろうか、と疑問符も浮かぶけれど、たぶん自分の中にはファン目線と、最初がそうだったように友人目線のようなものが二軸で並行しているのだと思う。もしかしたら三谷も同じようなものだから、仲違いしなくて済むのかもしれない。――あちらが自分のファンかどうかはわからないけれど、すくなくとも互いの音楽を尊重しあっているのは事実だ。
暮れていく窓の外を眺めている三谷をちらりとみそらは見上げた。――きれいだなと思う。三谷
見た目で好きになったんじゃない、というのは純然たる事実なのだけれど、三谷の見た目もやっぱり好きなのだ。でも三谷の見た目があったとしても、そこに彼の音楽が付随していなければここまで好きにならなかったと、ここ数ヵ月で何度も思っている。
美醜というアイコンで言えば逆になるとはいえ、ファントムがクリスティーヌの師匠でいられたのはその音楽性ゆえだ。彼の狂気があったからこそクリスティーヌは歌い手として開花したのだし、オペラ座自体の音楽も観客を魅了していた。そういう紙一重の危うさみたいなものが間違いなく三谷にもあって、そういうところがやっぱりとても好きだった。
たぶん、そういういろんな要素が入り混じっているからこそ、ケンカにはならないのだと思う。つまるところ木村先生の言う通りなのだろう――僕らは音楽に恋をしている、という。
芋づる式に今日のレッスンでのことを思い出す。結局みそらの卒業試験の曲について、先生が直接的に言及することはなかった。ただ、見抜かれているということはわかる。声楽の基本となるイタリアの歌を選ぶか、自分の興味の発端のひとつでもある日本歌曲を選ぶか――
考え込んでいると、軽く腕を引かれた。ドアの隣、端の座席がこの停車駅で空いたのだ。三谷に軽く押される形でみそらはそこに腰掛ける。ありがとう、と口の動きだけで伝えると、三谷は軽く笑みを見せただけだった。
急いで座ったので上着がへんなところに巻き込まれ、ポケットに入れていたスマホが腰を打つ。みそらは身をちいさくしながらもそれを取り出した。そして通知に気づく。
『みそら〜、ちょっと大変なことになったから相談乗って』『うちの門下の二年生が伴奏者にいきなり逃げられたんだって。それで後任を探してるんだけど、誰かいい子知らない?』
うちの門下、ということは
「なんかあった?」
画面を見つめたままだったので気になったのか、上から三谷がちいさな声で聞いてくる。車内はまさに満員電車。大きな声はご法度だ。
「美咲の後輩が伴奏者を探してるんだって。なんか急にやめられたみたい」
なるほど、というふうに三谷はうなずいた。みそらと
アナウンスがつぎの駅に到着したことを告げ、ドア横にいる三谷が一度車両の外に出ると降車する人がどっと出ていった。乗り込む人とともに三谷も戻ってきて、みそらの前のつり革をつかんだ。それを確かめてから、みそらは続きを打つ。
『葉子ちゃんに相談してみようか。あしたちょうどレッスンあるし』
送るとすぐに既読になった。ちょうどスマホを触っていたりしたのかもしれない。そうでなくとも美咲はレスが早い。
『助かる!』『なんかさあ、「伴奏に
みそらは軽く首をかしげた。なんだろう、なんか既視感がある。電車がまたリズムを刻みながら走っていく。ちょっとだけ考えて、みそらはまた続きを打った。
『支障がなければだけど』『やめた子の名前、聞いてもいい?』
『いいよー。下の名前はわすれたんだけど』『二年生の
うっわ、やっぱり。思ってみそらは三谷を見上げた。意味深な視線に気づいて、三谷が「なに」と口の動きだけで言う。みそらはスマホの画面をそっと上に向けて、小声で「最後のふきだし、見て」と添えた。
三谷の視線が文字列をなぞる。三谷はめずらしく一瞬だけぽかんとし、それから苦笑とも困り顔ともつかない、なんとも言えない顔をした。気持ちはわかる、とみそらは心の中だけで言った。
そっとスマホを下ろし、美咲に『ありがとう』『あした葉子ちゃんに相談してみるね』と送る。そのみそらの頭の上で、三谷の大きな手が軽くぽんぽんとリズムを刻んだ。いつもの絶妙な力加減につい、早く家についてほしい、と切実に思った。
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