6

 三年にあがってすぐのことだし、何か進路についてだろうか。まさか退学などではないといいけれど、と正直不安がよぎる。急に経済状況が悪くなるということなどはままあるのだ。しばらく前までは今度の合同発表会で何を弾こうかと明るく話していただけに一転して胸がざわついてしまうのは、担当講師としては当然のことだった。

 けれど、顔には出さない。それくらいはやらないといけない。そうして約束の時間にレッスン室に入ってきた清川きよかわ奈央なおは、たしかにいつもより覇気がなかった。

「何かあった?」

 つとめてやわらかい口調で、いつものピアノ椅子に座った奈央に向かって言う。「うん」と小さく答えたきり、奈央はしばらく口をつぐんだ。葉子ようこは内心、これは本当に経済的に無理になったのかな、と本気で考え出した。学年あがってすぐだから特待生は論外だけど、どれか奨学金か、給付金がいまからでも申請できるものがあったら――

「葉子先生」

 奈央が口を開く。葉子は思考をやめ、黙って奈央を見つめた。奈央は顔を上げ、ほんの数秒言いあぐねるように膝の上のこぶしを握りしめ、そして言った。

「私、病気らしくて」

「――病気?」

 予想と違った言葉に、思わず葉子は繰り返した。お腹の底からぞっと震えが這い登ってくる。病気だなんて、予想よりもっと事態は悪いかもしれない。瞬間的に震えそうになる指先を葉子がぎゅっと握り込むと、奈央はいつもより硬い表情でうなずいた。

「最近ちょっとへんだなって思うことがあって。生理痛とか――その、調べたら症状にあてはまるものがいくつかあって」

 生理痛、という言葉で葉子はかすかに目を見開いた。え、――え? あれ? なんだこの――既視感って――まさか。

 さっきとはまた全く違う思考に頭がぐるぐるしてくる。葉子が内心で動揺している間にも、奈央は言葉を紡いでいく。

「それで、今年から就活の準備もはじめないといけないし、だから早めにケリつけようと思って、病院で調べてもらったら――子宮内膜症って言われて。あ、でもほんとは子宮内膜症じゃなくて、卵巣に腫瘍があるから」

 ビンゴ、と思った瞬間、口から言葉がこぼれ落ちた。

「チョコレート嚢腫のうしゅ?」

 奈央はそれこそ心底びっくりしたという表情で顔を上げた。「え、先生、なんで――」

「いや、なんでっていうか――」

 葉子は右手を頬に当てた。なんでも何も。さっきまでのひどい震えが少し落ち着いたのはいいが、代わりに軽くめまいがしてきた。だって――まさか生徒が自分と同じ病気を抱えるだなんて。どんなフィクションだ。それこそ漫画か何かなのか、わたしが今見ている景色は。

 当てていた手で軽く頬を叩く。ちゃんと痛い。夢ではないらしい。どんな因果が巡って来たんだろう。最近わたし、何か悪いことでもしたっけ。

 そう思って、――いやちがう、と葉子は思い直した。

 違う。そういうことじゃない。――わたしは、講師だ。

「奈央」

 葉子は少しだけ意識的に声を落ち着かせた。そして深刻すぎないように少しだけ表情を緩めて、正面に座った奈央を見る。

 言い当てられてびっくりしている清川奈央は、少し不安そうに自分を見ていた。黒髪を染めることなく、大人びて、それでも葉子から見たらまだ子どもの面影のある、二十歳の、大事な大事な生徒。

「落ち着いて聞いてね。――わたしもなの。わたしも、チョコレート嚢腫」

 奈央は人形のように固まった。不安の色も一瞬で消えた。それから数秒して急に動いた。

「えっうっそ、冗談だよね?」

「ごめん、まじなんだ」

「えっまじ? まじってなに?」

 普段は冷静にものごとを捉えるタイプの奈央も、さすがに動揺が隠しきれない様子だった。まじってなに、という言い方につい葉子が笑ってしまうと、奈央は少し葉子を覗き込むようにした。そして小さな声でまた言う。

「葉子先生、ほんとなの……?」

 葉子はうなずいた。もう――苦笑しかできなかった。全部話そう。

「ほんとよ。何の冗談かと思うだろうけど、わたしも卵巣嚢腫。わかったのは年始で、サイズは九センチ。だから手術も決めてる。生徒にはまだ誰にも言ってないから、黙っててね」

「ほんと……なんだ」

「そー。ほんとのほんとよ」

 半ば呆然としたような奈央の言葉に、肩をすくめて葉子は言い、それからひとつ息を吐いて椅子の座面に手をついた。

「この病気、妊娠できる可能性がある年代であれば若年層でも可能性はあるし、子宮内膜症自体だと十人に一人くらいの確率でかかるって聞いてたけど、実際にそんなにいるのかなって思ってたんだけどね。ほんとにいるのね、っていま、ひしひしと実感しております」

「ええええええ……」

 奈央は顔を覆った。落ち込んでいるというよりも、肩の線を見る限りやっとびっくりの状態から開放されたような声だった。

「私もそれ、たしかに聞いたけど……まさか自分の先生がなってるとか思わないじゃない……」

「そうだよねえ」

 つい笑ってしまって、葉子はぽんぽんと奈央の膝をワンピースの上から叩いた。

「わたしだって世間が狭すぎてびっくりしてるよ。――MRI撮った?」

「まだ……」

 ということは診断されてまだ数日ほどということだろうか。葉子は自分のことを思い出しながら口を開いた。

「『悪い顔』っては言われなかったんでしょ? まだ行ってないってことは」

「わるいかお?」

「悪性だと形が悪いらしいのよ、エコーでもわかるくらいに。でもエコーで見ても丸いってわかるんだったら、おおよそ良性だって。それに、悪性の可能性があったらMRIにすぐ行けって言われるはずだし」

「……たしかに、そういうこと言われたかも」

「奈央でもうろ覚えになることってあるのね」

「なるよ。調べていってても、ほんとうにそうだったらびっくりするよ。……先生はならなかったの」

「正直、体調不良の原因がわかってまじでスッキリしたって思ったし、手術したらウエスト減るかもってちょっと期待もしてる」

 葉子が本当に正直に言うと、奈央は一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。

「やっば、まじで葉子先生強すぎる、最高」

 その溌剌はつらつとした表情は、いつもの清川奈央だった。こういう奈央の表情がとても好きだと、葉子はいま、改めて思った。

 いつものレッスン室。でも、いつもどおりではない会話。でも、いつもどおりのわたしが――清川奈央の担当講師である自分が言うべきことが、いま、絶対にあるはずだ。ふいにそう思う。奈央のいつもの顔を見れば見るほどにそう思った。

 彼女はまだ三年生に上がったばかりで――自分が学校を一旦離れた頃と年齢が変わらないということを思い出す。――なんて、なんて細い肩で、この大きな楽器と、その大きな出来事を背負おうとしているのだろう。そう思えば思うほど、愛おしさがこみあげてくる。

「奈央、提案なんだけど」

「うん?」

 首をかしげて促すと、奈央の黒髪がさらりと流れた。親や友人たちに大切にされているのがその仕草からでもわかるような子が、この清川奈央だ。

「レッスン、もういっこ増やそうか」

「……今年度から外部レッスンを増やそうとする私に、まだ増やせと?」

「マジレスだ」

 生徒の返事に今度は葉子が笑う羽目になる。グレード取得は学内だけのレッスンではとうていカバーできない。そのため、それこそ財団に所属している講師などにプライベートレッスンに行く生徒も多い。奈央もそれをしっかり準備していると聞いている。

「ごめん、あのね、わたしを参考にしたらどうかなと思って」

「先生を参考――って?」

「まだ手術だって決めてないでしょ? だったらわたし、八月に受けるから、その様子を見て、奈央も考えてみてもいいんじゃないかなと思って。手術の必要があればだし、そうだとしても急がないなら、だけど」

 奈央はびっくりしたように目をみはった。否定しないところから、手術を勧められたのだというのはなんとなく察しがつく。葉子は続けた。

「ほかにも気になることあるでしょう。手術のお金とか。あ、そうそう、薬ってどれかもらった?」

「ええと、ディナゲスト……のジェネリック」

「あ、やっぱり同じ。けっこうあれ飲んでる人多いみたいね。副作用はある?」

「まだ生理が来てないから飲んでない。先生は?」

「わたし、ほとんどないのよ。けっこう検索すると太ったとかいろいろ出てくるけど、たぶん、ちょっと痩せた」

「えっほんと?」

 わかりやすく身を乗り出した奈央に葉子は笑いかけた。奈央は標準的な体型――むしろそれよりも痩せ方になるだろうけれど、薬の副作用というのにも少なからず抵抗はあるだろう。自分の診察のときよりもよっぽど正直な反応だ、と好ましく思う。

「ほんと。たぶんちょっと腫瘍が小さくなったり、ホルモンバランスが変わった分なんじゃないかなと思うけど……人によるだろうからね、奈央もそうだとは限らないってことは憶えておいてね。で、つまり――レッスンの意味、わかった?」

 はっとして奈央が見つめ返してくる。

「もしかして、こういう、情報交換とか……?」

「そう、よくできました」

 葉子はにっこりとほほえんだ。我ながら先生然としている、と思うけれど、これが一番いい――一番心強く見えるのだ、生徒にとっては。

「先に見つかった分、わたしが先を歩くから、そこから得た情報をもとに奈央はいろいろ考えていくといいと思うの。違うことを選んでもいいし、とにかく自分に必要な情報をピックアップして、自分のために使って。――これってレッスンと同じだと思わない?」

「……そうだね」

 奈央はかすかにほほえんだ。それから正面に座る葉子のほうへゆっくりと手を伸ばしてくると、そのまま葉子の肩に顔をうずめる。こういう奈央を見るのははじめてだったけれど、それでいいような気がした。

「ありがと、先生」

「うん」

「親に言うの、どうしようって思って、つい先生にメッセ送っちゃった。ごめんね」

 三年に上がってすぐの時期だ。これから就活にも練習にも本腰を入れようというときに、地元の親に心配をかけたくはなかっただろう。それに、就活自体に影響が出ると考えたかもしれない。葉子のようにすでに仕事があって、そこの理解を得られた――得られたというよりもただ事実確認のやり取りをしただけだけれど――その足場もない学生の身で、どれほど怖かっただろうか。そのときに頼る相手として選んでくれたことを、葉子はほんとうに嬉しく思った。嬉しくて、そしてありがたかった。

 背中に手をのばす。ぽんぽんと軽く叩く。肉付きの薄い、触れるだけで若いとわかる背中だった。

「結果、大正解だったでしょう?」

「うん、大正解。まさかおんなじなんて思いもしなかった」

「それはわたしもよ。だからわたしも心強いんだよ」

「そっか、先生もそうなんだ」

「そういうものです。たまたま先を歩いてるだけで、そう変わらないよ」

「うん……」

 奈央はそう言うと少しだけ黙った。それから「私ね」と言った。

「葉子先生みたいな先生になるのが夢なの」

「――わたし?」

「うん」

 自分のどこが参考になるんだろうと思った。小野先生ならもしかしたら、今回のこのやり取りだって「踏み込みすぎだ」と渋い顔をするかもしれないのに。

「だから、ちゃんと治すよ」

「うん」

 葉子がうなずくと、奈央は顔を上げた。かすかに目が赤いようにも見えたけれど、それでもその白い頬に赤みがさしたのを認めて、葉子は微笑んだ。それを見た奈央もつられたように微笑む。奈央のうしろに広がる窓からの景色は、春の色を帯びて爽やかだった。

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