2-2
(承前)
楽譜を生徒用のピアノの譜面台に置く。今日は三冊だ。三年生から副科ピアノは選択制になったけれど、やめる気なんか毛頭なかった。ただひとつでも、先生との時間を取りこぼしたくなかった。ああでも、みっちゃんもこういう気持ちなのかな、だから言えないんだとしたら、それはとても共感できるものだと思う。
「
柔らかい声が耳をくすぐる。右側に座る
「や、ちょっと、去りゆく先輩って、なんもできないもんだなと思って」
「なに言ってるの」
呆れ混じりの即答だった。
「颯太がいなかったら、みっちゃんはみっちゃんでいられなかったよ。わたしが保証する」
――颯太は颯太の音楽から逃げるな。
あのとき聞いた音と、今の音が重なる。今の自分があるのがその言葉のおかげだったように、もしかしたら
ここにいれば、先生と生徒でいられる。ずっとそれでいいとも思ったこともある。何より、先生は「先生」だ。制約がある立場なのも、その足場がとても脆いことも理解していた。だから先生が「先生」になっていったのは、自分のせいなんじゃないかと勘ぐりたくなるときは何度もあったし、今でもひそかにそう考えている。
だから、たまに
みっちゃん。心の中で呼びかける。みっちゃんさあ、でも、今すぐにそこにあるなら、そこに制約がなくて、そして音楽があるなら、飛び込んでみていいと思うんだよ。だって音楽があるじゃん。自分たちはいつも、音楽でしかつながってなかったじゃん。だから大丈夫なんだよ。音楽はぜったいに裏切らないから。
――だから、わたし、その選択肢はもうないの。それでもいい?
数ヵ月前に聞いた葉子の声がふいによみがえる。いいも悪いも、いいしかないならいいでよかった。それしか選択肢が、自分にもなかった。葉子をつかまえられるのが音楽ならそれでいい。
「さ、それよりも、今日はどれからやりますか」
葉子が言う。疲れていそうなのに、それでも音楽を前にしたら目を輝かせる、そんな大人が葉子だ。十歳年上というのは詰まることのない距離ではあるけれど、そういう大人がいるという喜ばしい証明にも見えた。そうなりたいと、先生を見ていればいつだって思える。
――ああ、そうだといいな。颯太は思う。
いつになっても音楽を前にしたら、自分の気持ちに素直に、その出会いを喜べる人に、他人の目には映るといい。
そう思って、ふと気づく。だとしたら。
だとしたら、「管の特待の人」って、すごく光栄なことだったな。特待生は暫定学年一位の肩書じゃなくて、音楽と向き合ってその証明を得た人。だと思えば。
視界のすみっこで銀色の光がゆれる。指輪をつけたりはずしたりするのは葉子のくせのようだった。ピアノ専攻だからだろうか、楽器を目の前にすると無意識に外したくなるのかもしれない。
右手が左手にある指輪を外してはつけ、つけてはくるくると回し、また外しては隣の指につける、なんて繰り返しているので、つける指が――かすかに四の指がふるえるのがわかる。でも今は、そこにふれられない。ふれていいのは鍵盤だけだ。ここには音楽が――この世のすべてがあるのだから。近道なんてない、ただ一歩一歩進むしかない道があるのだから。
「まあ、順番どおりにハノンにします」
「あ、じゃあ
すぐに葉子が言う。
今日がゆっくり閉じていく。自分の時間も、ゆるやかに、そうとは知らずにひっそりと閉じていく。それが生きることだからだ。でもその中に音楽があれば、――葉子がいれば、生きる価値がもっとある。そう思うことは他人には見えなくても、ただ自分が
[四の指がふるえる 了]
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