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(承前)


 ファンだ、と、言われてはじめて、その場所をほんとうの意味で好きになることだってあると思う。三谷みたにとのことはそうではないけれど、無意識のうちになおざりにしていたものがふいに大切に思えてくるようなことは、誰にだってあるんじゃないだろうか。きっと、今、日本のどこかでアイドルの肩書を背負って、誰かの視線を奪っている人たちだって、そういう瞬間があるんじゃないかと思う。

 誰かがいるからここにいれるということを、自分たちは身をもって知っている。――音は振動だから。ひとりでは聞こえないものだから。

 だからよけいに、一緒にいたらいいのに、と思う。でもそれを決めるのは二人であって、自分じゃない。自分があきらめなかったからといって、誰かにそれを押し付けることはできない。

 以前のような、圧倒的な濃度をもつ練習時間ではもうなくなった。それは「勝つべきもの」が少なくなったためでもあるし、そうしなくてもいいほどの信頼が築かれたという証拠でもあった。三谷夕季ゆうきとの時間はどこか、提示部にはなかった休符がうまれた再現部のようにも思えた。――自分たちが主役であった時間が閉じていく、そんな場面に近い。

「じゃ、そろそろ行くね」

 パイプ椅子から立ち上がる。時計の針は五限の十五分前をさしていて、移動の合図だった。一方で練習室の時間はまだその倍以上残っていて、その時間、三谷が自分の練習時間にあてるのもいつものことだった。

「はい、また」

「うん。なんか突発的なこととかあったら連絡する」

 後輩に見送られながら練習室を出る。今日もまともなこと言えなかったな、と反省しながら、階段へと歩いていく。肩に乗る重み――楽器の存在はもう、ないほうがおかしいくらいに体になじんでいる。

 歩きながら、そもそも、と思う。そもそも方向性が一致するほうがめずらしいのだ。最初の伴奏者であり、いまでも親友である藤村ふじむら六花りっかと、その恋人の菊川きくかわ一夏いちか。二人は高校のときに知り合ってこの大学へ進み、六花りっかは二年生が終わると同時に他大学の作曲専攻へと転学、一夏いちかは二年生の途中でドイツへ留学した。距離は離れていてもいまだにその関係が壊れていないのは、二人にとって互いが最高の「音楽」だからだ。

 何も悩まずに離れた、というわけじゃなかったことを颯太そうたは知っているし、葉子ようこも知っている。それでも二人はそうだった。ただそうだっただけだ。音楽をやる、いる場所が違う、でも、向いてる方向が同じ。それだけのことだ。

 だから、と思う。みっちゃんと山岡さんだってそうじゃないのかな。自分たちは天才とは違う、って言いそうだけど、同じ方向を向いているように、俺には見えるんだけどな。

 練習棟を出ると、日が短くなった構内はもう夕暮れの色に沈みつつあった。空が遠く、茜にそまって、風が吹き抜けていく。空が高い。とても。そして広い。とても。白く刷毛はけでなでたような雲が、どんどんと流されていく。ああ、冬の曲が呼んでるな、と思う。冬の曲というよりも、北の曲。シベリウス、チャイコフスキー、ラフマニノフ――

 そういえば葉子先生はラフマのコンチェルト、二番が好きだって言ってた。ハ短調。鐘の音とともに深く沈む内省からはじまり、幾度もの葛藤を超え、最後には歓喜に打ち震える、そんなラフマニノフの名曲。

 五限目ともなると、後期の校内は自然と人が少なくなっているようだった。誰もがこれからは家にこもる時間になる。それは寒さゆえではなくて、ただ己と向き合うためだ。己と向き合って、音楽と向き合って、そうして一音を、一音の値打ちを、自分の値打ちを、世界との同調を、宇宙との調和を、一歩一歩、たしかめるように歩いていく。そういう意味では、ロシアの夜のとも似ているのかもしれなかった。行ったことはなくても、ロシア人作家の小説を読んだり、それこそ曲を聞けばわかる。

 階段をのぼっていく。ここをこうやってのぼるのも、あとどれくらいだろう。めんどくさいな、とか、最初の頃は思っていたはずだったのに。白い壁を見ながら一段一段のぼっていく。それは夜とおなじだった。夜、自分と向き合うほかの生徒と同じように、自分もこうやって一歩ずつ階段をのぼる。――好きな人に会うために。

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