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 休憩をはさみ、二時間弱ほどで演奏会は終わった。二度ソロで出る人もいれば、先輩のように四重奏を演る人もいた。飽きさせないプログラム構成はとても勉強になった。知らない曲も多かったけれど、その「知らない」を超えてくるのがプロだ。

 終わる頃には頭の中にはたくさんの情報が詰まっていて、一晩では消化しきれないかもしれないな、と思う。まずは登録しているサブスクに今日聞いた曲があるかどうか確認して――と思いながらロビーに出ると、たくさんの人とその高揚したざわめきの向こうに、秋の空を見た。――今度は茜色だった。

 いつの間にか足が止まっていて、後ろから来た人がぶつかる。「すみません」と言ってみそらは足を進め、先ほど座ったベンチに腰をおろした。はっとしてスマホを取り出し、画面に自分の顔を写す。――さすがウォータープルーフ、目に見えるほどの化粧くずれはない。

 ほっとしたところで「みそら」という声が聞こえる。顔を上げると葉子ようこがいた。隣には江藤えとう先輩がいてひらひらと手を振っている。みそらは立ち上がってふたりのそばへ移動した。

「本日はお招きいただき、本当にありがとうございました」

 みそらがしっかりとお辞儀をしながら言うと、先輩は声に出して笑った。

「どういたしまして。お花もありがとう。誰からもらったのって言われたから、先生と後輩からですって思いっきり自慢してきた。緑の花ってカーネーション?」

「はい」

「やっぱりそうなんだ。寒色系でもあんなに明るい色になるんだね」

 先輩が関心したところで葉子が「ちょっとごめん」と言った。どうやら知り合いが呼んでいるようだった。葉子を見送り、先輩はもう一度みそらに向き直った。

「どうだった? 演奏会」

「めちゃくちゃおもしろかったです。無伴奏もそうだったし、先輩が出た最後のカルテットとかも。音域も幅広いんだなと思いましたし、トロンボーンだと現代曲の小難しさみたいなのも、聞いてるうちにちょっと忘れられるというか」

「ああ、声楽ってけっこう古典だもんね、曲自体が」

「そうなんです、レスピーギくらいになるともっと現代曲らしくなりますけど」

「なんかどうもうちの楽器って古典とか、まわってジャズくらいのイメージが強いのかなと思っててさ。校内からでもいいからもうちょっとそのへん浸透したらいいなとは思ってんだけどね」

 先輩の口ぶりでふと思い出す。校内でも学生企画として演奏会を行うのは自由だ。そして先輩の名前がそういったポスターにあり、その中に四重奏などがあったことを思い出して、――うわ、やばい、わたし、先輩の狙いが理解できてないまま聞きに行ってたのか。いまさらながら恥ずかしくなってきた。

「ソロ、どうだった?」

「――先輩のですか?」

「うん、そう。山岡さんの意見聞きたいなと思って」

「ハードル上げないでくださいよ」

 先輩の口調は軽やかだけれど、それが逆にプレッシャーだ。いいからいいからと先輩は気にせずに続きを待っているので、みそらは首をひねりながら感想を引っ張り出す。受けた感覚の言語化というのは何度やっても難しい。

「これはわたしが三谷みたにを知ってるからかもしれないですけど、――まず曲が三谷に合ってるなと思いました。フランスものっぽいかなと思って」

「ご明察。あれの作曲者、フランス人だよ。どちらかというとイタリア寄りの生まれらしいけど」

「本当ですか」

「まじまじ。地中海がわだったかな。だからフランスものど真ん中ほど鬱屈してないところはあるけど」

「ああ……」

 みそらはうなずいた。

「ちょっと明るいですね。海辺でまどろんでるような、そんな明るさがある気がして。とても先輩らしい選曲だと感じました。それが三谷の伴奏と合ってて、……楽器はふたつだけど、もう一本の音に聞こえるので……」

 みそらは一度口を開けて閉じて、それからもう一度開けた。

「……ちょっと、妬けました」

 先輩は案の定びっくりしたのか、何度かまたたいてみそらをじっと見た。ほんの三秒ももたずにみそらは両手を顔の前に出して視線を遮り小さくなった。

「すみません今のやっぱりなしで……」

「ああ、いや」

 先輩はすぐに言った。

「俺、山岡さんのことわりと好きなんだけど、その理由がわかった気がして」

 思わず疑問符を浮かべて顔を上げると、先輩は屈託なく笑う。

「みっちゃんのことが好きなの、おんなじなんだよね、俺と山岡さんって」

「は――」

「なんかちょっと気をもんでたけど、心配しなくてよさそう。よかったよかった」

「え、なんのはなし……」

 みそらが勝手に自滅している間に先輩はなぜかうれしそうに納得して、なにかに一段落つけたようだった。みそらが戸惑っていると、もう一度先輩は笑った。今度はなんだか――葉子のような笑い方だと思う。

「ごめんね、院のこと、びっくりさせて」

「あ、いえ――」

 思わず言葉につまる。先輩が謝る理由なんてどこにあるのだろう。

「みっちゃんとは最初から、卒業までの約束だったんだ。でも山岡さんのおかげで、余計にさびしくなったし、みっちゃんと組んでよかったなってあらためて思えた。推薦してくれた葉子先生と小野先生のおかげでもあるけど、でも選んだのは自分だから」

 人のざわめきが聞こえる。その中でもとびきり、先輩の声は魅力的だった。やわらかくて心地よくて――先輩の楽器の音とよく似て。

「肯定してもらった気がした。ありがとうね」

 まつげがまたたいて、心臓が鼓動を大きく打つ。けれどそれ以外は動けない。数秒経って、みそらはやっとの思いで首をゆるゆると横に振った。

「……ファンは、勝手に好きになるものですよ」

「うん、知ってる。でもそれに応えきれないと、好きでい続けられないのも知ってるよ」

 だからさ、と先輩は続ける。

「山岡さんもみっちゃんと、ファンにたくさんよろこんでもらってね」

 花を贈ったのは自分のはずだった。でも――自分こそはなむけの言葉をもらったような気がして、みそらは引っ込んだはずの涙がまたふくれそうな気がして、ぐっと腹筋に力をこめた。

「……さっきからハードル高すぎませんか」

「そんなことないよ。もう下級生にもふたりのファンが居るっぽいの知ってるし」

 みそらは口をつぐんだ。たしかに――たしかにそれっぽいのがいる、というのは聞いたことがある。ただし聞いたことがある程度だ。そんな心の声が聞こえたのか、先輩はすこしおかしそうに笑った。

「もうちょっと自信持っていいと思うけど」

「……木村先生にうぬぼれるなって言われそうで」

「ああ、言いそう。木村先生もおもしろいよね」

 笑って、先輩は真面目な色をにじませてみそらを見た。

「大事なものがあったらさ、できる限り、手を離さないほうがいいよ。これは先輩からのアドバイス」

 どういう意味だろう、とみそらが口を開きかけると、「先輩」という聞き慣れた声がした。見るという動作を感じる前に、体が自然とそちらを見る。三谷夕季ゆうきの音だと、体がもう知っている。

「山岡もここにいたんだ。すぐ帰る?」

「ううん、葉子ちゃんとちょっとお茶か、夕飯まで一緒にしようかって話してる」

「じゃあチャット送るから、あとで見といて」

 みそらがうなずくと三谷は先輩に向き直った。

「山本先生が集合写真撮るって言ってますけど、戻れますか?」

「うん、大丈夫。六花りっかは?」

「写真終わったら帰ろうかなって言ってましたけど」

「えー、六花ほんとそういうところドライだよね。品定めは終わりましたってか」

 六花とは三谷の前任である藤村ふじむら六花先輩のことだろう。聞きに来てたのか、と、江藤先輩との変わらない仲の良さを思う。

「じゃあ、山岡、またあとで」

「うん」

「ありがとね、山岡さん」

 先輩は向こうを向きかけ、――ふと足を止めた。三谷に「先に行っといて」と言って、もう一度みそらと向き直る。

「ディプロマに受かってからだけど、引っ越そうかと思ってて」

 なぜここで引っ越しの話を、と思ったけれど、なるほどとも思う。ディプロマ・コースのレッスンは年二十回ほど。つまり二週間に一度ほどしか学校には来なくていいので、もっと交通の便がいいところに引っ越すということなのだろう。みそらたちの学校は、都内でもまあまあ奥地にあると言っていい部類だ。

「で、たぶん、次に住むの、このあたりになると思う」

「そうなんで――」

 すか、という声は声帯を震わせる前に消えた。たしかにこの駅には他の線への接続もあるし、動きやすい場所だろうけど、――あれ? もしかして、あれ? んん?

「じゃ、またね」

 みそらが引っかかっている間に、あの日の朝のようにさっと先輩は歩いていってしまった。いやでも、え、何いまの思わせぶりな言い方。それをわざわざ、しかも今言うってことは、もしかしなくても。え、――まじで?

 みそらが混乱しながら反芻していると、「どうしたの」という声が耳をくすぐる。

颯太そうた、もう戻ったの?」

 入れ違いに葉子が戻ってきた。ヒールの高さですこし目線が高くなる葉子を見つめて、みそらはまだ自分が言葉を失ったままなのを感じた。そっと葉子の肩に手を伸ばし、そのままぎゅっと抱きつく。

「どうしたの」

 みそらが肩口に顔をうずめて首を振ると、ふふ、と葉子は軽く笑ったようだった。突き放すこともなく、そのままみそらの背にとんと手が触れるのがわかる。

「演奏会、楽しかったね」

 葉子の甘いにおいを感じながら、うん、と小さくうなずく。いろんな感情が渦巻く中で、二つじゃなくて三つだったんだ、とみそらは思った。学年も専攻楽器も違う、みそらと江藤先輩の共通点。

 副科ピアノの門下が同じこと、伴奏者が同じこと、そして――その伴奏者の三谷夕季を、それぞれの思いで、大好きなこと。

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