5

 部屋に戻ると時間は五分ほど過ぎていたけれど誰も待っていなかった。片付けている間にもノックがなかったので、もしかしたら次の予約がなかったのかもしれない。

 先輩に言われたさまざまなことが脳内を走っていって集中できる気がしなかった。みそらは予約を更新せずにおとなしく部屋を出ながら考える。

 ほとんど慣れだけで、ぼんやりとしたまま四号棟に来ていた。春休みに片足を突っ込んだメイン校舎は閑散としていて、期末の色をまとっていた。その様子をしばらく眺めていると、なんだかふいに漠然とした不安に襲われる。校舎の中にいるのは一人きり――そんなわけはないのに無性に無音が耳についてならなかった。

 ふと音が聞こえて無意識に顔を向けると、ガラス扉が開いて一人の女性が入ってくる姿が見えた。その人はロビーで佇んでいるみそらにすぐ気づいて、「みそら」と呼んだ。

「どうしたの、練習帰り?」

 葉子ようこの声はほんのわずかに低めだ。はっきりメゾ・ソプラノに分類するほどではなく、たぶん振動が低いほうが伝わりやすいのではないか、とみそらは今日も思った。胸の深いところを押してくる、――ピアノの中低音のような音。

 みそらは「うん」と返事をし、そうして思い出した。

「あ、葉子ちゃん、こないだ借りたCD――」

「いいよ、来年度になっても」

 みそらの言葉の先を読んで、葉子はにっこりと笑った。それにみそらも苦笑してうなずく。後期の授業は終わっていて、もちろん副科ピアノのレッスンも同じだった。

 今日もきれいだなあ、と素直にみそらは思った。以前「ポーズだよ」と言っていたけれど、葉子の格好や雰囲気などは高校生の頃にイメージした「音大の先生」にとても近い。きれいに染めた長い髪やくどくない化粧、学生よりも垢抜けた服装、高いヒールでも変わらない足音。

 ポーズをポーズだと思わせない葉子の雰囲気には専攻が違うとしても憧れるものがあって、先輩の気持ちがわかないわけではない――とみそらは思った。

「どうだった? CD聞いてみて」

「ああ、――なんか、解釈の多さにびっくりした。おんなじスケルツォって言っても、ピアニストによってぜんぜん違うんだね」

 解釈というのが個性につながるということは楽器が違っても同じだ。けれど、ほんの二、三人ほど聴いただけでまったく「あたらしく」聞こえるというのには驚いた。聴いたことのある曲、というよりも、もう一度出会う、に近い気がしている。

 みそらの言葉に、葉子は嬉しそうにうなずいた。

「そうだね。何枚か聞くと、演奏者と合う、合わないももうわかると思うから――」

 葉子の声を押し流すように冷気が流れ込む。さっと頬をなでた風に「山岡?」という声が乗ってきた。

「あれ、今日のって、山岡もだったっけ?」

「今日の?」

 みそらがそう聞き返すと、歩いてきた三谷みたにはほんの一瞬だけ目を見開いた。それをみそらは見逃すことはなかったし、当然ながら担当講師である葉子が気づかないわけがなかった。

「みっちゃんが墓穴ほってるの、めっずらしい」

 葉子は遠慮なく笑い出す。それをどこかうらめしそうに見て、三谷はみそらを見た。

「なに、ほんとにたまたま?」

「そうだよ。なんでわたしがいると思ったの?」

 純粋に不思議だったのでみそらが聞いてみると、三谷は小さく「そんなの俺が聞きたい」と言ったようだった。葉子はまた笑った。

 二人は明言しなかったけれど、みそらには三谷の言葉から抜けていた単語がなにか、すぐわかった。時期的にも間違いない――江藤先輩の特待生試験対策の伴奏のレッスンがあるのだ。

 レッスンという単語に触れずにいるのは、今からやることが正規のスケジュールの中にないからだ。コンクールや大きな試験前などに、自宅などに生徒を招いて行われるレッスンは実は少なくはない。正式なものではないからみんな黙っているだけで、学校側も黙認していることは、みそらももう学んでいる。

 本当に、なんでわたしも呼ばれたんだとか思ったんだろう――と思いながら、みそらはふと首をかしげた。

「――ほんとに見ていってもいい?」

 思いつきだった。ほんの数秒前まで考えもしなかったことが目の前にある。思いつきと言うよりも、もしかしたら衝動に近かったかもしれない。

 葉子はびっくりしたように何度かまたたいたが、すぐに横に立つ弟子を視線だけで見上げた。

「どう?」

「いいよ、先生が大丈夫だったら」

 三谷は即答だった。それにまた「わたしは大丈夫よ」と返し、葉子はみそらを見て微笑んだ。

「決まりね。じゃあ行こうか」

 みそらはほっとしてうなずいた。思いつきにしては突拍子もないかと思ったのだ。

 一時期、ほんと受けるのやめようかなって思ったときもあって、――と、先輩は言っていたような気がする。それはもしかすると、学校をやめるという選択肢もあったということだろうか。

「どうかした?」

 三谷が言うのが聞こえた。みそらは見慣れた友人の顔を見上げて、ふと思った。知らなかったのだろうか。一年間一緒にいて、それで知らなかったとは――思えなかった。

 みそらが口を開きかけたときだった。

「おーい、行くよ?」

 葉子の上で、一階を示したエレベーターのボタンが点滅している。反射的に「はい」と言ってしまい、みそらは自分が何を言いたかったのかすっかり忘れてしまった。

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