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 揺らめく水面、香る水のにおい、水滴のきらめき、移ろう色味――そして混じり合う狂気。景色、背景、世界観がそれまでとまったく変わってしまう圧倒的な音楽――解釈と技術に飲み込まれ、細胞ひとつひとつまで侵食されるような――

 三谷みたに夕季ゆうきの演奏をちゃんと聴いたのは、一年生のはじめの頃にあったピアノ専攻の小野門下・羽田はねだ門下の合同発表会だった。羽田葉子ようこが元小野門下ということもあり、全学年の顔合わせのような会だった。小野門下の演奏会としてはめずらしくオープンなもので、副科生も入っていいとのことだったため、みそらも誘われるまま興味本位で足を運んでみたのだ。

 そこには当時二年生だった菊川きくかわ一夏いちか藤村ふじむら六花りっかもいた。講習会以来にまともに聴いた二人の音は、本当に凄まじいものがあった。

 それとは別のところでみそらが驚いたのが、同学年の三谷夕季だった。

 他のところで伴奏を聞く機会が先にあった。その時は伴奏だったためか、とくに主張のない音楽なのかな、と思っていたが、出だしを聴いただけでその考えは砕け散った。

 ――トランスフォームした。

 そう思ったあの瞬間の感覚、あのぞっとするようで、そして本物の羨望を、みそらはいまだに忘れていない。あまりにもびっくりしたので、専攻が違うにもかかわらず曲名も覚えた。ドビュッシーの「映像」第一集、第一曲、『水に映る影』――聞こえた音にまさに体ごと持っていかれた。

 なんだこれ、こないだの伴奏って手抜きだったのか。そう思いかけて、すぐに思い直す。

 ちがう、そうではない。あの時の伴奏は、あの歌い手の伴奏としてまったくの正解だった。歌い手を引き立てるための、意図的な自己主張のなさだったのだ。

 みそらは思わずまじまじと舞台上の同級生を見直して思っていた。となると、これが本来の三谷夕季か。

 曲から受ける圧倒的な色彩。その源泉となる内に秘めた狂気――音楽家なら誰しも持っている陰の部分を三谷夕季もまた確実に持っていた。誰にも真似できないほどの、それは彼特有の、匂い立つような音の色気だったのだ――

「あれ、山岡さん?」

 声をかけられてびっくりして振り向く。みそらのいる三階のロビーの廊下側に、先日と同じように楽器を抱えた江藤えとう先輩がいた。

「今日は一人?」

 自分が考えていたことがまた、そのまま相手から出てきたことにみそらは少し笑いこぼしてしまった。

「はい、家でやるとだらけちゃうんで」

「あーわかる、俺も」

 笑ってうなずく先輩の様子には、後輩を妙に気遣うとか、自分が上だとかそういう色はまったくなかった。先輩は楽器を肩から下ろすと、「横、いい?」と言った。時計の短針は五十分を指しているので、まだ予約している部屋に入れないのだろう。みそらはすぐにうなずいた。

「みっちゃんとは、あとであっちの家でやるんだけどね」

 隣のスペースに腰を下ろす先輩の横顔を見ながら、何を言おうかとみそらはほんの少し悩んだ。

「今年の曲って、どんな曲なんですか?」

 当たり障りのない話題にしてはぼやけた質問だ、とみそらはほんのちょっと後悔した。かといって「順調ですか」などと聞く勇気はなかった。

 先輩は少しだけ考えたようだった。特待生試験についてということはすぐにわかってくれたらしい。

「ハ長調だけど一筋縄じゃいかない近代曲……とかかな。なんかベタだった、ごめん。でも短いけど三楽章あるから飽きないと思うよ」

 持ち時間は十分から十五分ほどだったと記憶しているが、その中で三楽章あるのか。特待生の予選は非公開のため、生徒が見れるのは今度の本選のみだ。

「あと、昔、葉子先生も伴奏やったことあるって言ってた」

「へえ……」

 先輩の言葉はどれも具体的ではなかったけれど、興味をそそられるものが多かった。絶対に本選には行こう、と思い直したところで――ふと肩から力が抜けるのがわかった。

「先輩って、恋してますか?」

 気づけばそう口にしていた。江藤先輩がきょとんとしているのを見て、みそらは今度こそ背中からどっと汗が吹き出すのを自覚した。

「す、――すみません、こないだ先生から、そのような注意を受けまして」

「あ、そうなんだ?」

 先輩は瞬いて、「先生って、木村先生だっけ」と言った。みそらが小刻みに何度もうなずくと、先輩は小さく笑った。

「なあんか歌科っぽいよね、そういう注意が出てくるとか。オペラの話もそういうのが多いからなんだろうけど」

「ですね……」

 言い訳に考えていたすべてのことを言われてしまって、みそらは思わず小さくなった。正直ものすごく恥ずかしいのだけれど、先輩はそういった感じではなかった。少しだけ黙ると、それから先輩は「してるよ」と言った。

「さっきの質問。してるよ」

 みそらは言葉を失った。逆に脳内では言葉が駆け巡る。そういえば、先輩、今つきあってる人いるとか聞いたことないんだけど、あれ、これはわたしの情報収集ミスなのか?

 先輩は窓の外を見た。みそらもつられたようにそちらを見る。あの日、木村先生の背景にあった色によく似ている気がした。

「来月末の特待生試験、入学前から数えると、もう四回目なんだけど」

「――はい」

 みそらは思わず背筋を伸ばした。

「あーやっと終わるな、と思って。なんか俺の大学の中心軸、結構これで構成されてたというか。うちの先生以外に師事する気がなかったから仕方ないんだけど、来月末の四度目で、やっと終わるなーって」

 先輩は独り言のように続ける。

「でも最初の頃は本当に面倒で。毎年受け続けないといけないし、一、二年の頃はまだ今ほど『獲れる』って気もしてなかったし」

 ということは今は獲れる気がするのだろうか、とみそらは頭の片隅で思った。三谷夕季と一緒に――まだパートナーを組んで一年の、みそらの友人と一緒に。

 練習棟のざわめきは途切れない。誰かがロビー横を通ったとしても、生徒が二人話し込んでいることなど気にもとめていないようだった。

「一時期、ほんと受けるのやめようかなって思ったときもあって。そのときに葉子先生に言われたんだ。あの人も特待生だったの、知ってる?」

 こちらを見ずに言われた言葉に、みそらは声に出さずにうなずいた。

「特待生なんてただの学内の制度だから、逃げてもなんの傷もつかない。けど、颯太そうたの音楽から颯太は逃げるな、って」

 みそらは黙った。葉子の言葉が葉子の声で聞こえるような気がして、そうして待っていると先輩は小さく付け加えた。

「――それからずっと好き」

 今度こそみそらはびっくりして目を見開いた。思わず開いた口から大きく息を吸い込みそうになって腹筋でそれを止めた。

「訊かれたからね」

「あ、――はい」

 絵に書いたように動揺している後輩を見て、先輩は屈託なく笑った。

「山岡さんて、みっちゃんに伴奏頼んだりしないの?」

 話を変えようとしてくれたのか、先輩はやわらかくそう言った。

「わたしですか?」

「うん。合うと思うんだけどな。実際仲いいし」

 みそらが返事をすぐにできないでいると、先輩はちらりと壁の時計を見たようだった。

「伴奏のリソースのほとんどを取ってる俺が言うのもなんだけど。四月になったら、先輩二人抜けるんでしょ」

 みそらは曖昧にうなずいた。そのうちの一人は、同じ木村門下の林香織だ。

「先輩一人のほうが練習しやすくないです?」

 思わず正直な感想が漏れてしまう。「そうなんだけどね」と同意を示してから、先輩は立ち上がった。

「山岡さん、かわいいから」

「――はい?」

 無遠慮な声が出たが、先輩は気に留めずに寝かせておいた楽器を抱えた。

「捕まえておきたくなるんだよね。なんだったっけ、こないだの学内選抜の――プッチーニの、あれもすごくよかったし。――そういう意味の『かわいい』だよ」

 そういう意味――音楽的に、という意味だろうか、とみそらが混乱しながらも考えていると、先輩は今度こそ楽器を肩に抱えた。

「葉子先生のこと好きじゃなかったら、あれにはちょっとぐらついただろうなと思ったし」

 さらにみそらがぎょっとすることを言って、今度こそ先輩は「じゃあね」と軽く手を振った。

「さっきの、考えといてみて」

「せんぱ……」

 言葉は先輩に追いつくことはなかった。みそらはほとんど呆然として先輩を見送る。通りすがりの生徒たちは、やっぱり誰も気に留めていなかった。

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